モノクローム(1)
高校生の朱那視点の過去話。長めです。
若干の残酷描写がありますのでご注意ください。
病院の椅子に腰掛けて、朱那は父・達也に寄り添っていた。
ぷらぷらと足を揺らし、時折達也の顔を見つめ、そして明かりの灯る緑のランプを見上げる。ランプに書かれている文字は朱那には読めなかった。その下の扉の向こうに、朱那の母・陽子が入っていった。
それからもうどのぐらい時間が過ぎただろう。
陽子は未だに出てこないし、隣の達也は始終そわそわしているしで、朱那の不安は徐々に膨らんでいた。
「……おとうさん、赤ちゃんうむのってたいへんなの?」
朱那は眉を八の字に下げ、父の手を掴んだ。
母の膨らんだ腹に赤ちゃんがいるのだということは分かっていたが、赤ちゃんがどのようにして出てくるのか朱那は知らなかった。病院で産むということはやはり手術をしているのだろうか、などと考えていた。
振り返った達也は、大きな手の平で朱那の頭を引き寄せ、優しく撫でる。
「そりゃもう大変だよ、鼻からスイカが丸んまま出てくる痛さだって話だぞ」
「……よくわかんない」
想像してみたが、想像がつかなかった。第一、鼻からスイカが出てくる訳がない。
怪訝に思って首を傾げていると、達也はぷっと吹き出した。
「まあ、出産は女の人しか経験できないからねぇ、お父さんも想像でしかないよ。でもお母さんは痛いの我慢して頑張ってるから、無事に産まれますようにって、朱那も祈ってよう」
「うん」
朱那は大きく頷き、顔の前で両手を合わせぶつぶつ呟いた。
「おかあさんいたくしないでください。でもはやく赤ちゃんにあいたいです。赤ちゃんはおとうとがいいです」
「弟? 何で?」
達也が笑いを含んだ声で尋ね、朱那は彼を振り仰いだ。
「だってね、いもうとは菜月ちゃんがいるもん。だからおとうとがいい」
「ああ、なるほどね。確かに妹みたいなもんだな」
達也は感心したように顎を撫でた。
昨年の夏、朱那の家のお隣・篠原さんの家に女の赤ちゃんが生まれた。名前は菜月といって、とても可愛いころころとした赤ちゃんだ。
朱那は幼稚園の帰りに必ず隣に遊びに行き、菜月の様子をずっと見守っていた。
菜月の母・純子がオムツを替えるのも側で観察して、たまに純子の手伝いをして本当の妹のように世話をした。
赤ちゃんが珍しいのもあったが、やはりか弱い存在が側にいるとつい構いたくなるのだ。
そして今日――年を跨いだ二月の初旬、栗原家にも新しい家族が増えようとしていた。
達也がまたぽんぽんと朱那の頭を撫でる。
「朱那もお姉ちゃんだな。赤ちゃんのこと、ちゃんと守ってあげるんだよ」
「うん!」
“お姉ちゃん”という言葉が嬉しくて、朱那はにっこりと笑った。
その時、扉の向こうから微かに産声が聞こえ、朱那と達也は顔を見合わせた。そして達也が立ち上がり、朱那もぴょんと椅子から飛び降りた。
どうやらついに赤ちゃんが生まれたようだ。
即座に扉が開き、笑顔の看護師が出てくる。
「栗原さん、おめでとうございます。無事に産まれました、男の子ですよ」
「そうですか、ああよかった……朱那よかったな、弟だって」
ほっと胸を撫で下ろした達也は腰を折って朱那の顔を覗き込んだ。
朱那はパッと顔を輝かせた。
「ほんと!?」
「ほんとほんと。今から一緒に会いにいこう」
くすりと笑った達也が朱那の手を掴み、看護師に促されながら分娩室に入る。
朱那は期待と緊張に胸をドキドキさせて父についていった。
分娩台に横になっている母がこちらに気付き表情を綻ばせた。母は疲れた様子だったがそれでも元気そうで朱那はほっとした。
「陽子、お疲れさま。よく頑張ったね」
達也が労いの言葉をかけ、陽子の汗ばんだ額を撫でた。陽子が嬉しそうに微笑む。
「男の子だったの。かわいいよ」
そう言って陽子は右の胸に抱えている赤ちゃんを慈しむように見下ろした。
朱那は背伸びをして赤ちゃんの顔を見ようとするが、身長が足りずいまいち見えない。
その場でぴょんぴょん跳ねていたら達也に身体を抱え上げられた。
「見えるか?」
「うん。……なんかしわくちゃだねぇ」
朱那は赤ちゃんを覗き込み、見たまんまの感想を述べた。朱那には一概にも可愛いとは思えなかった。
だって夏に生まれた菜月と比べても全然違うんだもん。
すると達也が声にして笑った。
