モノクローム(9)
「じゃあやっぱり弁護士に相談した方がよさそうだね。朱那ちゃん、おばあさんに連絡取れるかな」
「あ……えっと……伯母さんのメアドしか……」
朱那は申し訳なく思いながら頭を掻いた。もう関わることなどないと思っていたし、祖母はケータイなど個人で連絡を取れるものを持っていなかった。
そう説明すると誠が首を傾げる。
「その封筒に何か書いてたりしない? おばあさん賢そうだし、何か手段を残してると思うよ」
朱那は慌てて封筒を開け、そして仰天した。お金が十万も入っていたのだ。
「おば、おばあちゃん……! 少しだって言ってたのに!」
驚きのあまり取り落としそうになる。こんな金額、触ったこともなかった。
恐る恐る札を取り出したら、封筒からひらりと小さいメモ用紙が落ちた。
それを拾い上げて裏返してみる。
『何かあったら連絡しろ。亮』という走り書きの下に、電話番号とメールアドレスが添えられていた。
亮は最後まで自分たちを心配してくれていたのだ。
亮は祖母の味方だと言っていた。もしかしたら、亮と祖母は自分たちのために色々と動いてくれていたのかもしれない。憶測でしかないのだけれど、不思議とそう思えた。
亮の家庭を引っ掻き回してしまったのにと、申し訳ない気持ちが込み上がる。
――……亮くん……ありがとう。
泣きそうになった目をごしごし擦って、朱那は篠原夫妻に顔を向けた。
* * * * *
喜美が紹介してくれた弁護士は人の良さそうな明るい人物だった。年は喜美ぐらいで、どこか祖父のようだと朱那は思った。
朱那たちの話を親身になって聞いてくれ、両親の事件のことも全て話したら、大変だったなと労ってくれた。今後も相談してくれていいとも言ってくれた。
弁護士は純子たちとも話し込み、彼は的確なアドバイスをくれた。朱那たちには少し難しい話だったので、彼らの会話を聞き漏らさないようにするのがやっとだった。
そして翌週の日曜、弁護士のアドバイスを持って篠原夫妻は朱那の伯母の家に赴いた。
朱那と大貴も途中まで付き添ったのだが、裕実や匠と顔を合わせたくなかったので近くの公園で待つことにした。
朱那はベンチに腰掛けて、遊び回る大貴と菜月を眺めていた。
二人とも楽しそうで、菜月がよく笑い、それにつられるようにして大貴も笑っている。そんな連鎖反応は昔からで、またそれを見ることができてよかったと心から思っていた。
朱那自身もこんなに穏やかな気持ちになるのは久しぶりだった。
爽やかに晴れ渡った青空に、千切れ雲が流れていく。公園の木々は赤や黄色に色付いて、秋をどんどん深めている。
こうやってゆっくり空を眺めるのもいつ以来だろう。
朱那は瞼を下ろして風の匂いを嗅いだ。
「――よう」
突然横から声をかけられ、朱那は驚いて振り返った。
だぼっとしたジーンズのポケットに手を突っ込み、無表情でこちらを見ていたのは亮だった。髪は相変わらず、透き通るような茶色。
「亮くん……」
「純子って人すげぇな、うちの親が呑まれてたよ」
亮はおかしそうに言って隣に腰を下ろした。
朱那は彼の横顔を見つめて、言葉を探した。礼を言いたいのに何故か喉がつっかえて、なかなか声にならない。
そうしている内に、亮がまた口を開く。
「大貴と遊んでる女の子、誰?」
「え? ああ、菜月ちゃん……篠原さんの娘」
「へえ……大貴が笑ってるとこ初めて見た。あいつ俺が笑わそうとしても笑わなかったのに、あの子すげぇな」
「あはは、そうだね。菜月ちゃんは、大貴にとってはすごく大事な人なんだと思う」
何気なく言ったつもりだったが寂しがっているように聞こえたみたいで、亮が顔を覗き込んでニヤニヤしながら言う。
「ジェラシー?」
「な、なにが? 大貴にだって好きな子ぐらいできるよ、別に気にしてないし」
「はいはい。ブラコンだと姉離れされたときがつらいな」
「ぶっ、ブラコンなんかじゃありません」
朱那が頬を膨らませて睨み付けると、亮はケラケラ声にして笑った。
彼のからかうような視線に決まり悪くなってきて、朱那はぷいとそっぽを向く。
「いいんだもん、私だってこれから大事な人見つけるんだから」
「……うん、そうだな」
急に亮の声が優しくなり、朱那はちらと視線をやった。彼は今まで見たことないぐらい穏やかな微笑みを浮かべて、大貴たちを眺めていた。
