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コーヒーの匂い(3)

「そうだ、俺もお前のこと名前で呼ぶから」


「え?」


 テーブルの前に座る大和を見下ろし、光は目を見開いた。


「だってお前ん家で“奥村”って呼ぶと奥村家全員が返事するだろ。その度に俺フルネームで呼んでんだぞ」


 おかしそうに大和が言った。

 それは分かっている。分かっているのだけれど、今まで苗字で呼ばれてきてそれに慣れているのに、急に名前呼びされたらたぶん心臓が持たない――嬉しくて。

 光が戸惑っていると、大和がくすりと笑う。


「そんなに悩むことなのか?」


「だ、だって……なんかむずがゆい」


「ふーん? だったら、お前も俺のこと名前で呼べばいいじゃん」


「ええ?」


 光は瞠目した。すると彼はいたずらを思い付いた少年のようにニヤリと口の端を上げ、前に座るよう促した。

 光は思わずうろたえたが、観念して彼の前に腰を下ろす。

 そして大和は少し膝を寄せ、からかうように小首を傾げた。


「はい、名前で呼んでみて」


「うぅ……や……」


 光は膝の上で両手を握り締め、ほんのり熱くなった顔を隠すように俯いた。

 彼の名前を口にするだけなのに、何でこんなに恥ずかしがっているのだろう。

 それはたぶん、本人が目の前でこちらをじっと見ているから。

 光は胸を締め付けられる思いで、意を決して口を開いた。


「……や……まと……くん」


 かなり小さい声で呟いた後、光は両手で頬を覆って縮こまった。すると大和がぷっと吹き出す。


「お前いつもこんななのにな、落ち着いて見えるっておかしいだろ」


「……それは私も思った」


 光はうなだれながら返した。


「まあそういう顔するのが俺の前だけってなら、結構嬉しいかも」


 そんなこと面と向かって言わないでよ、とは声に出来ず光は口をぱくぱくと開閉させた。

 光は視線をそらして咳払いし、少し拗ねながら言う。


「私にだけ名前で呼ばせて、そっちこそ私のこと名前で呼べるの?」


「呼べるよ。光」


 大和があっさりと名を口にし、光はうっと顎を引いた。ちらと視線を戻すと、彼はにやにやしていた。


「お望みとあらば何度でも呼ぶけど? 光、光、光さーん」


「う、うう、もういいですぅ……」


 恥ずかしさに両手で顔を覆った。

 名前を呼ばれるだけでこんなに胸が高鳴るなんて思いもしなかった。

 付き合い始めて八ヶ月。いい加減慣れてもいい頃だと思うのに、大和といると心臓がうるさくて敵わなかった。


 光が狼狽しきっていると、突然大和の手が光の腕を掴み、引っ張った。その勢いで光は大和の胸に飛び込んだ。

 そしてぎゅうと抱き締められ、光は慌てふためく。


「みっ、南く――」


「大和」


「……大和くん」


「はあ、お前可愛すぎだろ」


 耳元で囁かれてぞくりと身体が震え、光は思わず目をきつく閉じた。


「会うの久しぶりだし、ちょっと甘えさせて」


 首筋に頬を寄せ、彼はため息を吐いた。

 お願いだから、そういうことを間近で言わないで。大和にとってそうであるように、自分にとっても触れ合うのは久しぶりだ。

 意思とは裏腹に、喜びで身体が震えてしまう。


 光はおずおずと彼の背に手を添え、ゆっくり呼吸を繰り返した。

 身を委ねていると大和の鼓動が伝わってくる。その一定の音を、ずっと聞いていたいと思えるほど、彼の腕の中は居心地がいい。


 どれぐらいそうしていただろう。いつしか大和の手が光の髪を梳き、優しく撫でていた。

 いつからか、大和は髪に触れることが多くなった。愛しむように、それでいてどこか無意識にそうしている。

