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モノクローム(3)

 初めて入る小学校で軽く迷い、通り掛かった教師を無理やり捕まえて校長室の場所を尋ね、礼を言ってから朱那は駆け出した。


 バスが渋滞に巻き込まれてしまい、帰り着くまでにだいぶ時間がかかってしまった。夕日も沈みかけている。

 一旦家に戻って着替えてから来ようと思っていたのに、それも叶わず制服のままだった。


 校長室にようやく辿り着き、朱那はノックもせずに扉を押し開いた。


「すみません遅くなりました! 栗原大貴の保護者です!」


 そう名乗りながら駆け込むと、校長室にいた二人が驚いた顔をして振り返った。

 その視線に朱那はハッとして慌てて居住まいを正す。

 校長とおぼしき人の良さそうな男性が柔和に笑ってソファーに座るよう促してくれた。


「栗原くんのお姉さんですね。話は伺っています、大変でしたね」


「いえ……」


 朱那は居心地悪く思いながら前髪を撫でつけ、言われたソファーに回り込んだ。

 そこには仏頂面の大貴が既に腰掛けていて、朱那は内心ほっとした。取っ組み合いのケンカと聞いてまず心配したのは怪我だった。しかし彼を見た感じ、かすり傷は負っているものの大きな怪我はないようだった。

 安堵したのも束の間、朱那はキッと眉を上げ、大貴の頬をつまんで力一杯引っ張った。


「このバカ! 何ケンカなんかしてんの!」


 そう怒鳴り付けると、大貴は痛みに小さく悲鳴を上げた。

 頬をつねったまま、朱那は彼に顔を寄せてヒソヒソと問いただす。


「あんた、空手の技使わなかったでしょうね」


「……使ってない」


「ほんとに?」


「ほんとに」


 二人は探るように睨み合い、しばらくして朱那は手を離した。


「ならいいわ」


 そう言ってソファーに座り、こちらを眺めていた校長に向き直って深々頭を下げた。


「すみません、うちの弟がご迷惑をおかけして」


「いえいえ。栗原くんは大人しそうに見えて、意外とやんちゃさんなんですね。お家でもそうなんですか?」


「うーん……まあそうかもしれないです」


 俯いて頬を擦っている大貴にちらと目をやり、朱那は曖昧に答えた。


 前の家にいた時は、よく遊び駆け回っていたし、空手も性に合っているのか楽しんで稽古していた。

 大人しくて優しい性格ではあるが、基本は活発な普通の小学生だった。

 それに何より、幼馴染みの菜月といる時は本当に楽しそうで、性別が違う者同士なのに二人の波長は驚くほど合っていた。たまに大貴と菜月は双子なんじゃないかと思うぐらいだった――互いの両親は最早双子のように扱っていた。


 両親が死んで、菜月という片割れとも離ればなれになり、大貴の心の拠り所は今どこにあるのだろう。自分は彼の拠り所になれているのだろうか。


 そういえば、と朱那はふと思い至った。

 このところ大貴が笑っているのを見たことがない。

 いつも一歩引いて、人の顔色を窺う素振りをすることが多くなったような気がする。


――ああ、大貴にめちゃくちゃ気を遣わせてる……やばいかも。


 このままでは大貴の感情が不安定になるのでは、と、僅かな不安が胸をよぎった。

 朱那は労いを込めて大貴の頭をぽんぽんと撫で、校長に目をやった。


「ケンカの相手はクラスの子ですよね……今日はもう帰ったんですか?」


「ええ、親御さんが迎えに来てくださったので。今回のケンカ、どうやら非は向こうにあるようでして。まあケンカの場合どちらも良くないんですが」


 校長は苦笑しながら隣に座っている女性――恐らく大貴の担任だろう――に視線を向けた。

 朱那は二人を交互に見つめ、おずおずと尋ねた。


「……ケンカの理由は何なんですか?」


「まあ些細なことですよ。相手の児童が栗原くんの持ち物を取り上げて、それを取り返そうとしたらケンカになってしまったそうです。ただのケンカなら、児童に厳重注意するだけなんですが、今回はお互い少し怪我をしてしまいましたからね。お呼び出しさせてもらいました」


