悪夢
一体僕は、何をやっていたんだ。
自分のことで精一杯になって、全然ルナの事を見てやいなかった。もう、アイツ一人だけだというのに。アイツ、一人だけが!
僕の、たった一人だけの家族だというのに。
運動会でも、マラソン大会でも、ここまで心臓が張り裂けそうになるほど本気で走ったことはなかった。今にも足から崩れ落ちそうで、滝の様に溢れだした汗が目に染みる。酸素を求める肺に、呼吸が全然追いつかない。苦しい。苦しくて死にそうだ。
だけど。どんなに苦しくても、死にそうでも。その光景を見た瞬間、全てサーッと引いていった。あれ程の苦しさが、一瞬にして絶望と怒りに代わる。
何で? 何でこんな事になっているんだ。 何で、何で、何で!!
ガーデニングも趣味だった母さんが、色とりどりの花で整えられていた庭は、もう乱雑に荒れてしまっている。その来るものを歓迎しない庭先で、小さな体は震えて立っていた。
大きな目にこれでもかという程涙をためて、お気に入りのウサギのぬいぐるみを抱きしめ、俯いていた。
「ルナ!」
大声で叫んで近寄れば、弱々しく妹が顔を上げた。
その顔を見た瞬間、突き刺す痛みが僕の心臓を襲う。真っ白な肌は、誰かに殴られたであろう赤い手形の後。艶のある黒髪は、まるで鷲掴みにされ引っ張りまわされたかのようにぐしゃぐしゃに絡まっていて。そのまま放り出されたのか、妹は裸足のままで震えて立っていたのだ。きっと、僕が来なければずっと。ずっとこの状態で、僕を待っていたのだ。
「お兄ちゃん、早かったね。お帰り」
そう言って、ニーッと笑う妹に、遂に涙が零れ落ちた。
自分が情けなくて、腹立たしくて。そのまま力いっぱい妹を抱きしめる。折れそうな細い体が今にも消えていきそうで、怖かった。凄く凄く怖かった。
「あいつか?」
「お兄ちゃん」
「あの女に、殴られたのか!?」
問い詰める様に大声を出せば、ルナはくりくりとした目を泳がせた。何で何も言わないんだ。はっきりしない妹の態度にしびれを切らし、「待ってろ」と玄関へ手をかける。だけど。
「お兄ちゃん、ダメ!」
「は?」
「ダメ! お家に入っちゃダメ! おじちゃんに怒られちゃう!」
「おじちゃん?」
誰の事を言っているんだ?
その先の言葉を待ってみたけれど、妹はぎゅっと僕の腕を持ったまま、固まってしまった。カタカタ震えているのが、その小さな手から伝わってくる。
・・・・・・悪夢だと、思っていた。母さんが死んでから、ずっと。だけど僕は、大きな勘違いをしていたのかもしれない。
「大丈夫だから、ここにいな? お兄ちゃんすぐ戻ってくるから」
出来る限りに笑顔を張り付けて、妹の頭を撫でてやる。不安げな顔をした妹は、まだ何か言いたそうだったけれど、僕の頑固な性格を誰よりも知っているからか、諦めて僕から手を離した。
それに頷いて、カバンを玄関に放り投げ家へと入る。だだっ広く、しんとした家の中。ばくばくと鳴りだした心音を落ち着かせる為、深呼吸をして靴を脱ぐ。
するとその時、奥の方から「キャハッ」というあの女の甲高い声が耳に響いた。
いつ聞いても、僕の嫌悪感を誘う声。周波数。あの女の全てが、僕の正常な思考回路を狂わせる。
そっと、女に気づかれない様寝室へと向かった。俺の妹に手を上げ、家の外に放り出すあの女の、弱みを握りたかった。父さんに、目を覚まして欲しかった。この家から、薄汚いネズミを追い出したかった。
だけど僕は、気づかされる。
「でもよー? 綾子。お前も悪い女だよな?あんなにドデカい水沢建設の社長夫人になったかと思いきや、次はその会社を乗っ取ろうとしてんだから」
「あら、あなた言ってたじゃない。頭が軽いだけの、若い女なんてつまらない。何考えてるか分からない、こわ~い女が好きだって」
