第二話
近畿地方は、面積の約半分が湖である。
淡水湖だ。淡い水がまるで海のようで――つまり淡海と呼ばれている。
淡海にはいくつか島が存在し、総称を四方神島という。淡海のほぼ中央に位置する御陵島、その東西南北にある青龍島・白虎島・朱雀島そして玄武島を中心に形成された小陸地の集団である。
「四方神島」の名前の由来は、この東西南北の四島にある。
東を司る青龍。
西を司る白虎。
南を司る朱雀。
北を司る玄武。
この四柱の神は方角の守護神であり、合わせて四神という。その名が冠されている四島が中心となっているため、「四方神島」と呼ばれるようになったのだ。
四方神島には、古くからそこを支配してきた一族がいまも住んでおり、島のあらゆる面に強い影響力を持っている。
青龍島総領、青龍園家。
白虎島総領、白虎殿家。
朱雀島総領、朱雀門家。
玄武島総領、玄武院家。
四家は縁戚関係によって複雑に絡みあい、近代化・民主化された現代においても、四島を統べ続けている。彼らの伝える古いしきたりが、島の文化を形成している面もある。
ただし、そうしたしきたりに納得できない者も当然いるわけで――。
「結婚なんかイ・ヤ・だ――ッ!」
「お・し・お・き・じゃ――!」
時系列は、一時間ほど前にさかのぼる。
今日も今日とてゴネたヒノは、おしおきと称して木に吊るされた。
「あーらら、また吊られたの?」
青龍園すみれが、白虎殿啓介をともなって、ヒノの様子を見に来た。
「むー! むむー!」
ヒノが吊られたのは、朱雀神社の境内にあるクスノキだ。樹齢七百年とも伝えられるクスノキは、大きく豊かに枝を広げている。
その太く逞しい枝に、ヒノが逆さ吊りになっていた。体をがっちり縛られている上に、猿轡までかまされていてはしゃべることさえできない。まるで逆さのミノムシだ。足首を縛った縄は、ちょうど井戸のつるべのように、枝を経て、クスノキの根元に固定されている。
「懲りないわねぇ、毎日毎日」
妖艶さを含んだ口調と仕草で、すみれは笑った。
「もーやめなよ。お祖父さんにはかなわないんだから」
「むー! むがー!」
啓介が言うと、ヒノは身もだえした。
「むみめー! めーむむー! むー! むむめー!」
「え~ヒノを下ろしたら、今度は僕らが吊られちゃうじゃないかー」
意味不明なことをうなるヒノに、啓介がのんびりとした口調で答える。
「もう高二なんだから、すこしは落ち着いたら? お姉さん心配だわ」
すみれは扇を取り出してゆっくりあおいだ。小さな風が、蒼みを帯びた黒髪をなでた。
「あ、そーだ。写メ撮っときましょう」
ぴろりーん。
軽い電子音とともに、ヒノの惨めな姿が携帯の液晶に収まった。
「むみめー! ももめめももー!」
「でもこれじゃ逆さになってるってのがわかりづらいわね」
「もうちょっと遠くから撮ってみたらどうかな? あ、横に僕が立つよ」
「なるほど、それならイケそうね」
「むーがー!」
「はいはい暴れないの~」
すみれはまた携帯カメラを鳴らした。
「若様! ああ、すみれさん、啓介さんも!」
袴姿の若い男が走ってきた。少し息が上がっている。神社前にある石段を大急ぎで駆け上がってきたらしい。
「あら、どうしたの?」
「喜代輔様がお呼びです。若様をすぐお連れするようにと」
「総領代が?」
すみれは携帯を閉じた。扇子を取り、クスノキに向きあう。
「むー! むがー!!」
「啓介、受け止めてあげて」
「はいはーい」