「はあ、そうですか……」


 朱那は呆れ果て、大貴の頭を撫でていた手を一度拳にして軽く殴った。ゴンと鈍い音がして、大貴は頭を押さえてうずくまる。

 校長がくすりと微笑んだ。


「あまり怒らないであげてください。お姉さんが来るまでに彼もだいぶ反省していたみたいですから」


「あの……こういう場合って、相手の子の家に謝りに行った方がいいですか?」


「いえ、この場で互いに謝罪しあいましたので、その必要はありません。向こうの親御さんも理解してくださってましたよ」


「……そうですか」


 朱那はほっと胸を撫で下ろし、そしてもう一度頭を下げた。隣で大貴も頭を下げたようだった。


 完全に日が落ちて薄暗くなった帰り道を栗原姉弟は無言で歩いていた。

 数歩遅れて俯き加減で歩く大貴に目をやり、朱那はやれやれとため息を吐いた。


「ケンカの原因、何だったの?」


 穏やかな声音に聞こえるよう心がけながら尋ねると、大貴はちらと視線を上げた。

 朱那は微かに笑みを浮かべ、彼の言葉を待った。大貴は少し躊躇ってから口を開く。


「……腕時計……お父さんの」


 小さく呟かれた言葉に朱那は息が詰まり、「そっか」と返すのがやっとだった。

 何も言わずに手を差し出すと、大貴はすぐに掴んでくれた。

 そしてまた二人は無言で歩き続けた。


 伯母の家に帰り着き、玄関を上がって廊下を歩いていると伯母の長男・亮と出くわした。

 朱那より二つ年下の高校一年生だが、彼は身長がやけに高く、朱那よりも頭の分だけ飛び出ていた。髪の毛は明るい茶色に染め、両耳に小さなピアスをつけ、服もだぼっとした部屋着をよく着ている。彼にはチャラチャラした印象がまとわりついていた。

 しかし話をすれば意外と筋の通ったことを言い、実はこの家では比較的まともな人種だ。


 亮はアイスキャンディ片手に朱那と大貴をじろじろと見下ろし、突然ニヤリと口の端を上げた。


「大貴、学校でケンカしたんだってな、親がぶつぶつ言ってたよ。また何か文句言われるだろうから、覚悟してた方がいいんじゃね」


「……はあ、ですよね」


 朱那はため息を吐いてうなだれた。

 世間体を非常に気にする伯母が、何も言わないで済ませるはずがないと朱那は分かっていた。

 亮が短く笑い声を上げ、その場にしゃがんで大貴の顔を覗き込む。


「ケンカ、勝った?」


「……勝った」


 頷く大貴の頭を亮は節張った手でがしがし撫でた。

 朱那はどういう意味で“勝った”なのか理解に苦しんだ。


「よくやった。でもな、ケンカ吹っ掛けられてもさらっと流せるのが男ってやつだぞ。まあ大貴はまだ小学生だし、勝っただけでも褒めてやる。あ、ちょっと待ってな」


 そう言って立ち上がった亮は台所に引き返し、何かを持って戻ってきた。


「ばあちゃんが買ってきてくれたんだ。お前らにもだって」


 亮が二人に差し出したのはあずき味のアイスキャンディだった。今亮が食べているのと同じものだ。

 それを受け取って朱那は目を丸くした。この家でお菓子の類は口にしたことがない。


「亮くんこれ……いいの?」


「いいんじゃね? アイスぐらい」


 驚きを隠せない朱那に反して、亮はけろっとしていた。朱那は嬉しさに思わず表情を綻ばせた。


「あ、ありがとう」


「……礼ならばあちゃんに言えよ」


 少しぶっきらぼうに言って彼は自身の部屋に引っ込んだ。

 朱那はその場に佇んだまましばらく彼の部屋の扉を見つめていた。


 グチグチうるさい陰険な母親と物静かかつ無関心を貫く父親からあんな良心的な子どもが生まれるなんて。遺伝子は謎だらけだな、などと柄にもないことを考えてしまった。

 朱那は大貴を見下ろして、にこりと笑う。


「大貴おいで、部屋行ってアイス食べよ」


 大貴がこくんと頷くのを確認して、朱那はあてがわれた狭い和室に足を進めた。




「――――なんなのケンカって。しかも相手に怪我させたんでしょ、信じられない、馬鹿なんじゃないの。大体子ども同士で謝ったって言ったけど、その親が文句言うかもしれないじゃない。それに文句言われるのは私なのよ? いい加減にしてほしいわ」


 夕食の食卓を囲んでいる中で、伯母・裕実ゆみは同じ愚痴や嫌味を繰り返し、その旦那・まなぶは相変わらず何も言わずご飯を食べることに集中していて、喜美はオロオロしながら皆の顔色を窺っている。今までずっとこの状態だったのだろうかと思うと子どもたちが憐れでならなかった。

 まあその子どもたちは既に慣れている様子で、我関せずを貫いていた。亮はたまに姉弟にも話しかけてくれるが、次男・たくみはご飯を食べながらケータイをいじるのにご執心だ。

 彼らの食卓に会話というものはあまりなかった。


 朱那はため息混じりにご飯を飲み込んだ。

 裕実の矛先が大貴に向いていることに気を揉んでいた。困ったことになかなか助け船を出すタイミングが掴めなかった。

 大貴は大貴ですっかり縮こまっているし、食もあまり進んでいない。そりゃあ、こんなに嫌味を浴びせられたら食欲もなくなるだろう。

 朱那が何度目かのため息を吐いた時、喜美が困ったように口を挟んだ。


「裕実、怒るのもそのぐらいにしたらどうなの」


「お母さんは口出ししないで。その子たち引き取ったお陰でうちが近所からどんな風に見られてるか……しかもケンカまでして、親が親なら子も子ね。まったく、どんな育て方したんだか。これでうちが非難されてみなさい、たまったもんじゃないわ」


 裕実のその言い方に、腹の奥で怒りがわいた。

 うちの両親は自分たちをここまで育ててくれたし、少なくともあんたよりは遥かにいい親だったと叫びたくなった。

 いつもなら聞き流すことができたはずなのに、大貴がケンカした理由を知っているためか今日は何だか許せそうになかった。

 箸をぎゅっと握りしめていると、テーブルの下で誰かに足を蹴られて驚いた。

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