 どうしてなのかを以前尋ねてみたら、さらさらしていて気持ちがいいから、と彼は少しぶっきらぼうに答えた――それが照れていたからだということは後から気付いた。

 髪の手入れをちゃんとしていてよかったと、光は心底思った。

 それに今では大和に髪を撫でられることが好きになってしまっていた。


 光がふふと微かに笑うと、大和は腕を緩めて不思議そうに顔を覗き込んできた。

 その大和の表情が何だか可愛らしくて、光は唇で彼の唇にそっと触れた。

 そしてしばらくしてハッと我に返り、慌てて身体ごと離れる。


「ごっ、ごめん!」


「……なにが?」


「いきなり、き、キスなんかして……私――んっ」


 光の言葉を奪うように、今度は大和が口付ける。

 重ねるだけのキスだったが、光の心臓は口から飛び出てしまいそうなほど跳ねた。

 名残惜しむようにゆっくり唇を離し、大和は低く言う。


「頼むからあまり挑発するなよ……俺の理性は結構脆いからな」


「……ええ!?」


 光が驚いて顔を真っ赤にすると、大和は「あー」と頭を掻いた。


「うそうそ、なんもしねーよ。ちゃんと自制してるって」


 大和がそう言い、光はあからさまにホッと胸を撫で下ろした。

 すると彼は少しむっとしたようだったが、すぐにやれやれといった風に肩をすくめた。


「親の勘も馬鹿にはできねぇな」


 彼が口の中で呟いた言葉は光には聞こえず首を傾げたが、何でもないと流されてしまった。


「今何時だ?」


「えっと、四時半過ぎ」


 ベッド横にあるデジタル時計を見て光は答えた。


「外出てどっか行こう」


「うん、いいけど……あ、さっき飲んだコーヒーってどこのお店で買ったの? 私もほしいな」


「ああ。俺も親に送らないとだし、教えるよ」


 大和が立ち上がり、光も嬉々と立ち上がって鞄を持った。




 コーヒーの芳ばしい匂いのするアンティーク調の店から出て、光は一息吐いた。

 その手には先ほど買ったコーヒーの袋を抱えている。

 続いて店から出てきた大和に振り返り、光は微笑んだ。


「教えてくれてありがとう、うちのお母さんもコーヒー好きなんだ」


「あー、そういやよく飲んでるよな」


 宙を仰ぎながら大和は言い、そして歩き出した。光は彼の隣に並んで尋ねる。


「みな……大和くんは、いつからコーヒー好きなの?」


「さあ。結構前から飲んでるよ」


「へえ、私紅茶はよく飲むけど。コーヒーってやっぱり大人の味って感じがする」


「そうか?」


「うん」と光は頷いた。


「そういえば菜月ってコーヒー飲めないよね。いつもオレンジ飲んでるイメージだな菜月は」


「あいつは舌がお子様だからな」


 そう言って大和が鼻で笑い、光も小さく笑った。

 その時ふとガラス張りの店が目に入り、光は大和の袖を引っ張った。


「大和くん、雑貨屋さん寄ってもいい?」


「ん? いいよ」


  二人は連れ立ってその雑貨屋へ入った。

 その雑貨屋は輸入品も取り入れていて、欧州やアジアンテイストの物もたくさん置いてあり、見ているだけでも十分楽しめる空間だった。

 光が探し物をしてきょろきょろと辺りを見渡していると、大和が口を開いた。


「俺も買いたいものあるからちょっと見てくる」


「うん、わかった」


 軽く手を振って大和と別れ、光は奥に進んだ。皿や茶碗を横目に見ながら目的の物を探す。


――あ、あった。


 光はグラスやカップが並べられている棚に足早に近寄って物色し始めた。


 欲しいものはカップだった。もちろん、コーヒーを飲む用の。

 様々なコーヒーカップやマグカップたちを上から下まで眺め、光は首を捻る。


――大和くんの好みってどんなのだろう。


 改めて考えるとすぐには思い付かなかった。

 とりあえず彼の部屋の雰囲気を思い返し、青や灰色の物を中心に選ぼうと決めた。

