信じられない現実
「また、どうしてこんなことに」
「あんな立派な旦那さんと、まだ幼い子供たちがいるのにねぇ」
「すごく幸せそうだったけど。まさか、自殺をするなんて」
「まぁ、何にしても。子どもを残して死ぬなんて、碌な女じゃなかったのよ」
悪いのは、母さんだったのか。
周りの音が、雑音として耳に入ってくる。ぼーっとする頭に感じるのは、たった一人の妹、ルナと手を繋いだぬくもりだけ。足元が、すごくフワフワする。
信じられない、信じたくもない現実は、まるで走馬灯のように、素早く僕の前を流れていった。着なれた学生服に身を包んだ僕が今立っているのは、母さんの告別式。
「・・・・・・お兄ちゃん」
「ん?」
「お母さんは?」
「・・・・・・」
幼い妹は、この現実を理解しきれていないみたいだ。今にも泣きそうな顔をしている。そんなルナに、精一杯笑って見せた。僕が泣いたら、きっと妹も泣いてしまうだろう。
精一杯の強がりをして、何時ものようにルナの頭をぽんぽんと撫でる。「大丈夫だ」と、何回も呟いて。
「星ちゃん、ルナちゃん。大丈夫かい?」
「あ、おばあちゃん!」
「おばあちゃん」
しわがれた声に振り向くと、喪服を着たおばあちゃんが立っていた。母さんの、母さん。母さんと同じ、優しい目元を細め、おばあちゃんは僕を支えるみたく、肩に手を添える。
「恐かっただろう」
「そんな、こと」
「陽子もどうして、こんな可愛い子どもたちを残して・・・・・・」
う、う、と声を詰まらせて、おばあちゃんは泣いてしまった。僕の瞳が映す先は、穏やかな顔をした母さんの遺影。どうして母さんが、死ななければならなかったのだろうか。どうして、どうして、どうして!!
「星児、大丈夫か?」
「荒巻さん」
「・・・・・・親父さんは?」
「来て、ないです」
そう小さく呟くと、荒巻さんも「そうか」と小さく呟いた。相変わらずの苦い煙草の香りは、僕を現実へと連れ戻す。こんな時でさえ、ぼさぼさとした頭に、よれよれのスーツを着たこの人は、スッと切れ長の目で母さんの遺影を見つめた。
「怨むな、星児」
「・・・・・・え?」
「誰のせいでもないんだ、こうなったのは。誰のせいでも」
「でも!」
「怨むな。醜い感情は、その手に掴んでいるものでさえ、葬ってしまう」
そう言うと、荒巻さんはルナの顔を見た。自然と僕の手に、力が籠る。
「だから星児、強く生きるんだ。もう二度と、大切な物を失くさない様に」
ぽたりと、僕の拳に一つ滴が落ちた。隣にいるルナが、心配そうに僕を見上げる。
じゃあ、誰に。この悔しさと、雪辱と、虚しさは、一体誰にぶつければいいんだ。
大切な人だったんだ、僕の。綺麗で、明るくて、誰よりも優しい僕の母さん。心にぽっかりと大きく開いたこの穴を塞げるのは、何だというのか。
下らない大人たちの噂話がひしめく中で、僕は只泣きながら、突っ立っていることしか出来なかった。
「お兄ちゃん、ご飯まだー?」
「はいはい、今用意してるよ」
「もう、遅刻しちゃうじゃない!」
頬を膨らませて、ぷりぷりと怒るルナ。そんな妹に、僕は茶碗にご飯をよそいながら、苦笑する。相変わらずオマセな彼女は、自分で出来るようになったみつあみを揺らして、自らの椅子に座った。
「ほら、ご飯」
「あれ、お兄ちゃんは?」
「母さんに、届けてから」
「ふーん」
食いしん坊のルナには、お預けという事が出来ない。もう、卵焼きを口の中へと運んでいた。僕は、母さんが好きだったおかずと、母さんが使っていた茶碗を持って、仏壇の前へ。正座をして手を合わせると、あの時の記憶がまざまざと蘇ってくる。
揺れる母さんの体を繋ぐ、バラのスカーフ。まるで別人の様になった、母さんの顔。
あれから一年。母さんは、自殺という事で弔われた。遺書は、なかった。
「母さん。僕は、騙されないよ」
知ってる。母さんは、自殺なんかしない。殺されたんだ、あの女に。
手を合わせたまま顔を上げると、遺影の中の母さんと、目があった。僕ら二人を優しく包み込む、懐かしい瞳。だけど僕には、真実を晴らして欲しと訴えかけている様に感じてならない。
「悔しかっただろ?悲しかっただろ?あんな小汚い物で殺されるなんて」
あのスカーフで命を絶たれた母さんは、今何を思っているのだろう?
