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モノクローム(6)

「……ありがと。でも弟いるし、あの家に一人にさせたくないから」


 そう呟いて朱那は俯いた。

 嬉しいのだけれど、あまり優しくしてほしくなかった。

 労いの言葉だけで、我慢しているものが溢れて止まらなくなりそうだった。


――泣くな、泣くな。


 そう強く言い聞かせながら朱那はパンにかじりついた。

 途端、こちらを見ていたつむぎが目を見開く。

 目から涙が次々流れ、朱那は慌てて顔を拭った。


「ご、ごめん……泣くつもりなかったのに――」


 しかし一度溢れたものはすぐには収まらず、拭っても拭っても頬を伝い落ちる。

 いたたまれなくなった朱那はつむぎの視線から逃げるように立ち上がり、教室を飛び出した。


 自分がどこを走っているのか分からなかった。何度か他の生徒にぶつかりそうになったが、気に留めず走った。

 いくつもの廊下を走り抜け、気付いたら校舎端にある非常階段に辿り着いていた。


 階段の柵に寄りかかり、朱那は泣いた。今まで我慢してきたもの全てを吐き出すように泣き続けた。こんなに泣くのは両親の葬儀以来かもしれない。両親の顔を思い出して、悲しみは増していった。



 始業のチャイムが鳴ったが、朱那は教室に戻る気力がわかなかった。

 もう授業なんてどうでもよかった。自分には関係ない。自分は一人だ。

 階段に腰かけて目を閉じ、吹き付ける風の音に耳を傾けていた。


「――こんなとこにいた」


 風の音に混じって、つむぎの声が聞こえた。

 朱那は驚いて目を開いた。階段の下につむぎが立っている。


「つむぎ……」


 つむぎがどこか怒っているように見え、朱那はたじろいだ。彼女が追ってくるとは露にも思わなかったのだ。

 つむぎは一段一段踏みしめながら、朱那に近付いてくる。


「悪いけど、私、相談されてもいい答えなんか返せない」


 階段を上りながら彼女は告げた。


「でも話を聞くぐらいなら私にもできるから。頼りないかもしれんけど、何でも話してよ」


 目の前に立ったつむぎは小首を傾げ「友だちでしょ?」と優しく笑った。

 さっきまで引っ込んでいた涙が再び盛り上がってくるのが分かった。


 自分に味方なんていないと思っていた。誰にもこの気持ちは分からないと。一人で堪えていくしかないんだって、そんな風に決めつけていた。 頼りなくなんかない。こんなにも心強いと思ったんだから。


