解脱する
解脱とは何か。
俺は弥勒菩薩像を見つめながら考えていた。
現世の束縛から解放されることだと辞書には載っている。
ならば、現世とは何か。
弥勒菩薩に背を向け、堂を後にした俺を青空が見下ろす。
この美しい世界が五分前に出来た可能性を指摘する思考実験があるらしい。それ以前の記憶は植え付けられたものだそうな。
誰がそんな面倒事をするのか。理由もないだろう。
ふと、背後の堂を振り返る。慈しみの表情を浮かべた作りモノの弥勒菩薩と目があった気がした。
この世界は仏や神によって作られ、解脱するか最後の審判を受けるほかに脱出出来ない。
この世界はまるで試験場だーー
その時、ほんの一瞬、視界が暗転した。
視界の闇が払われるとそこには白い天井が広がっていた。
「な、なんだ?」
思わず呟いて横たえていたらしい体を起こす。周囲には先ほどまでの俺と同じように横になっている男女の姿がある。
状況を確認していると部屋の扉が開かれた。
「やあやあ。解脱おめでとう! おっとキリスト教徒だったかな?」
部屋に入ってくるなり明るく言う金髪の白人男性。長身痩躯に白衣を着込んでいる。
「解脱?」
「失敬。キリスト教徒だったらしいね。ようこそ、エデンへ。歓迎するよ」
両腕を広げて大げさに出迎える。
エデン、つまりは天国か。俺は死んだのだろうか。
「混乱しているようだね。説明の前に頭に付けてる装置を外そう」
愉快そうに笑いながら、男は頭を指さす。くるくる回されたらバカにされてると思うところだ。
自分の頭を触ってみると、やけにゴツい金属の装置が付けられていた。その装置を男に手伝ってもらい取り外す。装置から伸びたケーブルは部屋中央の機械に接続されていた。
男は下手な口笛でスカボロ・フェアを奏でつつ、俺から取り外した装置を未だに横たわる男女の一人に手早く装着した。
「さて、食堂に向かいがてら種明かしといこうか」
男は俺の手を取って立たせると楽しくてたまらないといった顔で説明を始めた。
「お気づきの通り、君が今までいた世界は試験場だ。あらゆる事に疑問を持ち、思考することができる僕らのような優秀な頭脳の持ち主を選別するための世界なのさ」
男は廊下を歩く。
あの部屋にあった機械には数億人もの意識が閉じ込められ、今も仮想の世界で生活しているらしい。
「本来なら恐怖の大魔王の年で機械ごと破壊する手はずだったんだ。けれど、合格者が予想以上に少なくてね」
急遽、破壊の期日を延期した彼らはマヤカレンダーの最後をプログラムに組み込んだ。
この延期によって俺は機械の世界に捕らわれたまま死なずに済んだのだ。間一髪である。
「ラッキーだったね。だが、合格は合格だ。僕らは優秀なんだよ」
男は何度も“優秀”と繰り返す。
数億人から選別された自負があるのだろう。
「あの機械の中で俺は死んだことになってるのか?」
「ああ。今のトレンドは心臓麻痺だね。機械の負担を減らすためにちょっと前まではアルツハイマーだったんだが、インターネットの普及で若い合格者が増えたからさ」
そういえば、若年性アルツハイマーが話題になった時期があったな。原因はこれか。
「まあ、安心したまえ。僕らは優秀な者を見捨てない。こちらでの生活もサポートするよ」
「ここより上の世界はないのか?」
「あるわけないだろ。世界すら疑う僕らの上なんて」
俺の質問を男は一笑に付す。
本当にそうだろうか?
解脱はあらゆる痛苦からの解放だと聞く。輪廻が続く限り苦しみも続く。
本当に解脱したなら人のままであるはずがない。
そう、例えば俺が人ではなくアンドロイドならばーー
その刹那、視界が真っ白に染まる。再び、物の輪郭が見えるようになると俺の顔を覗きこむ機械人形を認識した。
「ヨウコソ」