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モノクローム(5)

 今や匠の頬は腫れ上がり、口の端からは僅かに血が垂れていた。どうやら亮が殴り飛ばしたようだ。

 朱那が目を拭っていると、騒ぎを聞き付けた伯母夫婦と祖母が部屋に雪崩れ込んできた。

 裕実が癇癪を起こしたような甲高い声で吼える。


「何なの! 何でケンカしてるの!? やめなさい!」


 亮が舌打ちして乱暴に匠を離し、朱那に歩み寄る。


「大丈夫か? 立てるか?」


 手を差し出されたが、朱那はびくりと肩を震わせかぶりを振った。

 先程のことも相まって、助けてくれた亮でさえも恐ろしく思え、すがることなどできなかった。

 朱那はよろめきながら立ち上がり、誰とも目を合わせずに部屋を飛び出した。喜美に呼び止められたが朱那はそれすらも無視した。

 首がヒリヒリして、未だに絞められている感覚に襲われた。


 自室に向かうと、入り口から大貴が顔を覗かせ、心配そうにこちらを窺っているのが見えた。

 それだけで涙が溢れた。

 戸惑う大貴に抱き付き、朱那は嗚咽を漏らした。


「姉ちゃん、どうしたの? どっか痛いの?」


 大貴は小さな手で優しく朱那の背を擦り、朱那は涙が止まらなくてかぶりを振ることしかできなかった。

 この家に味方なんていない。そんなこと初めから分かっていた。


 大貴が自分の全てだった。大貴がいてくれれば、それだけで十分なんだ、他にはなにもいらない。

 大貴と一緒に別の場所に行けたらいいのに。

 不可能なことを考えて、朱那は泣き続けた。

 遠くから亮と裕実の怒鳴り合う声が聞こえた気がした。




 翌朝、休日だったこの日は、朱那はいつもより少し遅くに目を覚ました。

 隣に大貴の姿はなく、部屋は静まり返っている。

 朱那は洗面所で顔を洗い、ふと鏡に目を向けると首に痣のような痕が見え、慌てて視線をそらした。

 そしてすぐ足早に部屋に引き返した。今は誰とも顔を合わせたくなかった。

 着替えを済ませて布団の上に座り、ぼんやり窓の外を眺めていると、遠慮がちに部屋の扉が開かれ、大貴が顔を覗かせた。


「姉ちゃん……大丈夫?」


 不安そうに尋ねる彼に、朱那は微苦笑をみせた。

 そしてふと、大貴の後ろに亮が立っているのに気付き、思わず頬を強張らせた。

 亮は朱那の表情の変化に気付いたようだったが、大貴の背を押して部屋に足を踏み入れる。畳の軋む音に朱那は震え上がった。

 亮は朱那の側にゆっくり腰を下ろした。朱那は俯いて彼の顔を見ないよう心がけた。

 亮は匠と容姿が似ているので、彼を見るだけでも昨夜の恐怖は蘇る。


「……昨日は悪かった。匠があそこまで馬鹿だったとは、正直俺も思わなかったよ」


 ため息混じりに亮は言った。


「俺が謝っても許されるもんじゃねえとは思う。でもあいつ絶対謝らないだろうから、俺が代わりに謝る。ごめん」


 頭を下げる彼に朱那はふるりと首を横に振った。


「私の方こそ……亮くんに助けてもらったのに、お礼も言わないで……ごめんね」


「……お前が謝るなよ、被害者はそっちだろ」


 呆れたように亮は肩をすくめ、朱那は弱々しい笑みを浮かべた。


 立ちすくんでいた大貴が少し泣きそうな表情で朱那の隣に座り、身を寄せる。

 もしかして大貴も昨夜のことを聞かされたのだろうか。だとしたら大貴にも恐い思いをさせてしまった。


 朱那は大貴の肩に手を置き、彼の頭に頬をぴたりとくっつけて深呼吸した。

 大貴の匂いを嗅ぐといつも両親といた頃を思い出して、鼻の奥がつんとする。

 瞼をぎゅっと閉じて涙が浮かんでくるのを堪えた。


 寄り添い合う二人を見つめ、亮が口を開く。


「お前らさ、ここ以外に頼れるとこ、ないのか」


「……え?」


 朱那はキョトンとして神妙な面持ちの亮を眺めた。


「追い出したい訳じゃないってことはわかってくれよ。……でも昨夜みたいなことが俺のいないとこであったら……とか考えると、二人はここにいない方がいいって思うんだよ」


 亮はどこか申し訳なさそうに言い、姉弟を交互に見つめた。


 この家以外に頼れる場所。そのようなこと今まで考えたことがなかった。

 父方の親戚は伯母しかおらず、母方の親戚には既に「引き取れない」と突き放されている。

 自分たちに頼れる人など――。


 顔をしかめて思考を巡らせていたら、ふと、ある家族の顔が浮かんだ。

 前の家に住んでいた時の隣家、篠原家。

