人魚の歌は素晴らしい?そんなもの迷信です
海底で暮らす人魚は、滅多に陸には近づきません。あまり浮上もしません。
でも彼らの中にも変わり者はいるわけで、時折日向ぼっこーなんて頭の中がお花畑な発言をしては岩の上でのんびりします。
そこを人間に目撃され眠っているうちに捕えられる人魚なんてよっぽどの間抜けです。
馬鹿です、阿呆です。末代までの恥です。可愛がってくれたお婆様に顔向けできません。
「どうしよう……」
ゆらゆらと水に揺れるのは金の髪。ぱっちりと愛らしい紫の瞳。
海の中では一際目立つ蒼、陽に照らされれば淡い翡翠の尾ヒレ。
そう、彼女は人魚。
只今彼女――人魚のフィリアは、水槽の中で鎖に繋がれておりました。
「食われる…私人間に食われる」
小さい頃、お婆様とお姉さまとお兄様たちに聞かされた人間の話を思い出したフィリアは、顔を蒼褪め泣きそうになりました。
人間とは恐ろしい生き物です。あんなに愛らしいお魚たちの内臓を取り出し、時には切り刻み、時には干上がらせ、時には火で炙り、最後には食べてしまうのです。
恐ろしい。なんて恐ろしいのでしょう。
下半身は完璧なお魚。いくら上半身は人間でも、人魚は人魚。人間は容赦なくフィリアを食べてしまうでしょう。
人間に捕えられ5日。食べられそうな気配はまだありませんが、油断させて食べる気なのでしょう。
あぁ、なんて恐ろしい。
フィリアは何とか人魚に助けを求めようとしましたが、“自己責任”が信条の人魚は決して助けてはくれないでしょう。
信条の前に家族愛など無意味です。責任は自分で取れ、が家訓ですから。
「お腹空いた…」
人魚だって食事をします。しかし魚のように魚は食べません。
人魚は主に水中を漂うプランクトンを食べます。あとデザートに海藻。貝は食べません。
そして人魚はあまり食を必要としません。ですから飢えを知りません。
ある日思い出したようにプランクトンや海藻を食べるのです。
しかしフィリアは捕えられて初めて飢えを知りました。
捕えられる前も、やはりフィリアは何も食べていませんでした。まさか人間に捕まるとは思ってもいなかったからです。
水槽の中に入れられ鎖で繋がれてから3日経って、それを後悔しました。
「まだ恋もしてないのに…」
これもお婆様から聞いた話です。とある人魚は人間の王子に恋をし、最後には泡となって消える。
そんな話ありえません。現実的に。
だってこっちは魚。相手は人間。種族が違います。恋なんてしません。
そして人魚は生きることに貪欲です。“自己責任”なんて信条を掲げるくらいですから。
もし自分の命と愛した王子を天平に賭けたら、人魚はまず間違いなく自分を選ぶでしょう。人魚とはそんな生き物です。
フィリアはこの話を聞いた時、人間の想像力って凄いねーと笑い飛ばしました。
人間の女の子の多くが感動し、胸を打たれる物語りを笑い飛ばしたフィリアですが彼女も女の子。
恋にはもちろん興味があります。気になる方は今の所いませんが、いつか素敵な人と出会い子供を産んでお別れするのだと信じていました。
え?あぁそうです。人魚は子供が出来たら即お相手とはさよならです。
人魚の価値観では、将来を誓い合う人間がちょっと信じられません。