すみれは手を一閃させた。太い荒縄がブツリと切れる。なんと彼女は、扇子でヒノを吊り下げた縄を切断したのだ。
ヒノが落下し、啓介が受け止める。
ヒノはすぐさま荒縄を引きはがした。猿轡を吐き出す。
「ちくしょー……。あのジジイ、覚えてやがれ!」
ヒノ――朱雀門炎夜叉丸は、悪態をついた。
炎夜叉丸――通称ヒノは十六歳、新学期から高校二年生になる。赤味がかった短髪に、気の強そうな目元。キリッと引き締まった容貌は精悍でもあり、生意気そうでもある。
その生意気そうな顔を怒りにゆがめ、ヒノは屋外道場に駆けこんだ。
「ジジイ! てめぇよくもオレを――」
「静まれ」
「るせぇ! 毎日毎日古くせぇことを――」
「静まれ、と言っておる。あれを見よ」
ヒノの祖父、朱雀門喜代輔はヒノをたしなめた。
喜代輔に言われて、ヒノはふと道場の中心を見た。
伝統武芸たる朱雀紅蓮術の習練に使われる屋外道場は、土の庭にトタンで簡単な屋根をつけただけの場所だ。そこに、喜代輔の弟子たちが倒れている。
「ばーっはっはっは! この程度か!」
中心には、見慣れない中年男が高笑いをしていた。ヒゲ面で、むさくて、まるでクマだ。堅そうな木刀を片手に、見得を切っている。
「……あれは?」
「道場破りじゃ。この時代に、物騒なことじゃて」
すみれが扇子をヒラヒラさせながら入ってきた。
「それはまた、剣呑なことですねぇ」
「おお、おスミ。来とったのか」
「はい。こんにちは、総領代」
青龍園すみれは十七歳。高校は三年生になる。細身の体にすらりと長い脚。長いまつ毛を添えた切れ目は、彼女に妖艶な色気を与えている。ややウェーブのかかった髪は、前髪と耳の横だけ残していつも高く結い上げている。
「道場破りって……時代劇みたいだなぁ」
「啓介か」
白虎殿啓介は、ヒノと同じ十六歳。高校のクラスメートでもある。一八九センチの長身に、レスラーのようながっちりとした体つきをしている。いつも笑っているような目が、のんびりした雰囲気をかもしだしている。体と雰囲気のギャップが、不思議と彼を魅力的に見せる。
「で、何だって道場破りなんかいるんですかー?」
「突然押しかけてきおってのー」
あっけらかんとした喜代輔に、ヒノが食ってかかる。
「何で入れたんだよ!」
「おもしろそうじゃろ?」
「おもしろそーで、弟子に怪我させんな! この因業ジジイ!」
倒された弟子らが、ほかの弟子らの手によって救出される。
道場破りは、芝居がかった動作で喜代輔を指さした。
「ワシの腕前、見たかぁ! 朱雀門喜代輔、ア、次はお前じゃー!」
喜代輔以外の者が、ウッと一歩引く。
道場破りは調子に乗って、さらに啖呵を切る。
「どうしたどうしたァ! 臆したか、朱雀門喜代輔!」
「見てのとおり、ワシは爺じゃてな。老いさらばえたジジイに勝っても、お前さんの名誉にはならんぞぃ。かわりに、コイツとやれい」
喜代輔はヒノを示した。
道場破りは顔を赤くする。
「なんじゃ、その小僧は! ガキとやる趣味は――」
「ワシの孫、朱雀門家の次期総領じゃ」
「何ぃ?」
次期総領と聞いて、道場破りはヒノをまじまじと見つめる。
ヒノも道場破りを見て、眉を寄せた。
「待てよ、祖父様。オレ、素性も職業も手の内も知らない相手とやんのイヤだぜ?」
「ばっはっは、次期総領とやらは、武術をスポーツか何かと勘違いしているようだな!」
道場破りが大笑いする。
「勘違いしてんのはそっちよ」
すみれが肩をすくめる。
「あなたがここから出るとき、墓になんて書いたらいいか困るじゃない」
「何じゃとぉ! この小娘が!」
