悲しい嘘
「ルナ。この痣、どうした?」
「・・・・・・ちょっと、転んじゃったの」
妹は嘘をつく時、瞬きが多くなる。この時もそうだった。
何時ものように僕につきまとう早坂景を無視して、学校から家に帰った僕。だるい体を引きずりながらリビングに入ると、ソファに元気なく寝転んでいる妹の姿。
まさか熱でもあるんじゃないかと顔をのぞき込んだ時、それに気づいた。
細い、華奢な手首から広がる、紫色の濃い痣。転んで出来る様な痣じゃない。
「友達と、喧嘩でもしたのか?」
「だから、転んだって言ってるでしょ、しつこいなぁ」
今日はずいぶんと、ご機嫌斜めだ。
ぷくーっと頬を膨らませ、妹は僕に背を向けた。何なんだ、一体。こっちは心配して言ってやってるのに。
何をそんなに怒ってるんだよと髪を撫でてみても、妹は背を向けたままだ。訳が分からず、はぁと一つ息をつくと、後方からカチャリとドアの開く音がした。
「あら、帰ってたの。挨拶ぐらいしたら?」
「どうしていちいち、アンタに報告しなきゃならないんだよ」
後ろを振り向きもせず、悪態をつく。見なくても分かる。後ろにいる女は腕をくみ、偉そうに笑っているんだろう。
そして予想通り、甲高い笑い声が聞こえてきた。
「まーったく!お坊ちゃんは、いつまで意地をはるつもりなのかしら?」
「うるさい」
「ますます、お父さんに嫌われちゃうわよ?本当は気づいてるんでしょ?」
「うるさい!」
「お父さんは自分たちよりも、だーいっ嫌いな女を愛してるんだってこと」
「黙れ!」
怒鳴りながら振り返れば、案の定腕をくんで僕を見据えるその女が、余裕たっぷりに口角をつり上げていた。
怒鳴る僕に臆することもなく、そいつは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。
「おー、怖い怖い。本当お子様なんだから。仲良くするフリだけでもすればいいのに」
「何で、母さんを殺したお前と仲良くなんか!」
「まだ、そんなこと言ってるの?ほんと、バカな子」
ごくりと、女が一口水を飲む。そして、水が入ったそのペットボトルを、僕の頭の上で傾けた。
トクトクと音を立て、冷たい水が、僕の髪を濡らしてゆく。
頭の先からじわじわと感じる、気持ちの悪い感触に、思考が止まった。
「本当、あの女そっくりね、あんた」
「・・・・・・」
「知ってる?あんたの母親はね、勘違いしてたの。ありもしない愛にしがみついて、偽物の幸せを噛みしめていただけ。女として、こんな惨めなことある?」
「・・・・・・」
「だから、目を覚まさせてあげたのよ。こうやって、あの女が感じてた偽物の愛を、綺麗さっぱり洗い流してあげたの。そのおかげで、やっと気づけたんじゃない」
クスクスと笑い、そいつはすっと僕の顔をのぞき込んだ。
目に映るのは、不敵な笑みと、マスカラで覆われた、大きな瞳。母さんの優しい瞳とは全然違う、人を射貫く、獣の瞳。
「自分は、愛されてないって」
真っ赤な唇から紡がれたその言葉に、がくんと力が抜けた。膝から床に、崩れ落ちる。
・・・・・・勘違い?今まで信じてきたのものが、全部勘違いだった?
脳裏に、僕たちと目も合わせなくなった母さんの姿が浮かんだ。
「やっと気づいた?」
コン、と、女が捨てたペットボトルが、僕の頭に当たって床に落ちる。だけど僕は、遠のいてく女の足音も、血相を変えて僕にすがりつく妹も、ころころと遠くへ転がっていくペットボトルにも、何一つ反応出来なかった。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん!大丈夫?」
「・・・・・・った」
「え、何?」
「違った、違ったんだ」
「お兄ちゃん」
「母さんは、僕らよりも、父さんに愛して欲しかったんだ」
悔しくて、悲しい現実。母さんが自殺をしただなんて、信じた訳じゃないけれど。
だけど、あの優しい笑顔の裏に隠された真意は。おいしい料理も、作られた和やかな雰囲気も、落ち着くあの優しさも。
全ては、父さんのため。
それは決して、僕たちに向けられたものじゃなくて。
ぽたりと一筋、涙が僕の頬を伝った。そんなの、違うに決まってる。母さんは、いつだって真っ直ぐに、僕たちを愛してくれていた。
そう何度も頭で打ち消すのに、あの女にかけられた水が、あまりにも冷たくて。浴びせられた言葉が、あまりにも痛くて。涙が、止まってはくれない。
「お兄ちゃん、泣かないで」
「・・・・・・」
「ルナは、好きだよ」
「っく、うぇ、」
「ルナは、お兄ちゃんが大好きだよ!」
その妹の言葉に、力一杯ルナを抱きしめた。あふれ出る寂しさは、募るばかりだ。ぐるぐると渦を巻いては、僕を苦しめる。
だけど、やけに暖かい妹の体温が、膨張した孤独感を、ゆっくりと和らげてくれる。
僕は、この日。この腕の中にある、暖かい存在と二人で。二人だけで生きていこうと、心に誓った。