「いやいや、お前怖すぎだから」
僕たちの家を巣食ったのは、薄汚いネズミなんかじゃない。人をとことん不幸に陥れる、恐ろしい悪魔だと。
少しだけ開いた寝室のドア。息を押し殺してそっと覗き込むと、黒いキャミソール姿で満足げにほほ笑むあの女の姿が目に映った。母さんとは違い、肩幅が広く背の高いその女の存在感が、嫌に鼻につく。それに、誰なんだ? あの男は。
父さんと母さんが使っていたベッドに、今はあの女と知らない若い男が寝そべっている。吐き気が僕を襲うには、十分すぎる光景だった。
「あら、そんな事言って。せっかく私が、アイルカンパニーの次期代表に水沢建設の情報を教えようとしてるのにー」
「ごーめんって。今日はサービスするからさ。教えてよ。な?」
カタカタと震える体が、今にも物音を立てそうで恐ろしくなった。言い表す事の出来ない真っ黒くてぐちゃぐちゃした感情を押し殺そうと、必死に両手で口を押える。
「ほら、有須賀食品の工場あるじゃない?」
「あぁ。スゲー広大な土地だよな? 田舎の」
「あそこに、将来電車が通るのよ」
「え? まじで?」
「だから水沢建設は、あの土地を安価で手に入れようとしてる」
「・・・・・・そこを、叩けって?」
「私、こんな中途半端な社長夫人で終わるつもり、ないから」
「ははっ! 本当にこえーなー、お前は!」
これからが、本当の悪夢の始まりなんだと。
叫びたくなる衝動を抑え、一目散にその場を離れた。怖かった。これから自分たちがどうなってしまうのか。あの女と戦うだけの力が無い自分が。
幼い妹を、護るだけの力が俺にはまだ。
「せーいーじーくん! 遅かったね~」
「っ! お前!」
外に飛び出すと、シャツに紺色のズボンを履き、表情の窺い知れないソイツがルナの手を握り立っていた。俺は急いで、ぴしゃりとそいつからルナを引きはがす。
「痛いな~」
「うるさい! もう僕らにかまうな!」
「ねぇ、星児くん。俺さ、汚い大人、だいっきらいなんだよね~」
「は?」
突然、何を言い出すのかと思えば。少し俺より背が高く、体格がいいその男は、今までのヘラヘラとした態度からは一変。その背中に怒りのオーラさえ纏ってるかのように、小刻みに肩が震えていた。
「復讐、してやろうよ。俺らで」
「復讐?」
「どんなに時間がかかってもいい。どんなに多くの犠牲を払ってもいい」
恐怖さえ覚えた。ソイツの醸し出す殺気に。
長い前髪から覗く鋭い目は血走り、青白い肌から薄らと浮かぶ血管に怒りの強さが感じられる。どうしてコイツがここまで怒っているのかは分からない。名前も、接点もない僕らの境遇に。どうして、こんなにも。
「星児くん、覚えといて。また僕らが会うときは、あの女が死ぬ時だ」
こんなにも、憎しみを抱いているのだろうか?
ぽんと僕の肩に手を置いて、今度はにぱっとわらい「ルナぴょん、またね~」と何時ものおちゃらけ声で出て行った。
「おにいちゃん、あのおじちゃんに怒られなかった?」
「え? あぁ」
後ろから、ルナが不安そうに僕の顔を覗き込む。相当怖い思いをしたのだろう。俺はクスッと笑いしゃがみこむ。そしてまた、なるべくルナが安心する様に優しく抱きしめた。
「これは怖い夢だ。きっともうすぐ覚めるよ」
「ゆめ?」
「そう。夢なんだ。だから、きっといつか終わる。昔みたいに笑える日が来るから」
そう言えば、ルナもギュッと俺にしがみついた。
「じゃあ、今日は一緒に寝て? お兄ちゃん」
ルナには、僕しかいない。僕にも、ルナしかいない。
「うん。今夜は、いい夢を見ような」
ルナの幸せは、僕が護らないといけないんだ。
そう自分に言い聞かせ、あの女と戦う事を決心した。