コーヒーの匂い(2)
光は弾かれるように顔を上げた。
思った以上に彼女の声が優しく、心底安堵してしまった。
「奥村……光です」
「光さんね。私は大和の母の百恵です。気軽に百恵さんって呼んでね」
「は、はい……」
人受けの良さそうな笑顔で百恵は言い、光は少し困惑しながらも頷いた。
「ところで、光さんは大和の彼女?」
「う……はい」
唐突な質問に光は僅かに頬を染めた。
大和のそれと似た、綺麗な二重の百恵の瞳がじっとこちらを見つめる。
「そう。大和の昔の話は聞いてる?」
「……聞いています」
光がおずおずと頷くと、百恵はにっこりと笑った。
「よかった、それなら大丈夫そう。付き合うことには反対しないけど、節度は守ってね?」
「あ、はい……もちろんです」
そう言いながらも光は内心狼狽していた。
彼女の言う節度とはキス以上のことを指しているのだろうが、実のところキスもろくすっぽできていなかった。
今まで受験勉強で忙しかったのもあるし、それにやはり光が無意識の内にガードしているようで、大和もいつも一線引いた外側にいる。
そのことに安心している自分もいるが、それでも少し寂しかった。
自分にだって、たまには彼に触りたくなる時ぐらいあるのだ。
光がこっそりため息を吐いた時に大和が戻ってきた。
大和が手にしているマグカップが一つ増えていて、彼は片方を百恵に、もう片方を光に差し出した。
「ほら、熱いからな」
「あ、ありがとう」
光は慌ててそれを受け取った。
「砂糖は?」
「……ほしいです」
「何個?」
「えっと一個で」
そう言うと大和はスティックタイプの砂糖とスプーンを手渡した。
光は礼を言ってコーヒーに砂糖を入れ、スプーンで掻き混ぜてから一口飲んだ。
――あれ、あまり苦くない。
もちろん苦味はあるのだが、鼻に抜ける香りがとてもよくて気にならなかった。確かに美味しい。
そういえばさっき専門店で買ったようなことを言っていた。どこの店か後で聞いてみよう、と光は思った。
そこでようやくケーキがあることを思い出し、光はコーヒーを堪能する百恵を窺った。
「あの、そこにある箱、ケーキが入ってるのでよかったら――」
食べてください、と言う前に、突然百恵の目がキラリと光った。
「ケーキ? ほんとに? いただいちゃっていいの?」
「はい、三つありますので、お好きなのをどうぞ」
百恵の声がやけに弾んでいて、光は思わず微笑んだ。
百恵が箱を開けて覗き込むのと一緒に、大和も中を覗き込む。
二人の顔が近寄って、それを見た光は目を丸くした。母子の顔立ちや髪の色が驚くほどに似ている。
――南くん、お母さん似なんだ。
「じゃあ私はモンブランにしようっと」
「あ、それ俺も食べたかったのに」
「レディーファーストよ、レディーファースト。光さんはどれにする?」
百恵の笑顔がこちらを向き、光はキョトンとして手を振った。
「え、えっと、私は余ったものでいいです」
「まあまあ、そう遠慮しないで」
明るく笑う百恵に手招かれたため、お言葉に甘えてと光は箱を見下ろす。
残っているのは苺のショートケーキとフルーツタルト。
どちらも美味しそうで、それにどちらも好きなので即決できそうにない。
光は思わず大和に視線を向けた。
「南くんはどっち食べたいの?」
「どっちでもいいけど」
「えー、それじゃ困る」
「じゃあ苺の方」
「わかった、私はタルトね」
「皿持ってくる」
大和が台所から皿を三枚持ってきて、光は箱から取り出したケーキをそれに載せていく。
モンブランを百恵の前に置くと、こちらを眺めていた彼女がどこかおかしそうに口を開いた。
「あんたたちっていつから付き合ってるの?」
「んー、七月の終わり」
「へえ。ってことは八ヶ月ぐらいか。結構短いのね」
「そうか?」
ケーキを包んでいる透明なフィルムを剥がしながら、大和が訝しげに百恵を見る。
モンブランをつついて百恵が頷く。
「だってあんたら見てるとどっちも落ち着いてるんだもの。付き合いたての初々しさはどこ? って感じ」
「ふーん、端から見るとそんな風なんだ」
大和にちらりと顔を見られ、光は思わずピンと背筋を伸ばした。
――落ち着いて見えるのか……。
大和と一緒にいるときの自分の心の中は、いつも落ち着かないというのに。