道場破りが怒鳴る。
すみれは平気な顔をしている。
「言うのお、おスミ! かっかっかっ」
「スミ姉、煽んない方がいいと思うけどなぁ」
喜代輔がからからと笑い、啓介が呆れた様子でため息をつく。
「どーでもいいから、ヒノ、とっととやっちゃいなさいよ。ミノムシ写メ、拡散しちゃいましょうか?」
「だーもう、わーったよ! やりゃいいんだろ!? そのかわり写メ消せよ!」
「勝ったら考えてあげる」
「消・せ・よ!」
ヒノは前に出た。
「着替える時間くらいはやるぞ? 普段着では動きにくかろう」
「ナメんな、おっさん。ハンデにしてやるよ」
「口だけは達者だな、小僧! 名は!?」
「朱雀門炎夜叉丸」
「……えらく古臭い名前だな」
「るせぇ! 気にしてることを!」
ヒノが冷静さを失う。道場破りがニヤリと笑った。
「ジジイ! こいつやっちゃっていいよな!」
「もちろんじゃ」
ヒノはシャツの袖をまくった。鍛え抜かれた腕があらわになる。
「素手か? ほかの連中は、籠手をつけていたようだが……」
「おっさん、意外に人を心配するんだな」
ヒノが構える。
「朱雀紅蓮術は、これこそ本領なんだぜ?」
「おもしろい。見せてもらおう」
道場破りも木刀を構えた。
「ちぇぇぇぇぇいッ!」
道場破りが木刀を振り下ろす。
ヒノが躱す。
木刀で突く。躱す。薙ぐ。躱す。木刀の攻撃を、ヒノは難なく躱してみせた。
「ほう……少しはやるようだな」
「おっさんも……。まともに当たったら骨折するな」
「ガッハッハ、我が剣は手加減せんぞ! たああっ!」
ヒノがすばやく飛び退く。木刀の間合いより遠くに。
「に、逃げるな!」
「アホか! 真正面から受けるわけねーだろ!」
ヒノは逃げる。ひたすら逃げる。
「おおおおのれぇ! 愚弄する気か!」
道場破りは怒りながら、すばやく踏みこんで間合いをつめようとする。
ヒノの足が、地面の小石にひっかかる。一瞬、動きが止まった。
「スキありぃ!」
道場破りがすかさず木刀を振り下ろす。
「――朱雀紅蓮術!」
「な――!?」
カァァン!
木刀が止まった。
ヒノの腕が、彼の頭上でクロスし、木刀を受け止めている。素手だったはずの腕は、真紅の籠手をまとっていた。
「い、いつの間に!? その籠手、いったいどこから……!?」
まるで手品だ。だが幻想でも安物でもない。籠手は確かな存在感と、頑丈さをそなえている。
「骨折するわけにはいかないんでね」
「待て待て! なんだその反則くさい籠手は!」
「知らなかったのか?」
ヒノは木刀を押しかえした。
道場破りは弾かれたようにたたらを踏む。
「し、信じられん。力が上がっている……!」
籠手はひじから指先までがっちり防御し、しかも鋭い爪がついている。
「これぞ、我が朱雀門家に伝わる朱雀紅蓮術の奥義!」
すばやく踏み込み、ヒノは腕を一閃させる。
「おう!?」
木刀が、宙高く舞いあがった。屋根に当たって落ちてくる。
道場破りの顔に、ピッと赤い線が走った。ツウ……と血が流れだす。
「な、に……!」
「紅蓮とは」
ヒノが笑みを浮かべる。鋭い爪をシャキリシャキリと鳴らす。
「対した者が、紅蓮の色に染まる」
鮮やかな、血の赤に染まる。
鋭い爪を持った朱雀が、斬り、裂く。
それこそが朱雀紅蓮術。彼らの血に宿る秘術。
「朱雀紅蓮術、散咲」
ヒノの両手が、まるで翼のように羽ばたいた。
「ぎゃああああああああああああああああッ!」
朱雀島の空に、野太い悲鳴が響き渡った。
初出:2015年乙未01月02日