 そして目に止まったのは、下の段にあるターコイズブルーの取手のついたステンレス製のカップだった。


 光はその場にしゃがみそれを手に取った。

 光にはかっこいいと思えるのだが、果たして彼が気に入るだろうか。

 他のものと見比べたりしながらうんうん唸っていると、ふと横に気配を感じ光はそちらに目を向けた。


 いつからそこに立っていたのか、おかしそうな表情を浮かべた大和がいた。

 光は慌てて手にしていたカップを全て棚に戻した。そして何事もなかったかのように取り繕う。


「買い物終わったの? 早かったね」


「ルーズリーフだけだったから。光はコップ買うのか」


「うん。あっ、えっと……」


 あなたに贈りたくて選んでました、なんて言えなかった。

 隣に立った大和が「あ、」と声を発した。


「これいいな」


 そう言って大和が手に取ったのは、先ほどまで光が選んでいたステンレスのカップだった。

 光は思わず大和を凝視した。


「それ買うの?」


「いや、迷い中。千円もすんのかよこれ」


 カップの裏に貼られている値札を見て大和がため息を吐いた。

 光は意を決して手を差し出す。


「わ、私が買う……」


「へ?」


 大和がキョトンとして振り返る。


「その……入学祝のプレゼントに」


 視線を泳がせながら言うと、大和はしばらく無言でこちらを見ていた。

 光がちらと眼をやると、彼はふっと笑った。それが喜んでいるように見えたのは、光の気のせいだろうか。


「じゃ、光も一つ選べよ。俺がプレゼントするから」


「……ほんとに?」


 光はパッと顔を輝かせた。


「ほんとに。あ、でもそれ俺ん家用な。コップ少ないし、置いといて。どうせ遊びにくるだろ」


「うん、ありがとう」


 嬉しさに満面の笑みをこぼし、光はマグカップを選び始めた。

 その隣で大和が少し照れたように咳払いしたのだが、光は気付いていなかった。



 二人はそれぞれ会計を済ませ、そして交換し合った。

 光は箱に入れられたマグカップを両手で大事に抱えて、頬を緩めた。

 大和と一緒にいると、少しずつ、大切なものが増えていく。これからも、もっともっと増やしていけたらどんなにいいだろう。

 隣を歩く大和が急に思いついたように振り返る。


「晩飯食ってから帰る?」


「うん」


「ファミレスでいいか?」


「いいよ。……うう、なんか夏休みのこと思い出した」


 大袈裟に目頭を押さえて泣き真似をすると、大和は渇いた声で笑い「すみませんね」と呟いた。

 光は顔を上げてにこりと微笑む。


「ケーキ奢ってくれたら許してあげる」


「……ケーキさっきも食ってただろ」


「あ、そうだった。じゃあパフェでいいよ」


「結局食うんかい。今日だけな」


 大和が折れたのを見て、光はやったーと喜びの声を上げた。

 それから荷物を片手に持ち、空いたもう一方で大和の手を掴む。

 すると意外そうな表情で大和がこちらを見下ろし、光ははにかんだ。

 こういうことも大切なのだと、いつしか光も考えるようになっていた。




おわり

(苦いコーヒーに溶けていく、甘い砂糖)


 久しぶりに読み返してめちゃくちゃ照れてしまいました……笑

かなり我慢してると思います大和は。

 この二人はいつから名前呼びになるんだろうなーと考えてたらこの話ができました。

 あと奥村家出したから南家も出したいなーとも思っていたので、大和のお母様・百恵さん登場でした。

 なんか大和ママン登場にお家デートにお外デートに詰め込み過ぎたかなと思いましたが笑、書くのが楽しかったのでスルーします。

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