初めての約束
「ねぇ、お兄ちゃん。お星様は、お月様が嫌いなの?」
ぴゅうっと一筋、肌を刺す冷たい夜風が、僕らの間を通り抜けて行った。
眼前に広がるのは、キラキラと瞬いている星の数々。漆黒の夜空に輝いているそれらはまるで、あの遠い遠い空の世界へと、僕を誘っているみたいだ。隣から聞こえて来た幼い声に視線を移せば、僕と同様に空を見上げている、二つ歳下の妹の姿。
さっきの夜風の仕業か、小さい肩から落ちかかっているピンクのカーディガンを、掛け直してやる。
「どうしたんだよ?急に」
「だってね、お星様はあんなにたくさんあるのに、お月様は一つでしょう?仲間外れみたいで、なんだか可哀そう」
「だからルナは、お星様がお月様を嫌いだって?」
「うん」
こくんと頷いて、妹はマジマジと見つめていた夜空から、今度は僕の顔を、大きな瞳で見つめた。頭上に広がる綺麗な夜空にも負けない、黒々とした純粋な妹の瞳に、思わず苦笑が漏れてしまう。
僕の、たった一人の妹。水沢月。月と書いて、ルナと読む。ちなみに僕の名前は、水沢星児。今年中学一年生になる、十二歳だ。
ルナは名前のせいか、月に相当思い入れがあるみたいで、その長いまつげを伏せ、悲しげに塞ぎ込んでしまっている。僕は笑いながら、「お月様は仲間外れなんかじゃないよ」と、妹の腰まである、これまた長い髪を撫でた。
「本当?」
「本当さ。お月様は仲間外れなんかじゃない。あのキラキラと輝いてる星たちに、守られてるんだ」
「守られてる?」
「そうだよ。だからね、お月様はお姫様なんだ。いい?お兄ちゃんが星で、ルナがお月様。ルナが何処にいてもすぐ分かる様に、あんなにキラキラたっくさんの光で、輝いているんだよ」
依然として輝いている星ぼしを指差しながらそう言うと、ルナは嬉しそうに笑った。
僕も嬉しくて、妹の手をぎゅっと握る。
「だからルナが苛められたら、すぐお兄ちゃんが助けに行くよ」
「お姫様だから?」
「はは、そうだね。僕はお姫様を守る、召使いだ。約束するよ。ルナは、僕が守る」
僕と妹の子供部屋から繋がるベランダで、ルナに小指を差し出す。まだ小さい妹が、自分の言っていることを全部理解しているのかは分からないけれど、ルナも楽しそうに、僕の指に小指を絡ませた。
冷えた、静かで繊細な初冬の空気。妹の暖かい触れた指に、この約束だけは絶対守ろうと誓った。沢山の星と、丸い月。それらの下で、ルナと交わした初めての約束。
「二人ともー!ごはんよー!」
下から、僕らを呼ぶ母さんの声。何故だか凄く滑稽で、クスリと笑ってしまう。そしてまた、妹の肩から落ちかかっているピンクのカーディガンを、掛け直した。
「また二人で、空を見ていたの?」
飽きないわねぇと困った様に笑い、母さんは、暖かいビーフシチューを僕に差し出した。妹は余程お腹が空いていたのか、もうすでに、二口目を口の中へかきこんでいる。ニンジンは苦手だ。さりげなくスプーンで端へ避けていると、母さんにスプーンを取り上げられ、ぐちゃぐちゃに混ぜられてしまった。
「・・・・・・父さんは?」
「会社の方と、お食事会だそうよ。もうちょっと早く言ってくだされば、こんなに作らなかったのにね」
「大丈夫、ルナが食べる!」
僕とは違い好き嫌いがないルナは、もぐもぐと口一杯頬張りながら、ニンマリと笑った。僕ははぁとため息をつき、潰されたニンジンが入ったビーフシチューを、仕方なく口に運ぶ。
父さんは、大手建設会社の社長。仕事が忙しいからか、中々家にいることがない。だから遊んでもらった記憶も、優しくしてもらった記憶もない。叱られた記憶なら、掃いて捨てるほどあるけれど。そういった理由もあって、昔から父さんが苦手だ。正直、仕事で忙しくしてもらっていた方が、ありがたかった。