お婆様とかお姉さまとかお兄様さまとかは血の繋がりのない人魚です。
人魚とは群れる生き物です。天敵だっています。魚より知恵があり、泳ぐのが速く、飢えを知らない代わりに繁殖能力がとても低いのです。そして弱い。逃げる事しか知りません。
だから人魚は子供を生んだら母親がある程度大きくなるまで育てて後はさよならです。弱い存在を抱えて、この広い海の中では生き残れないからです。
『おい』
だというのに、フィリアは人間なんぞに捕まってしまいました。
海の中でも生きるのに必死なのに、陸上では万が一にも生き残れないでしょう。
だって人間。魚を切り刻み、干上がらせ、炙って食べる人間。人魚の丸焼きは美味しいのでしょうか?フィリアは遠慮したいと思いました。
『おい!』
こぽっ…と、フィリアが動いたことにより水が揺れます。
その際鎖も揺れましたが、音は聞こえませんでした。本当に小さく動いたので。
くぐもった声が聞こえました。フィリアは水槽の外に目を向けます。
そこには、深海の奥よりも暗い、闇色がありました。
目の醒める、見事な黒です。夜の海より黒いかも知れません。
そしてその黒を注意深く見てみれば、人間の男です。黒いのは髪と目でした。
若い…と思われます。フィリアと同じか少し上の年齢です。見た目は。
「なにか?」
『っ…。喋れるのか?お前』
「はい?今まさに会話をしてるじゃない。喋れないと会話は出来ない、言葉を理解してなければ会話は出来ない。そんなこともわからないの?」
心底不思議だというようにフィリアは言います。
別に馬鹿にしたつもりはなかったのですが、黒の人間は血管のどこかが切れそうなほど頭にきました。
そんな黒の人間を咎めるように赤の人間がぽんぽんっと肩を叩きました。赤の人間は笑顔が綺麗です。ちなみに黒の人間はずっと仏頂面です。
『人魚だろう、お前』
「見てわからない?」
ゆらゆらと美しい尾ヒレをフィリアは揺らします。
これまた馬鹿にしたつもりはないのですが黒の人間は我慢の限界が近づいているようでした。
赤の人間も苦笑を浮かべてます。そんな表情も綺麗です。
ついに漸く、フィリアにもその時が訪れました。
きっと黒と赤の人間は、フィリアを食べるつもりなのです。フィリアは確信しました。
黒と赤の人間の後ろに、数人の人間がいます。全員男です。皆で人魚の丸焼きを食すのでしょうか。恐ろしいです。
「丸焼きは美味しくないと思うけど」
『…はぁ?』
「食べるなら、痛くしないでね。どうぞひと思いによろしく」
丸焼きされた自分を想像して悲しくなりました。
しかし世の中は弱肉強食。海だろうが陸だろうが関係ありません。
弱い者が食われる。これは真理です。
陸上だけでなく、世界で最強の生物である人間に食われるなら本望。
日向ぼっこ中に捕まったのが広まらなければ名誉ある死として人魚たちの間で広まるでしょう。日向ぼっこさえ広まらなければ。
『俺は不老不死に興味ない。誰が人魚なんぞ食うか』
「え?」
食わないの言葉にも驚きましたが不老不死の単語にも驚きました。
人間の中ではまだ人魚の血肉を喰らえば不老不死になれるという法螺話が伝わっているのでしょうか。驚きです。
だって人魚ですよ?魚と人間が融合した、とりあえず見られる外見の人魚ですよ?