その横顔に、朱那は少しどきりとした。
慌てて視線をそらし、ずっと言いたかった礼をようやく口にする。
「亮くんありがとね、色々助けてくれて……いつかお礼する」
「ふぅん? お礼ね」
そう呟いた彼はしばらく考え込み、そして唐突に振り返った。
朱那がギョッとしたのも束の間、亮は顔を近付け、そのまま頬にキスをした。
突然のことに朱那は目を見開いた。
「――ま、これでいいよ、お礼」
耳元で囁き、至近距離で亮の唇がニッと弧を描く。
朱那は呆然としたまま彼を見つめ、固まっていた。思考も完全に停止してしまった。
「こらー! そこの茶髪ー!」
突然遠くで菜月が叫び、猛スピードで走り寄ってくる。そしてその勢いのまま朱那の膝に飛び付き、猫のように亮を威嚇する。
「朱那さんに触るな!」
「えー、触ってねえんだけど」
「うそつき! さっきの見てたんだからね!」
「見間違いじゃね?」
「見間違いじゃない!」
「じゃあ錯覚だ、錯覚」
終わりのなさそうなやり取りを繰り広げる二人に挟まれ、朱那は狼狽していた。
鼓動が速くて、変な汗が出てくるぐらい身体が熱い。
それにさっきのキスが何だったのか尋ねる機会も失われてしまった。
「姉ちゃん」
不意にくいくいと袖を引っ張られ、振り返ると大貴がこちらをじっと見ていた。
「顔真っ赤」
「え!?」
弟の指摘に慌てて頬を覆うと、亮が吹き出した。
「あれぐらいで照れてんの? 純情だな」
「てっ、照れてないし! もー馬鹿! このエロ兄弟!」
朱那は拳を振って、笑う亮を何度も叩いた。
ちょっと嬉しかっただなんて、死んでも言ってやらないんだから。
それから一時間とたたない頃、純子が足早に公園に入ってきて朱那たちの前でふふんと胸を張る。
「論破してやったわ。色んなこと決めてきたから、帰ったら説明するわね」
「……はい」
朱那は安堵のため息を吐いた。
「達也くんのお母さんって優しそうに見えて結構厳しい人よね。伯母さんのこと冷静に叱ってたわ」
鞄を肩に掛け直しながら純子は言った。それから彼女は一瞬宙を仰ぎ、急に深刻そうな顔になる。
何かあったのだろうかと、朱那は無意識に顎を引いた。
「これは私の主観なんだけど……伯母さん、精神的に参ってて、あなたたちに優しくできなかったのかなって」
「え――」
「まあ、あなたたちに酷い扱いしたことは変わりないのよね……でも伯母さんにとっても弟を失ったばかりなのよ。それは分かってあげてほしいかな」
朱那は視線を落とした。
自分と大貴のことばかり考えていたせいで、伯母の気持ちを理解しようとはしなかった。
もし自分が伯母の立場になったら――もし大貴を失ってしまったら、自分も他の人に構えなくなるぐらいふさぎ込むはずだ。
もう少し自分が冷静になって伯母に歩み寄る努力をしていたら、何か変わっていたのだろうか。
家を飛び出してしまった以上、今更どうしようもないのだけれど。
短くため息を吐いたら、不意に肩を叩かれた。顔を上げると亮が無言でこちらを見ていた。
気にするな、と言われた気がした。
朱那は微かに頷いてみせ、また純子に視線を戻す。
純子は興味深げにちらりと亮を見て話を続けた。
「朱那ちゃんたちって今は伯母さんの養子になってるけど、それも変更することになったの。おばあちゃんの、喜美さんの養子になるから」
「おばあちゃんの?」
朱那は驚いて思わず大貴と顔を見合わせた。それから無意識に亮にも目を向けると、彼は何も言わずに肩をすくめた。
「喜美さんの提案なの。私としてはうちの養子にしてもよかったんだけど、やっぱり血縁の方が都合がいいかも、と思ってね。その内届けを出すことになるわ」
「……そうですか」
朱那は小さく呟いた。
「朱那ちゃん、ごめんね。大人の都合で色々振り回して」
「いえ、こちらこそ迷惑をかけてばかりで……すみません。でも本当に感謝してます。あと……これからお世話になります」
そう言って頭を下げると、隣で大貴も頭を下げた。それを見て純子がくすりと笑う。
「はい。こちらこそ、よろしくね」
朱那は顔を上げ、朗らかに笑った。その時、公園の外から車のクラクションが短く鳴った。
「あ、まこちゃん来たわね。よし、子どもたち、お家に帰るわよ」
純子が明るくそう言うのと同時に、菜月が大貴の手を引き車に向かって走り出した。純子も二人に続く。