「ルナ、お兄ちゃん。ご飯を食べたら、お母さんとトランプしようか?」
だけど母さんは、父さんと違って、凄く僕らに愛情を注いでくれる。美人で優しい、僕の自慢の母さん。「昔は、蝶みたく綺麗だって言われたのよ?」というのが、母さんの自慢だ。
料理が得意で、父さんと接する機会が少ない僕らが寂しがらない様に、いつも一緒に遊んでくれる。「久しぶりに、大富豪なんてどう?」コーヒーを飲みながら悪戯っぽく笑う母さんに、僕ら二人、大きく頷いた。
「おい星児。昨日、お前の父ちゃん見たぜ」
くあ、と一つ大きな欠伸をしている時。バン!と後ろから大きな音で叩かれた、通学カバン。眠たい頭には刺激が強いその衝撃に、ついイラッとしてしまう。後ろから現れた人物を睨む様に見つめれば、「悪ぃ、悪ぃ」と、悪びれた様子もなく笑っていた。
「寝不足か?」
「昨日、母さんと妹と、トランプしすぎたんだよ」
「うっわ、仲良しー」
「で?」
「え?」
「僕の父さんが、何だって?」
何時も通る通学路。何かといつもひっついて来るこの男は、近所に住む、同じ学年の早坂景。ツンツンとした短い髪に、無邪気な笑顔。僕とは違い、スポーツ万能で明るい性格。ただでさえコンプレックスを感じるのに、こう毎回毎回ひっついて来られては、迷惑だ。
うざい、近寄るなオーラをひしひしと醸し出しているが、こいつには全然効かない。はじき返されているのか、吸収されているのか。とにかく景は、僕につきまとう。
「や、昨日さ。俺誕生日だったんだよ。お前、プレゼントくれてないけど」
「・・・・・・どうして僕が、お前の誕生日を祝わなくちゃいけないの?」
「冷たいよ、星児!俺は毎年、プレゼントあげてるのに!」
「頼んでない。っていうか、どうでもいいんだよ、お前の誕生日は。僕の父さんがどうしたんだって聞いてんの。」
「ああ、だからさー。珍しく、レストランに行ったんだよ。それも誕生日だから、高級レストラン!そしたら、お前の父ちゃんがいたんだ。」
レストランに、僕の父さんが?ああ、昨日母さんが言ってた、お食事会ってやつか。だから何だと、隣で妙にそわそわしている景に視線を向けると、些か興奮した様子のこいつは、どうして?どうして?と、殴りたくなる態度で、ぎゅっと俺の腕を握ってきた。
「会社の付き合いだよ。お食事会って母さん言ってた。離せよ、気持ち悪いな」
「食事会?まっさか!」
「は?」
予期せぬ景の言葉に、思わず漏れた、間抜けな言葉。自然と歩くことを止めてしまった僕に、景も立ち止まり、「だってさー」と口を開く。
「二人きりだったぜ?」
「二人きり?」
「そうそう。二人きり。しかも何だか、すっげー親密そうな雰囲気だった」
「・・・・・・誰と?」
二人きりの食事会なんて、あるのだろうか?新しい取引先だろうか?一瞬過った嫌な予感に、探る様に声を絞った。きゃあきゃあと、楽しそうに隣を駆けて行く低学年の子たちの声が、妙に頭にざわつく。
そんな僕の、面持ちならない心情を読み取ったのか、ニヤリと口角を吊り上げる景。
「若くて綺麗な、オネーサン」
厭らしい言い方だった。先ほど過った嫌な予感を、丸ごと全部、言葉で表したかの様な。
だから嫌なんだ、こいつ。馬鹿のクセして、妙に感が良い。ヘラヘラ媚びへつらっていたかと思えば、弱みを見せた瞬間、指導権を握られそうだ。
今度は動揺を見破られない様、「あ、そ。」と一言言って歩き出す僕。知るか、そんなこと。父さんが誰と食事しようが、何しようが、僕には関係ない。
だけど・・・・・・
だけど母さんは、どうだろうか?毎日美味しい料理を作って、父さんの帰りを待っている母さんが、知ってしまったら?