それを食べたからって不老不死になれるはずがありません。もしそうなら、人魚を食べた魚だって不老不死になれますよ。
訂正するべきだろうかしないべきだろうか。
面倒なのでいいか、とフィリアは黒の人間の間違いを放置しました。
「食べないなら何のために捕えたの?」
『歌だ』
歌。歌とはあれでしょうか、音楽ですかね。
人間は音楽が好きだと聞いています。きっとそれは真実でしょう。人魚が思いつきもしない楽器と言う道具を作るほどですから。
人間は物語りを歌にすることもあるという話をフィリアは昔、人間好きの変わり者の人魚に聞いたことがありました。
『人魚の歌は天上の歌声のように美しく、人間を惑わす。そして癒しの力もあるのだろう。その歌を俺に聴かせろ』
そしてこんな話も、その変わり者の人魚から聞きました。
人間は、人魚はとても美しい歌声を持ち、魔力さえ宿すと思っていると。
船を操る人間を歌で惑わし船を難破させたりするのだと。けれど人魚の歌には癒しの力があり、どんなに醜い心や傷でも癒してしまうと。
そんな話をフィリアに聞かせて、最後に変わり者の人魚はこう言いました。
“そんな話を信じる馬鹿な人間が好きなんだ”と。
「迷信よ、そんなの」
『あ?』
「人魚の歌に癒しも何もないわ。ただの歌よ。そりゃ多少は綺麗かもしれないけど、それも個人差。人間と変わりないわ」
『……あ?』
黒の人間はフィリアの言葉を上手く理解できないのか、不機嫌な表情を変えることなく同じ言葉を零しました。
いいえ、言葉ではありません。声ですね、声。思わず零れたという感じです。
しかし、これが真実なんだからしょうがないです。
人魚の歌には不思議な力なんてありません。声だって普通です。
というか歌う人魚さえ稀だと言っていいでしょう。人間にとって音楽は娯楽の1つですが、人魚にはそうじゃないです。
人魚の娯楽と言えば、度々海底にある人間の船の探索とか会ったことのない人魚との交流です。
人魚には縄張り争いとかありませんから、知らない人魚と出会っても和気藹々としてます。信条を忘れずに。
「私も歌は歌うけど、そんな大層なものじゃないわ」
『……歌え。今すぐ』
「だからそんな、『食われたくないのなら歌え』……」
人間って横暴。ちっともこっちの話を信じないのです。
それにさっきは食わないと言ったのに、歌わないなら食うつもりなのでしょうか。フィリアを睨む姿が鬼のようです。
フィリアははぁ…と内心で溜息を吐いて、黒の人間に言いました。
「歌えばいいんでしょう歌えば。では、顔だけでいいから水から出して。聞こえにくいだろうから」
『……蓋を開けろ』
黒の人間の言葉に、呆然としていた人間たちがはっと意識を取り戻して慌ててフィリアがいる水槽に近寄ります。
水槽に近寄った人間たちは、あまりに美しいフィリアに目を奪われそうになりました。
はっきり言うと、フィリアの顔は程々です。絶世の美女なんて言葉は当て嵌まりません。
フィリアより美しい顔の女性は、いくらでもいるでしょう。人間でも人魚でも。
しかし彼らは初めて人魚を間近で見ました。
水に揺れる金の髪と紫の髪、陽の光で色が変わる美しい尾ヒレ。
幻想的な生き物に見惚れてしまうのはしょうがないことです。
人間たちは奪われそうな意識を何とか保ち、黒の人間の命令通り水槽の蓋を開けました。
鎖は重いですが、水槽の中で自由を奪われるほどではありません。
フィリアは流れるような動作で、水槽から顔を出しました。
久しぶりの空気に触れます。人魚は陸の中でも海の中でも生きられる生き物です。
ただし、長く水に触れられなかったら死んでしまいますが。
「歌います」
フィリアは何度か深呼吸して、息を整えました。
閉じていた目を開け、人間たちには目も暮れず音を響かせました。
――奏でたのは、海の戦慄。
時に優しく、時に激しく。唸りを上げて世界を行く、海の声。
人魚とも人間とも、この世に生きとし生ける生物たちが切っても切れない不可思議な関係を結ぶ海の調べ。
なんてそれほど大層でもないメロディに言葉をのせたただの歌。
フィリアの歌を聞いた、ここにいるすべての人間に落胆の色が浮かびます。