「しわくちゃかぁ、朱那も生まれたてはこんなんだったんだよ?」
「えーっ」
朱那は驚いて父を凝視した。すると彼はニヤリとする。
「しわしわで、真っ赤でね、宇宙人みたいだった」
「……わたし宇宙人じゃないもん」
むうと頬を膨らませると、達也はまたケラケラと笑う。一方で陽子が呆れたように言った。
「ちょっと、子どもをからかわないの。朱那、お父さんだってねぇ、朱那が生まれたときは腰抜かしたんだよ。だから今回は付き添わせなかったの」
「陽子さんそれ今言う?」
がくりと肩を落とす達也を無視して陽子は朱那に笑いかけた。
「朱那、お姉ちゃんになったね。弟のこと可愛がってあげてね」
「うん」
朱那は笑って頷いた。
「そういえば、名前決めてる?」
ふと陽子が首を傾げると、達也は胸を張って自信満々に言った。
「もちろん、決めてるよ。大貴」
「だいき?」
朱那と陽子の声が綺麗に揃った。
「そ。大きいに貴い、で大貴」
空中に指で字を書きながら達也が付け加えた。
「へえ、大貴かぁ。ふふ、大貴、いい名前付けてもらったねぇ」
そう言って陽子は大貴の小さな背を擦り、慈愛に満ちた目で達也が二人を眺めている。
その幸福で溢れた様子は、幼い朱那の記憶に鮮明に焼き付き、これからもずっと胸の中で輝き続けることになる。
* * * * *
「――――ちゃん」
誰もいない二階の部屋で、朱那と大貴は寄り添ってうとうとまどろんでいた。
両親の葬儀や出棺も何もかもが終わり、二人は親戚一同と家に戻った。
すぐにどっと疲れが押し寄せ、大貴も眠そうにしていたので親戚たちから離れて一時の休憩を取っていた。
両親が死んでからというもの、姉弟はゆっくり休む暇がなかった。夜寝ている間も両親のことを思い出しては飛び起き、不安と恐怖に押し潰されそうになって眠れなくなることが何度もあった。それは大貴も同じで、二人とも軽い不眠症に陥っていた。
だから今はこの疲れを利用して出来る限り睡眠をとりたかった。まどろむ中で声をかけられた気がしたが、朱那は夢だと思い込みそのまま目を閉じていた。
「朱那ちゃん」
急に肩を揺さぶられ、朱那はびくりと身体を震わせて飛び起きた。
「ごめんね、休んでるとこ……」
肩を揺さぶったのは隣の家、篠原家の奥さんの純子だった。その後ろには旦那の誠がどこか寂しげな表情を浮かべて佇んでいる。二人ともまだ礼服姿のままだ。
篠原夫妻は朱那たちの両親と古くからの親友同士で、朱那たちのことも生まれた時から可愛がってくれた。夫妻の子ども・菜月とも兄弟のように育った。
彼らは両親の通夜から出棺にいたるまで、常に朱那と大貴の側にいてくれたのだった。
朱那は目を擦り、その場でもたもた座り直す。
「……どうかしたんですか?」
「うん……あのね、あなたたちの引き取り先が決まったわ」
純子が僅かに眉を下げて告げた。
その報告に朱那は気落ちし、無意識に未だ眠る大貴へ視線をやった。
朱那の落ち込んだ様子にうろたえ、純子は話を続けた。
「達也くんのお姉さん――あなたたちの伯母さんが引き取ってくれるそうよ」
「……そうですか」
朱那は力なく答えた。
どこに引き取られても同じだと、朱那は投げやりに考えた。自分たちがどこに行こうが、もう二度と両親の顔は見られないのだから。それにもう二度と、この家にも戻らないのだろう。
これからは両親に代わって大貴の面倒を見ていかなければならない。大貴はまだ小学生だから、彼のためにも自分がしっかりしなければ。
自信はなかったが、大貴がいるなら新しい環境でも頑張れる。そんな気がした。
朱那は顔を上げ、純子たちに弱々しく微笑みかけた。
「わざわざ報告ありがとうございます。おばさんやおじさんと離れるのはちょっと寂しいですけど……大貴と頑張ってみます」
「朱那ちゃ……」
急に純子が涙ぐみ、言葉を詰まらせた。
同情してくれたのだろうか。そう思ってくれるだけでも有り難かった。小さな欠片でも救いが残されているようだった。
すると誠が近寄り、急いた様子で傍らに膝をつく。
「朱那ちゃん、何かあったら俺たちに連絡するんだよ。力になるから」
「……はい、ありがとうございます」
朱那は微かに頷いた。
伯母の家に行ったら、恐らくもう篠原家と交流することはないのだろうと、朱那は心のどこかで悟っていた。
自分たちで生きていかなければならないと。覚悟を決める時がきたのだ、と。