謀
『今、気づいて出てったわよ。バレないように、記者にはちゃんと口止め料お願いね』
何か、何か出来ないのか。あの女にやられる前に、何か!
焦燥感に突き動かされ、あの女が外へ出て行ったのを確認した後、部屋に入り込んだ。タンスにクローゼットに机の引き出し。目に入ってくるありとあらゆるもの全部をひっくり返す。
「くそっ! くそっ!!」
恐怖で気が狂いそうだった。早坂景の怒り狂った顔が、頭から離れない。父さんの尋常じゃない様子と、あの女の勝ち誇った声。その一つ一つが、僕を奈落の底へと追い詰めていく。
「くそっ! 負けるかよ! 負けてたまるかよっ!」
あんな女なんかに。
恐怖を放出するように、叫びながら物にあたった。
この部屋はもう、母さんの匂いはしない。ツンと気持ちの悪い香水の匂いに眉を思い切りよせ、手あたりしだいひっくり返した。
「こ、れ……」
カバンに手を突っ込むと、一枚の写真が。見覚えのある笑顔に、ピタリと僕の動きが止まった。慎重に、ゆっくりとその写真をカバンから引き出す。
「母、さん? っ、何で?」
久々に見た母さんの笑顔に、息が止まりそうになる。完全なる不意打ちだ。どうしてあの女が、母さんの写真を持ち歩いているのだろうか。
どこかの部屋で、ソファーに座りこちらに笑顔を向けている母さん。最近の物ではない、まだ母さんが20代の時の物だろう。幼いあどけない表情が、余計に僕の心を抉る。しかも。
「誰だ?」
そこには、母さんの肩に腕を回す男が一緒に写っていた。こんな男、見た事もない。歳は母さんより少し上だろう。真っ黒いスーツに身を包み、口を真一文字に結んでいる。恰幅がいいその男の右目は、半分ほどしか開かれていない。僅かな隙間から見える白濁食の瞳に思わず見入ってしまった。
・・・・・・この男が、何か関係しているのか? だとしたら、一体誰だ?
親しげに写っている2人に、ますます訳が分からなくなる。「お兄ちゃん、早くしないとおばちゃん戻ってくるよ!」というルナの声に、慌ててその写真を制服のポケットへと押し込んだ。
◇◇◇
「それで? どうやってアナタが我が社を助けるというのです?」
「簡単なことですよ」
白い壁に包まれた無機質な部屋で、力のない声に女が答えた。
薄いグリーン色のソファにゆったりと座り、丈の短いスカートも気にすることなく組んでいた足を組み替える。
余裕だとでも言いた気に。
「この有須加食品工場の土地を、水沢建設ではなくアイルカンパニーに売ってくださればそれで」
「アイルカンパニーに?」
「もちろん、水沢建設より多額の額を出します。移転先もご用意します」
「で、ですが、もう我が社のイメージは地に落ちて・・・・・・」
肩を竦めて小さく息を吐くのは、有須加食品社長である早坂雅彦。早坂景の父親だ。この一連の報道ですっかり生気を吸い取られてしまったらしい。
まだ30代半ばというのにもかかわらず、目の下には深いくま。唇は青く、目はうつろ。弱々しく、目の前に堂々と座っている女を見た。
「その誤報も全部、水沢建設に責任を負わせます」
女が、ニンマリと笑った。
「水沢建設に? そんな事が出来るんですか?」
「アイルカンパニーは今後、リゾート開発を中心に力をつけていくつもりです。その為の準備も着々と」
信じられないとでも言いたげに、雅彦が対面している女を見る。
正直、願ってもいない話だ。あの報道があってからは、商品の返品に次ぐ返品。そして悪質な嫌がらせに頭を悩ます日々。社長として、社員の生活も守らなくてはならない。
会社をつぶすわけにはいかない。
この女の話に乗ってしまえば、その全てが解決するのだ。
雅彦は深く息を吸って、
「広瀬綾子さん・・・・・・と、言いましたよね?」
「ええ」
「水沢建設の社長、水沢明社長とは、もう長い付き合いだ。水沢社長になら、この土地を売って、新天地で一緒にビジネスを広げていこうと思っていた。だがこうなれば、背に腹は代えられない」
確信した綾子が、待ってましたとばかりに一枚の紙をカバンから取り出した。
「先にあの人がウチを裏切ったんだ。俺も腹を括るよ」
「・・・・・・」
「この土地は、アイルカンパニーさんにお売りいたします」
「ご理解いただき、誠にありがとうございます」
意を決した雅彦に、綾子が『土地売買契約書』を差し出す。
「こちらにサインを。それで全てカタがつきます」
怪しく揺れたその声が、深く重く雅彦の手を動かした。