散りゆく
ほとり、ほとり、
白い花びらが、闇の中を落ちてくる。
風のない庭で花びらは音もなく宙を舞い、地面につく直前、動きを止めて優雅に身を横たえる。
桜の花が満開を迎えた今日、夜に降る桜が見たくて、下男に竹の灯篭を作らせた。
陽が沈み暗くなった今、下男の作った灯篭は、庭を仄かに照らし出し、夜桜が見たいというあたしの望みを申し分なく叶えている。
ほとり、
また花びらが地に落ちた。
ふぅ
いつの間にか息を止めて見入っていたらしい。
息を吐き出すと、それに合わせて、また花びらが落ちてきた。
「姉さま、姉さま、旦那様がお越しになりました。」
使い走りの雛菊が、襖の向こうに現れた。
走ってきたのだろう、言い終えると、胸を押さえ息を整えている。
「お通しして。」
「はい。」
「酒肴の準備もお願いね。」
「はい。茂爺が、お酒を温めてます。」
「ありがとう。」
小さく微笑んで頷くと、雛菊はパッと笑顔になり、勢いよくお辞儀をして戻っていった。
その無邪気な様子に、自然と笑みが浮かんだ。
十四にもなるというのに、雛菊はまだまだ子供のようだ。
あの年頃には恋の一つや二つ、すでに知っていてもいいものなのに。
あたしが十四の年には、もうこの屋敷で旦那様を待っていた。
桜を見るために障子を開け放った部屋は、風はなくても冷える。思わず肩を寄せ、織部の手焙りを引き寄せた。
少し火が小さくなった手焙りの炭をいじる。火箸の先で燻っていた炭が爆ぜ、赤い炎が上がった。
「今夜は冷えるな。」
「おかえりなさいませ。」
先導もなく現れた旦那様は、後ろ手に襖を閉めると首を竦めていそいそとあたしの隣に腰を下ろし、手焙りに手をかざした。
静かだった部屋は、それだけで賑やかに色づいた。
こんなにもこの部屋を変えてしまうくせに、旦那様は「ただいま。」とは言わない。
庭に目を戻すと、また花びらが落ちてきた。
「へぇ、夜桜か。粋な趣向だな。」
旦那様は感心したように唸り、ネクタイの首元を弛める。
立ち上がり、用意してあった濃紺の紬の単衣と帯、揃いの羽織を手渡し、旦那様の背から上着を脱がせた。
「ええ、桜を一緒に眺めてみたくて。」
首から抜き取ったネクタイと上着を受け取り、部屋の隅に置いた衣紋掛けに掛ける。
旦那様専用の衣紋掛けが使われるのは月に数度だけ。
桜の時期は、旦那様の訪れは特に少なく、満開の時期にこの屋敷に帰ってくるのは初めてだった。
旦那様が脱いだシャツとズボンを次々に掛けていく。
すぐに旦那様の写し身が出来上がった。
「…この庭にも桜があったんだな。」
呟き黙った旦那様に微笑み、折良く運ばれて来た盃と肴を並べる。
熱燗の入ったお銚子を持ち上げると、旦那様は盃を取る。
古伊万里だという白い盃は旦那様のお気に入りで、お酒を注ぐと底に描かれた黄色い鯉が浮き上がって見えた。
くいっと盃を煽り、次を促した旦那様は、その間も桜から目を離さなかった。
旦那様の目は優しい。桜の散りゆく様を瞬きすらせずに眺めている。
見覚えのあるその表情に微かに眉を寄せ、記憶を手繰る。
旦那様のお顔は、愛でるようでもあり酔うようでもあった。
いつ見たのだろう。とても間近で、見たはずだ。
愛おしさと憐れみが入り混じったあの顔を。
その横顔を見つめ、次を望む盃に熱い酒を注ぐ。
「…儚いな。」
注いだ先から盃を干す旦那様は、寂しそうに唇の端を上げ、呟いた。
「桜は、お嫌でした。」
不安にかられ、旦那様の腕に手を置いた。
「いや、好きだ。ただ、この屋敷の桜は余りに綺麗で一途すぎてな。」
そう言って黙った旦那様は、あたしの手からお銚子を取り上げ、空いた指に盃を押し付ける。
「付き合え。」
「はい。」
旦那様は、盃になみなみと酒を注ぎ、飲めと言う。
一杯、二杯、
矢継ぎ早に注がれる盃を促されるまま干すうちに、体は芯から熱くなり、心はふわふわと漂い出した。
何杯目になるのか、お銚子が一つ空き、旦那様が空の銚子と酒肴の膳を脇に寄せ、あたしをぐいと引き寄せた。
「…儚いな。」
首筋を舐められ、酒で高ぶった意識が更に高く舞い上がる。
「…酔うて…ございます」
意味無く呟き、旦那様に触れられた場所から遠のいていく意識をつなぎとめた。
「ああ、」
あたしの背を撫で胸を弄る旦那様を見上げ、ふと、先の疑問の答えを見つけた。
旦那様の目は優しさと憐れみに満ちている。
「…さくら」
旦那様越しに見える桜に手を伸ばし、込み上げてきた名のない想いを解き放つ。
桜は静かにまた花びらを散らした。
「愛している」
囁かれる睦言に、ほとり、涙が落ちた。




