モノクローム(7)
裕実の手を振り払い朱那は立ち上がった。
そしてまとめた荷物を全て持ち上げ、大貴を促して部屋を出ようとした。
「待ちなさい! 謝らないと警察呼ぶわよ! 暴力女! この恩知らず!」
裕実がまくしたてながら立ち塞がり、朱那は彼女と睨み合った。
こんなにも静かな怒りがわいてくるのは初めてだ。出ていく覚悟を決めたのだから、せめて何か一言嫌味でも言ってやろうかと思った。
「――何が恩知らずだよ」
均衡を破ったのは亮の声だった。
彼は苦々しい目付きで母親を睨んでいる。
息子に遮られたことが予想外だったのか裕実はうろたえ始めた。
制服姿の亮は壁に寄りかかり、ちっと舌打ちする。
「警察呼んで、不利になんのはお前の息子だぞ、わかってんのか。俺は弟だろうが何だろうが、肩は持たねえぞ」
「だって亮……」
「だってもクソもねえだろ。いい加減にしろよ」
厳しい口調で亮は言い放つ。すると裕実は地団駄して亮に詰め寄った。
「……何よ! なんで亮はそんなにあの子たちの味方するの! お母さんの子どもなのに!」
亮は盛大なため息を吐いて、呆れ果てた視線を裕実に浴びせた。
「あんたがそのままである限り、俺は一生あんたの味方なんかしない。正直、今は親だとも思いたくない」
亮が冷酷に告げ、朱那は驚いて思わず彼を凝視した。
亮がそこまで親のことを嫌悪しているとは思わなかったのだ。
突然裕実がよろめき、その場にへたりこんだ。亮の言葉に衝撃を受け、立っているのもままならなかったようだ。裕実は両手で顔を覆い、「子どものためなのに」とか「何で」とか、ヒステリックになってぶつぶつ呟いている。
彼女を見下ろして朱那が後味悪く思っていたら、亮の後ろから喜美が現れ、朱那の手を引いた。
「おいで」
喜美は優しく笑って言い、姉弟を玄関まで導いてくれた。
靴を履いて朱那は祖母に振り返った。
「おばあちゃん……ごめんね、私が掻き回しちゃったみたいで――」
「あらあら、いいのよ。裕実も考えを改めるいい機会だと思うの。この家のことはおばあちゃんが何とかするわ」
以外と喜美はこたえている様子はなく、むしろ軽快に笑うほど生き生きしていた。
「これ、少しだけど取っておきなさい。あと何かあったらおばあちゃんにも連絡ちょうだいね、もしもの時は知り合いの弁護士紹介するから」
そう言って喜美は朱那の手に茶封筒を手渡し、背を押した。
「ありがとう……おばあちゃん」
朱那はぺこりと頭を下げてから外に出て玄関の扉を閉めた。
大きな荷物を抱えて、大貴の手を引いて、朱那はバス停に向かっていた。
時折大貴が心配そうにこちらを見上げたが、朱那は緊張のあまり視線を合わせることすらできなかった。
ついに伯母の家を出てしまった。もう後戻りはできないだろう。
そしてこれから頼ろうとしているのは、朱那の最終手段だった。
これが失敗に終わってしまうと、二人して路頭に迷うことになる。せめて大貴だけは、と無意識に大貴の手を握る手に力が入った。
途中、コンビニでおにぎりを買い、二人はバスに乗った。
バスは以外と空いていて、後ろの席を陣取ることができた。
朱那は緊張の面持ちでケータイを開き、座席の影に隠れて耳に当てた。
数回のコール音の後、優しい声がした。
『はい篠原です』
「……おばさん、朱那です」
『あらっ? 朱那ちゃん? まあまあ、元気にしてる?』
電話口の向こうで純子が嬉しそうな声を上げた。
変わらないその声に朱那は緊張が和らぎ、ほっと胸を撫で下ろした。
「あの……こんな時間に申し訳ないんですが、そちらに向かわせてもらってもいいですか?」
『え、今から? ……何かあったの?』
純子の声音が厳しくなる。
朱那は何と答えればいいのか分からず、言葉に詰まった。今日までのことを電話越しに伝えきれるとも思えなかった。
あーとか、うーとか言い続けていたら、純子がくすりと笑った。
『いいわよ、待ってるわね。大貴くんもいるんでしょ?』
「あ、はい、一緒に行きます」
『わかった、気を付けていらっしゃい』
朱那は礼を言って電源ボタンを押した。そして長く息を吐き出し、背もたれにずるずる沈み込んだ。
あまり追求せずに純子が快諾してくれて、安堵したあまり急に身体の力が抜けた。とりあえず第一段階は突破だ。
ようやく大貴とも視線を合わせられたが、彼を見て朱那は眉をひそめる。少し顔が赤くなっているようだ。