「うわ!」
「おっと、ごめん!」
柄にもなく、考え込んでしまっていたらしい。誰かとぶつかった衝撃に、ふらりと二、三歩よろけた体。相手も見ずに反射的に謝ると、よろけただけの僕とは反して、ぶつかった相手は、地面に尻もちをついてしまっている。
同じ歳くらいの、小柄の男の子。その顔は、長い前髪のせいで、窺い知ることが出来なかった。「大丈夫?」と手を伸ばすと、男の子は素直に僕の手を掴む。
「星児、何やってんだよー」
「うるさい」
「・・・・・・」
「ごめん、僕ボーっとしてて。怪我、ない?」
「無いよ。だって、わざとだからー。」
「は?」
本日、二度目となる間抜けな声。気の抜ける声で紡がれた言葉に、目を瞬かせた。何て言った?今。わざと?
その真意を確かめたくても、長く伸ばされた前髪からは、何も想像がつかない。ぽけーっと突っ立っていると、そいつはニンマリと笑い、「じゃあねー、星児くん」と、僕たちが歩いて来た道を駆けて行った。
「何?知り合い?」
「いや」
「ワザとって、ワザとぶつかったってことだよな?星児、恨まれる様な事でもしたの?」
「知るか」
フンと一つ鼻息を鳴らして、振り返る。どうして今日は、こんなにも疲れることが次々に起こるのだろうか。学校に辿りついてすらいないのに、精神は疲れ切ってしまっている。
まだ半分もある通学路を、隣で煩いくらい喋りかけて来る景と共に、とぼとぼと歩きだす。眠気は、もう何処かへ吹き飛ばされてしまっていた。
「お兄ちゃん、何か元気ないね」
「別に、そんなことないよ?」
今日一日、本当に最悪な日だった。体育の授業があったのに、体操着を忘れ、教科書を忘れ。挙句の果てには、テストで八十点を取ってしまった。勉強しか能のない僕にとって、それは天地がひっくり変える程、衝撃的な数字だ。
この嫌な気分を払拭しようと、深呼吸したりため息ついたりしたのだが、全部無駄だった。『若くて綺麗な、オネーサン』朝の景の厭らしい声が、頭にこびりついて離れてくれない。現に、ルナと一緒に帰路についている今でさえ、気分が重いのだ。
「あ、留美ちゃんだ!」
「そんな慌てたら、転ぶぞー」
「うわ!」
「言わんこっちゃない」
前方に友達を見つけたらしいルナが、急に走り出した。ドジな妹の事だ。転ぶと思った瞬間、案の定こけた。期待を裏切らないルナに、苦笑しながら近づく。
「大丈夫か?」
「わ、わざとだよ!わざと転んだの!」
「え?」
・・・・・・わざと?恥ずかしいからなのか、ぷくーっと頬を膨らませているルナを立たせ、無意識のうちに辺りを見渡す。そう言えば、この場所は。今朝、不思議な少年にぶつかった場所だ。
「お兄ちゃん?どうしたの?」
「え、あ、いや」
「大丈夫?派手にこけてたけど」
急に後ろから降りかかったその声に、思わず飛び退いた。振り返ってみれば、見た事もない女の人が立っている。
派手な服装に、サングラス。ショートカットのその人は、つかつかと高いヒールを響かせながら、ルナの足元でしゃがんだ。
「あらら。擦り剝けてるじゃない」
「おばちゃん、誰?」
「おばちゃんじゃない。お姉さんよ」