光はタルトをゆっくり口に運んだ。カスタードクリームの甘さとフルーツの酸っぱさが絶妙な加減で口の中に広がる。癒される味だ。
しばらくケーキを堪能していた時、思い付いたように大和が百恵に尋ねた。
「そういや健は? じじいん家?」
「ううん、今日はお友だちと遊ぶ約束があるからって、明日お父さんと来るわ。私だけ先に来たの。明日はあんたもおじいちゃんの家に行くのよ? わかってる?」
「わかってるよ……合格祝いとか別にしなくていいのに」
「バカ、うちから医学部生が出たってだけでもすごいのに、祝わないでどうするの」
「はいはい」と面倒そうに言い、大和はケーキをたいらげた。
光は微笑ましく思いながら二人の様子を眺めていた。
そういえば、奥村家でやった光の合格祝いには大和も来てくれた――正確には光の母・久美子が呼んだのだけれど。
近い内に大和と二人で合格祝いできたらいいなと思ったのだが、もうすぐ入学式だし、そんな暇はないかもと思い直し、そっと胸の奥に仕舞った。
「そうだ、明日こいつも呼んでいい? 俺、前にこいつん家の合格祝いに呼ばれたんだけど」
「うん、いいんじゃない? ついでだからお父さんにも紹介しなさいよ」
唐突に光の参加も決まってしまい、光はあんぐりと口を開いた。
大和が振り返る。
「ということだが明日暇か?」
「暇だけど……あの、本当に私が行ってもいいんですか?」
弱り果てた視線で二人を交互に見つめると、百恵がまたさらりと言う。
「ええ。大和が光さん家にお世話になったみたいだし、ケーキもご馳走になったし、そのお返しと思ってもらえれば」
「は、はあ、そうですか」
それぐらいのことで誘われるとは思ってもみなかったので、何だか悪い気がして光は縮こまった。
それにまだ大和の家族に会うための心構えも出来ていない。
「そんなに構えんでも、じじいとばあちゃんには奥村も何度か会ってるだろ。母さんとももう顔は合わせたし、父親は……普通の人だったらいいな」
「えっ、願望?」
大和を見つめて光は目をしばたいた。即座に百恵が大和の頭を軽くはたく。
「くぉら、うちの旦那を変人扱いしないでもらえる。普通のサラリーマンです」
「だって趣味が」
「誰でも趣味の一つや二つ持ってるでしょ」
光は首を傾げなからどんな趣味だろうと考えた。しかし全く想像がつかなかったので、気を取り直して口を開く。
「じゃあ明日、楽しみにしてます」
「はい、お待ちしてます。時間とかは大和が連絡するからね」
百恵がにこりと笑い、光もふっと表情を緩めた。
大和の家族と会うことに多少の不安は抱いていたのだが、案外大丈夫そうだ。
コーヒーを飲み、ふと大和が首を傾げる。
「つーか何で母さんだけ今日来たんだよ。健たちと明日来ればいいのに」
「あんたに食べ物とか持ってきてあげたんじゃない。それから、私は今日はおばあちゃんたちと親子水入らずでディナーしに行くの。ふふん、羨ましいだろ」
「いや別に」
さらりと言う大和を、百恵はじとりと横目で睨んだ。
そして小さく肩をすくめてからモンブランを綺麗にたいらげ、百恵は立ち上がった。
「さてさて、私は帰ろうかしら。彼女と二人きりのとこにお邪魔して悪かったわね」
「ああ、本当にな」
「はあー、相変わらず憎まれ口たたくこと。この買ってきたやつあんたが片付けなさいね。じゃあ、光さん、ケーキご馳走さまでした。また明日会いましょ」
「あっ、はいっ」
光は慌てて立ち上がり、玄関へ向かう百恵を見送ろうとついていった。
玄関先で二、三言葉を交わして、百恵はにこやかに手を振って去っていった。
ドアを閉めて振り返ると、大和が壁に寄り掛かってこちらを見ていて光は驚いた。
そしてまた二人きりになったことに気付き、僅かに焦りを覚えた。
「み、南くんって、百恵さんにそっくりだね」
「……百恵さんって、いつの間に名前で呼び合う仲になったんだ」
「えっ? だって百恵さんがそう呼べって……」
光が自信なく眉を下げると、大和はふっと表情を和らげた。
彼が何を思ってそんな表情をしたのかは分からなかったが、それを見た光の心臓は一度大きく鳴った。
部屋へと引き返す大和についていきながら、光は照れ隠しに前髪を撫で付けた。