母さんの頬を指でなぞり、ギュッと握る。何時か必ず。あいつが母さんを殺したという証拠を掴んで、監獄の中へぶち込んでやる。
「お兄ちゃん、遅刻しちゃうよー!」
「今行くよ」
僕を呼ぶ妹の声に、ふっと笑った。
「安心して、母さん。ルナは、僕が守るから」
これだけは、絶対。命に変えても、誓うから。
「よぉ、星児。元気か?」
「荒巻さん。またサボってるんですか?」
「人聞き悪い事言ってんじゃねぇよ。休憩だ、休憩」
「同じじゃん」
学校からの帰り道。パトカーに寄りかかって煙草を吸う荒巻さんに会った。母さんが亡くなって以来、何かと気にかけてくれるこの人は、父さんより頼りになる人だ。相変わらずやる気のない切れ長の瞳で、ははっと荒巻さんが笑う。
「違いねぇわな。親父さんとは仲良くやってるか?」
「やってると、思いますか?」
「・・・・・・もっと中学生らしい、受け答えをしたらどうだ?」
今度は眉根を寄せて、困った様に笑う。それに僕も笑って、「ぼちぼちです」と答えた。
「まぁ、気難しい人ではあるがな。あれでも、お前たちの事を思ってんだぜ?」
「冗談はよしてください。僕は、あの人を軽蔑してるんです」
「・・・・・・」
「母さんは、あの人が殺したも同然だと思ってます。きっと、多分一生、」
そこで、言葉を切った。喋ってる途中に渦巻いて来た真っ黒い感情に、胸が押しつぶされそうだ。
一年前、「怨むな」とこの人は言った。だけど、だけど。無力な僕が自分を慰めるには、誰かを憎むしか。それだけしか。
「・・・・・・きっと多分一生、許しません」
それだけしか、出来ないんだ。
ぼそりと呟けば、ふーっと白い煙草の煙を、荒巻さんが吐きだした。
「お兄ちゃん、お母さん喜んでくれるかな?」
「喜んでくれるさ。なんたって、ルナの手作りなんだから」
そう言うと、ほっぺたをチョコレートまみれにした妹が、二カーッと笑う。それが凄く可笑しくて、指で掬って取ってやった。
今日は、母さんの誕生日。主役がいない誕生日は凄く寂しいけれど、せめて僕らだけでもお祝いしようと、部屋を飾った。ケーキもルナの手作りだし、料理も母さんの好きな物をたくさん作った。
「随分と豪勢じゃないか。一体どうしたんだ」
「と、父さん!」
気付かなかった。祖の低い声に振り向くと、何時もの無表情な顔をした父さんが立っている。ドキリと高鳴った心臓に、一歩後ずさる僕。すると父さんは、僕が作った料理を一瞥し、口を開いた。
「まるで、知っていたかの様だな」
「え?」
「紹介する。倉永綾子さん。お前たちの、新しい母親になる人だ」
「は?」
何て、言ったんだ?今。
父さんは依然として無表情だ。その顔が何を考えているかなんて、全然分からない。
「ちょっとー。おいてくなんて、酷いじゃない。何時だって身勝手なんだから」
・・・・・・どうして。どうしてこの人が、ここに。
父さんの後ろからひょこっと顔を出したのは、紛れもないあの人で。一年前より少し伸びた髪を掻き上げ、不敵に笑った。
「お久しぶりね。元気だった?」
「何で、何であんたがここにいるんだよ!」
「星児。言葉に気をつけなさい」
「父さん!」
「もう決まった事だ。お前が口を挟む事じゃない」
そう言って、父さんは振り返る。その人の、肩を抱いて。
「今日は遅くなる。先に寝ていなさい」
「ふ、ふざけるなよ!母さんが死んで、まだ一年だぞ!」
「・・・・・・」
「それに母さんは、その女が殺したんだ!その女が!」
言い終わる前に、体が吹っ飛んだ。物凄い衝撃に、脳が揺れる。食台にぶつけた瞬間、音を立てて落ちた、ルナの手作りケーキ。
何が起きたのか分からなかったけれど、じんじんと痺れる様な左頬の痛みに、殴られたんだと気付いた。見上げれば、冷たく僕を見降ろす父さん。
「口を慎め。あいつは、自分の意思で死んだんだ」
「違う!」
「黙れ!分からんのか。捨てられたんだよ、お前たちは。あの女に」
違う。違う、違う、違う!!母さんは、僕らを捨てたりなんかしない!
そう言い返してやりたいのに、言葉がうまく声となって出てきてくれない。父さんはスーツの襟を正すと、「頭を冷やしなさい」と部屋を後にした。言い表しきれない悔しさにギュッと唇を噛むと、あの女がしゃがんで僕の顔を覗き込む。
「そんなに突っ張らないで、仲良くしましょうよ」
「触るな」
「言ったでしょ?いつか私の事、母さんって呼ぶ日が来るって」
「・・・・・・母さんは、お前が殺したんだろ」
「ふふ、あはははは!何それ!おっかしーい」
こいつの匂いには、相変わらず反吐が出る。
睨む僕を小馬鹿にした様に笑い、そいつは立ちあがった。そして、意気揚々と口を開く。
「あんたに、私は倒せない」
浴びせられた言葉が、僕の心臓を抉った。去っていくあの女の足音も、漂うきつい香水も、頭にこびりついた父さんの言葉も、何もかもが僕を追い詰める。
「うあ、うあー!!」
「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
縋りつくルナでさえ、この怒りは収まらない。体の奥底からじわりじわりと湧きあがる憎しみが、僕を支配していく。
『怨むな』無理だ。無理だよ、そんなこと。荒巻さん。僕は、そんな立派な人間じゃない。大切な人を奪われて、ニコニコ笑っていられるような、そんな強い人間じゃないんだ!
「絶対、絶対あいつを、地獄に落としてやる!」
憎しみという感情は、人を簡単に変えてしまう。ついに泣き出したルナも無視して、僕は作り上げた料理の数々を、叫びながら床に落とした。
虚しく部屋に響く、皿の割れる音。
・・・・・・殺したい。殺したい!あの女も、父さんも、みんな!!
『醜い感情は、その手に掴んでいるものでさえ、葬ってしまう』
この時の僕は。あの時荒巻さんが言った言葉の本当の意味を、理解してはいなかった。