「……大貴熱あるんじゃない?」
「ん……ちょっと暑い」
朱那は身体を起こして大貴の額に触れた。微熱といったところだろうか。
今日だけでも色々なことが起こったし、大貴の身体もついていけなかったのだろう。
「着いたら起こしてあげるから、それまで寝てな」
大貴の頭を引き寄せると、彼は素直にもたれかかって眠りに就いた。朱那は微かに口の端を上げ、大貴の頭を撫でながら窓の外を流れる景色を眺めた。
二人を乗せたバスは暗い夜道を走り続けた。
「まあ! 大貴くんどうしたの」
ドアを開いた純子はこちらを見て驚いたようだった。
朱那は両手に二人分の荷物を抱え、眠る大貴を背負ってバス停からここまで歩いてきた。休みながら歩いたのだが、それでもやはり息は上がり、時間もかかってしまった。その間に大貴の熱は上がったようで、背中に感じる彼の体温はやけに熱い。
玄関に入った朱那の荷物を奪うように受け取った純子は、朱那に背負われたままの大貴の額に手を当てた。
「ちょっと熱高いわね。風邪かしら。まこちゃん、ちょっと来て!」
純子が居間に向かって叫ぶと、即座に旦那の誠と、長女の菜月が慌てた様子で現れた。
「大貴くんを奥の和室に運んでほしいの、私布団の準備するから。菜月は冷えピタと体温計探してきて」
「わかった!」
菜月はぴょこんと跳ねて居間に引き返していった。
朱那の背から大貴を受け取り、誠は「おお」と驚いた声を上げた。
「大貴も重くなったなぁ、だっこしたのもいつ以来だろう」
そう言って短く笑い、誠は佇む朱那に目をやった。
「朱那ちゃんも上がって。ご飯食べた?」
「……はい、バスの中で」
「そっか。お菓子あるから、あとで一緒に食べような」
誠に促されて朱那は靴を脱いだ。
彼の後について遠慮がちに廊下を進むと、居間から菜月が体温計を片手に飛び出してきた。
「お母さん、冷えピタないよー!」
「ええ? 買っておいたはずよ、テレビの横は見てみた?」
「あっ、見てない。お父さん、体温計持ってってー」
体温計を誠に押し付けて、菜月はまた居間に引っ込んだ。
誠が大貴を抱え直して奥に歩いていくのを朱那は佇んだまま見送った。
何故か急に足がすくみ、身体が動かなくなった。ここに来て本当によかったのだろうかと、不安が押し寄せてきて胃の辺りが痛み、何だか吐きそうだった。
腹を擦っていると菜月が戻ってきて、彼女は朱那を見るなりパッと表情を輝かせてぴょんと抱きついた。
「朱那さん、学校から帰ってきたばっかなの? おかえり!」
首を傾げて朱那は自分の身体を見下ろし、ようやく自分が未だに制服姿のままだったことに気付いた。着替える暇もなかったのだなと、ぼんやり考えた。
それよりも、菜月の「おかえり」の言葉で胸がいっぱいになり、息が詰まった。
何気ないたった一言でこんなに温かい気持ちになれるなんて思いもよらなかった。
ずっと朱那がほしかった言葉を、菜月はすぐに与えてくれた。
涙がじわりと浮かんで、朱那は慌てて目を拭った。
「うん……うん、ただいま」
自ずと涙声になったが、朱那は必死に笑顔を見せた。
菜月が不思議そうにこちらを見上げる。
「朱那さん、どしたの? どっか痛い?」
「ううん、そんなことないよ」
「――朱那ちゃん」
朱那がかぶりを振った時、奥の部屋から純子が神妙な面持ちで朱那を呼んだ。
「こっちおいで」
朱那は大貴が眠る和室に招かれた。
部屋に足を踏み入れると、布団に横になった大貴の額を誠が撫でているのが目に映った。
布団の脇に純子は腰を下ろし、菜月が持ってきた冷えピタを大貴の額と腫れた頬に貼る。
そして純子は朱那に膝を向け、座るように促した。
「何があったか、話してくれる? 大貴くんも怪我してるし……辛かったら、ゆっくりでいいから」
彼女の前に正座した朱那は俯き、膝の上で爪が食い込んで痛くなるぐらい両手を握りしめた。
伝えるべきことはたくさんあるのに、どれから話せばいいか分からなかった。
ここに来た理由? 大貴が怪我をしている理由? それとも――。
なかなか話し出せず無意味に口を開閉していると、不意に、純子が朱那の手を取って優しく撫でた。
「朱那ちゃん、あなたが頼ってきてくれて、私たちは嬉しいと思ってるのよ。誰も責めたりしないから、今一番言いたいことを、言ってごらん」
労るような彼女の言葉が全身に染み込んで、ほろりと涙がこぼれ落ちた。