 両親が死んでからずっと、篠原夫妻は朱那たちに常に寄り添い、力になってくれた。それに朱那たちの引き取り先が決まった時、何かあったら連絡をしてと彼らは言ってくれた。

もしかしたら、と朱那は考えた。

 しかしいくら仲良くしてもらったとはいえ、彼らは赤の他人だし、こんなことで世話になるわけにはいかない。

 篠原家は頼ってもいい場所ではなく、単に朱那が頼りたいだけなのだ。


 朱那はかぶりを振り、彼らのことを頭から追い出した。


「頼れるとこなんてないよ……大丈夫、あと少して高校卒業できるし。私就職するから、大貴と二人で暮らすの。ちょっとぐらい我慢できるよ」


「だけど……」


 亮は何かを言いかけたが、すぐに閉口した。

 朱那の決心はちょっとやそっとじゃ揺らがないことは、彼も分かっていた。

 その時また部屋の扉が開き、冷ややかな顔をした裕実が姿を現した。


「ちょっと居間に来なさい。亮も」


 そう言い残して彼女はさっさと引き返して行った。

 朱那は亮と目配せし合い、重い腰を上げて居間に向かった。大貴も不安そうに後からついてきたが、亮が居間に入る直前で彼を止めた。


 居間に足を踏み入れると、テーブルに裕実と匠がついていて、その向かい側の椅子に朱那たちは腰掛けた。

 同時に裕実が口を開く。


「二人とも匠に謝りなさい」


「……はあ?」


 訳が分からないとばかりに亮が眉をひそめた。


「昨日のことよ」


「だからあれは匠が悪いんだっつっただろうが」


 亮が苛立たしそうに言う隣で、朱那は黙り込んでいた。匠の顔を見たくはなかったので視線はテーブルに落とし続けた。

 裕実がやれやれといった風にため息を吐き、更に話す。


「匠に聞いたら、亮がいきなり殴ったって言ったわよ? それにその子が勝手に部屋に入ってきたって言うし」


「……ふぅん、俺は匠が何をしてたか全部話したよな。それを知ってて、あんたはそっちを信じるわけだな」


 亮の声に徐々に怒気が混じっていくのを、朱那はひしひしと感じた。一方匠は、自分は悪くないと言わんばかりに、知らん顔でそっぽを向いている。

 一呼吸置いて裕実が告げた。


「匠はそんなことしないもの。あり得ないわ」


「……ふざけんな」


 吐き捨てるように言って亮は乱暴に立ち上がった。そして朱那の腕を掴み、引っ張り上げる。

 無言で歩き出す彼に朱那はついて行った。背後で「待ちなさい!」と裕実が叫んだが、二人とも振り返らずに居間を後にした。


 廊下に佇んでいた大貴の頭を亮がくしゃりと撫で、「ちょっと待ってろ」と言って自室に向かった。そしてすぐに戻ってきた彼は、二人を促して家の外に出た。

 何も言わずに門をくぐり歩き出す彼を、朱那と大貴は小走りに追いかけた。


「亮くん、どこ行くの?」


「どこでもいいよ。あんな家いたくないだろ、お前らも。昼飯でも食いに行こうぜ」


「……でも私財布持ってきてないよ」


「俺がおごる」


「え……でも」


 申し訳なく思い大貴と顔を見合わせていると、亮は疲れたようなため息を吐いた。


「ま、ハンバーガーぐらいしかおごれねぇけど。気にすんな」


「うん……帰ったらお金返すね」


「だからおごりだって言ってんだろ」


 ぷっと吹き出した亮は、ぽんぽんと朱那の肩を叩いた。


 朱那は眉を下げて彼の横顔を見つめた。

 もしかしたら、亮は昨日のことで責任を感じてしまっているのかもしれない。亮は何も悪いことはしていないのに、むしろ助けてくれた側だというのに。

 気を遣ってくれるのは有り難いが、やはり申し訳なさが上回ってしまう。

 朱那は小さくため息を吐いて、視線を落とした。そして心の中で亮に謝った。




「朱那……あんたすごい疲れた顔してる」


 翌週、学校で昼食のパンを頬張っていた時につむぎが心配そうに声をかけた。


「大丈夫なの? ……伯母さんの家、辛いの?」


「あは、大丈夫だよ」


 朱那は無理やり笑顔を作って明るく言った。

 でも本当は今すぐにでも家出したいぐらいだった。でもそれをここで愚痴っても仕方がない。朱那に頼れる場所はなかった。

 それにつむぎには匠との件は話していなかった。下手に話して恐がらせることもないと思ったのだ。

 せめて学校だけは、しがらみも恐怖もない、安らぎの場であってほしかった。


 つむぎは一層不安げな表情をする。


「じゃあさ、今日うちに泊まってかない? 明日休みだし。あんたちょっと頑張りすぎだよ、たまには息抜きしないと」

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