「え、こんなもん?」なんて言葉が今にも聞こえてきそうです。
だから言ったでしょう?人魚の歌はただの歌。不思議な力も癒しも魔力も、何も宿してはいない歌なのです。
人間たちの反応を横目にほらご覧なさい。と思いながら、フィリアは本来の歌の3分の1ほどを歌い歌を終わらせた。
「………ふぅ…、」
歌を歌ったのは久しぶりです。しかし、思った通り人間の反応がとても微妙です。
まぁ人間にとっては、今の歌こそが予想と違いすぎて微妙なのでしょう。
下手ではないと思います。しかし上手くもないでしょう。
フィリアより歌が上手い人魚などたくさんいます。しかしそんな人魚も人々を感動させる歌声なんて持ってはいません。
再三申し上げると、人魚の歌は人間と同じ程度です。逆に音楽に触れる機会が少ないから人間より下手と思ってもいいぐらいです。
――なのに、
「…素晴らしい……、」
黒の人間が囁いた言葉は、フィリアの予想を大きく外れたものでした。
恍惚とした表情、酔った様にとろんっとした目でフィリアを見つめる闇色。
はぁっ?と驚いたのは何も黒の人間に見つめられているフィリアだけではありません。
黒の人間のすぐ傍らにいた赤の人間も、その周りにいる色取り取りの人間たちすべてがはぁっ?といった表情で黒の人間を見ています。
「お、王子…?」
「すぐにこいつを俺の部屋に連れていけ」
「ぇ…、いえ、その、お連れしてどうするので?」
「決まっている。一生俺のそばに置くんだ」
これまた驚いたのはフィリアだけではありません。黒の人間と会話を交わしていた赤の人間は目が点。周りの人間たちも似たような感じです。
しかしフィリアは呆然としている訳にはいきません。歌を聞いたらすぐに海に逃がしてくれると思っていたのに、まさか一生、そばに、なんて!想像もできない言葉が黒の人間から飛び出てきたのですから。
「あなたの耳は節穴?今の歌を聞いてどうしてそばに置くなんてことになるの?」
一生なんて冗談じゃないです。同族の人魚とも一生一緒にいることもないのに、どうして人間といなければいけないのでしょう。
しかも期待外れな歌を聞かされたそのすぐ後で。異種族というだけでなく、黒の人間の思考回路が可笑しいのでしょうか。
「歌を聞いたからこそ、お前を手放す気が無くなった」
「………はぁ?」
「天上の歌声とはこのことだと、改めて納得した。
心だけでなく体をも癒し、人の心を乱す魔の歌声。古人も的を射たことを言う」
そんな言葉を告げながら黒の人間は徐々にフィリアのいる水槽に近づいてきます。
頬は赤く染まり、人間の中でも特上に位置するであろう見目麗しい顔が色香を纏って美しいです。美しいのだけれど、フィリアは恐怖しか感じませんでした。
これが捕食者と非捕食者なのかと、フィリアは真の弱肉強食を知りました。
「人魚、お前の名は?」
「………………………………………、ふぃ、りあ……」
絶対に名乗ってはいけないと思いながら、注がれる熱い視線に耐え切れずフィリアはその名を口にしてしまいました。
「フィリア、フィリアか」と黒の人間が極上の笑みを浮かべて、愛おしそうに甘い声でフィリアの名を口にします。
「俺の名はオルベール・フォン・ロウディエ。ここロウディエール国の第2王子だ」
くらっと、フィリアは目眩がしました。
ロウディエール国と言えば人間に興味がないフィリアでさえ聞いたことのある大国中の大国です。
そこの王子なんていったら王族中の王族です。人間のトップです。陸上生物のボスです。
一生飼い殺されるんだ、二度と海には戻れないんだ、最後にはやっぱり食べられるんだ…と恐ろしい未来予想図が脳裏に浮かんでいるフィリアは知る由もありませんでした。
確かに人魚の歌声は普通ですが、その奏でる人魚に“特別な感情”を抱く者が歌を聴くと、何の変哲もない歌がお伽噺のように不思議な力を宿すことや。
幼い頃から人魚に憧れを抱いていたオルベールが、初めて本物の人魚であるフィリアを目にした瞬間、感動を飛び越え一目惚れしたことも。
幾多の困難を乗り越え、フィリアとオルベールが永遠に結ばれることになるなんて、もちろんフィリアは知る由もありません。
――これは、新たに語り継がれることとなるお伽噺の最初のお話。