 子どもみたいにわあわあ声を上げて泣いていたら、つむぎがぎゅっと抱きしめてくれた。


「さっきは頑張りすぎって言っちゃったけど、違うね。朱那は頑張ってるよ。頑張って弟くん守ってる。お姉ちゃんだもんね」


 ぽんぽんと背中を擦り、つむぎは続けた。


「朱那は弟くんだけ見てればいい。あんたのことは私が見ててあげるからさ。疲れたら休んでいいし、泣きたかったら泣いていいんだよ」


 朱那は頷くことしかできなかった。

 こんなにも自分のことを気にかけてくれる友人がいて、つむぎという親友がいて、自分はとても恵まれている。

 お礼が言いたいのに上手く声が出せず、代わりに朱那は何度も頷き続けた。




 つむぎに話を聞いてもらったお陰で、帰路につく頃にはすっきりとした心持ちになっていた。

 卒業するまでにはまだまだ時間がかかるけれど、もう少し頑張ってみようという気になれた。

 伯母の家が息苦しくても、喜美や亮がいる。それに何より大貴がいる。だからきっと、大丈夫。


 朱那は夕空を見上げてほうと息を吐いた。

 そしてふと視線を戻したところ、家の門前でうずくまっている小さな姿が目に映った。

 膝を抱えて俯いているのは、どう見ても大貴だった。

 その異様な雰囲気に朱那は急に背筋が寒くなり、慌てて彼に近寄ってその場に膝をついた。


「大貴、大貴? どうしたの?」


 肩を揺さぶると大貴はびくりと身体を震わせたが、顔は上げようとしなかった。


「大貴、どっか痛いの? お願い、顔見せて」


 僅かに嫌がる大貴の顔を両手で挟んで、無理やり上を向かせた。

 大貴の顔を見て朱那はあっと息を呑んだ。

 頬や唇が腫れて、切れたところには血が滲んでいる。何度も殴られたような、暴行を受けた痕だった。

 大貴は朱那の手を振り払いまた俯いてしまった。


「大貴……誰? 誰がやったの!」


 言いなさい! と大声で問うと、彼は躊躇う声で小さく告げた。


「……匠くん」


「……!」


 朱那は目を見張った。また彼の仕業なのか。自分だけでなく、大貴にまで。

 大貴の肩に手をかけ、朱那は急ききって尋ねた。


「伯母さんには言った?」


 すると大貴はかぶりを振った。


「……なぐられてるとき……おばさん来たけど……何も言ってくれなかった」


「な……」


 もう言葉が出なかった。信じられなかった。

 人に暴行を加える息子も息子だが、それを見て見ぬふりをする親も親だ。何て腐りきった家なんだ。

 怒りのあまりこちらが狂ってしまいそうだ。

 それ以上に守ると決めた大貴を守ってやれなかった自分に無性に腹が立った。


「ごめんね大貴、ちゃんと守ってやれなくて。でももう大丈夫だよ、姉ちゃんが何とかするから」


 そう言って立ち上がろうとした時、不意に大貴の手がすがるように朱那の腕を掴んだ。


「……大貴?」


 少し驚いて大貴の顔を覗き込むと、彼は涙を溜めた目でこちらを見上げた。

 そして朱那の首にしがみつき、微かに嗚咽を漏らす。


「……帰りたい」


 涙声で大貴は呟いた。

 弟の震える身体を抱きしめて、朱那は静かに尋ねた。


「帰りたいって……お家にってこと?」


「……うん」


「菜月ちゃんたちがいるとこに?」


 大貴がもう一度頷いた。

 朱那は目を閉じて、抱きしめる腕に力を込めた。


 両親が死んでから、大貴が初めて言ったわがままだった。

 両親の遺体を見て、血も見た。警察には何度も聴取されたし、報道関係者の強引な押しかけ取材も何度もあった。

 これまで必死に守ってきたつもりだったが、朱那が思っている以上に、大貴にはしんどい思いをさせている。


 姉に心配かけまいとして、いつも大人しくしていた。引っ越してからは伯母の無意味な癇癪にも堪えてきた。

 自分なんかよりも、大貴の方が我慢を強いられていたのかもしれない。今日まで大貴の精神が壊れなかったことは不幸中の幸いだった。何もかもが崩れる前に泣いてすがってくれて、本当に良かった。

 ならばこのわがままだけは通してやらなければ、姉として側にいる意味がない。


「――うん、そうだね。わかった。大貴、一緒に帰ろう」


 そう言って、朱那は心を決めた。



 居間に入るなり、朱那はそこで寛いでいた匠の胸ぐらを掴んで思いきり拳を見舞った。

 匠は吹っ飛んで床に転がり、側にいた裕実が悲鳴を上げた。

 朱那はふうと息を吐き、匠に近付いて再度彼の胸ぐらを鷲掴み、引っ張り上げた。


「よくもうちの弟に手ぇ上げてくれたわね」


 低く呟いて睨み付けると、匠は目を白黒させていた。その鼻からは血が流れ出ている。

 手加減などしなかったのだ、鼻血が出るのも当然だ。


「次大貴に何かしてみなさい、その時は急所狙うわよ」


 脅すように言い放って乱暴に彼を離し、朱那は裕実に目を向けた。彼女はひっと小さく悲鳴を上げて壁際まで後退った。

 朱那は目を細めて彼女を睨み、口を開く。


「大貴連れて出ていきます。今までお世話になりました」


 それだけ告げて、朱那は軽くお辞儀をした。

 そしてポカンとしている母子には目もくれずに居間を後にする。

 するとちょうど学校から帰ったとおぼしき亮と廊下で鉢合わせた。戻って早々騒ぎを聞き付けた様子で、亮は驚いた顔をしている。

 朱那は彼を見上げ、はにかんだ。


「亮くんごめんね、私たちやっぱり出ていくね」


 そう告げると亮は何かを悟ったようで、すぐに道を開けてくれた。

 急いで部屋に戻り、荷物をまとめている大貴を見てほっと一息ついた。


 朱那も大きな鞄に入るだけの服を詰め込み、亮が買ってきてくれたお菓子も入れて、学校鞄には教科書類を全部詰めた。

 忘れ物がないか確認していた時、裕実がバタバタ慌ただしく部屋に駆け込んできた。


「あんたたち、出ていくってどこに行くつもりなの! そんなの許さないわよ! あんたたちのせいでうちが悪く言われるじゃない!」


 彼女の甲高い怒鳴り声に大貴が身体を震わせた。

 朱那は弟を引き寄せ、こそりと耳打ちする。


「聞いちゃダメ」


 裕実はずかずかと部屋に踏み入り、朱那の腕を掴んだ。


「あんたは匠を殴っておいて、逃げるつもり!? 謝りなさいよ!」


「……お言葉ですけど、先に弟殴ったのは匠くんです。それに私は体裁なんかよりも、大貴の身が大事なんです。だから暴力をふるうような人とは一緒に暮らしたくありません。失礼します」

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