思わず、ぶっと噴き出しそうだった。ルナは、大人の女の人は一環として「おばちゃん」と呼ぶ。妹の失言に、兄として謝るべきか迷っていると、その人は首に巻いていたスカーフを、妹の擦り剝けている膝に巻きつけて結んだ。
「すいません、ありがとうございます」
「ありがとう、おばちゃん」
「お姉さんよ。分からない子ね。まぁいいわ」
服装に伴った、随分と高飛車な言い方をする人だ。こんな親切な行いとは裏腹に、冷めた目でその人は僕らを見た。だけど次の瞬間には不敵に笑い、僕の頭にぽんと右手を置く。
「これから末ながーく、仲良くしましょうね?」
ぞわりと、背筋が凍った。とても綺麗な人なのに、この人が僕らを映す瞳は、人間味がまるでない。まるで、悪魔の様な。これから僕らに起こる出来事を、全部知っているかの様な。
ごくりと一つ息を呑むと、彼女は満足そうに笑い、くるりと背を向けた。
すぐ傍に止めてあった黒い車に乗り込み、あっという間に走り去ってしまう。
「お兄ちゃん。ルナ、あのおばちゃん恐い」
「大丈夫だよ。お兄ちゃんがいるから」
「お兄ちゃん・・・・・・」
「それと、ルナ。今度あの人に会ったら、お姉さんって言おうか」
「嫌だ」
不貞腐れて、一言だけそう言ったルナに、今度こそ噴き出した。そうだよな、大人のご機嫌取りなんて、小さい妹に出来る筈がない。ご機嫌を取られる方なのに。
「じゃあ、もう二度と会わない事を願おう」
な?とルナの顔を覗き込むと、「うん!」と大きく頷いた。僕は、そんなルナの手を引き歩き出す。視界に映ったのは、あの人が巻いてくれた、バラのスカーフ。
末永く、だなんて、何でそんな事言ったのだろう?まだ辺りに漂っている、つんとする彼女の香水の匂いに、僕は眉をしかめた。
「ルナ、その足どうしたの?」
「転んだんだよ。知らない女の人が、巻いてくれたんだ」
「女の人?」
母さんに質問された本人は、答えることもせず、ぼりぼりとお菓子をむさぼっている。代わりに僕が答えると、母さんは首を傾げた。
「今時、そんな親切な人がいるのねぇ。」
「親切、なのかな」
「え、どうして?」
「いや、なんとなく」
家に帰って来た今でも、あの人の不敵な笑みが妙に引っかかる。ぼすっとソファに座り、隣に座っているルナのスナック菓子に手を伸ばすと、ピシャンと鋭く叩かれてしまった。
「ルナ!お兄ちゃんにも、あげなさい!」
「いいよ、母さん。それより、荒巻さんまた来たの?」
「え?ああ、お茶を飲みにね。どうして分かったの?」
「あの人の、煙草の香りがするから」
一言そう言うと、「星児は鼻が利くのねぇ」と、何故か嬉しそうに母さんが笑う。
荒巻さんというのは、家と何かと縁がある、刑事さんだ。去年家に泥棒が入った時も、お世話になった。それからは、頻繁に付き合いがあるらしい。
「帰ったぞ」
「あら、あなた!今日は早かったのね。仰ってくれればいいのに・・・・・・」
「私の勝手だ」
ガチャリと、素早くドアを開けて部屋に入って来たのは、お固い顔をした父さん。
何の前触れもなく帰って来た父さんに、今まで懸命にお菓子を食べていたルナの手が、ぴたりと止まった。父さんが苦手なのは、妹も同じみたいだ。
父さんは、僕らに目を向けることもなく、寄って行った母さんにスーツを渡す。
「これから、打ちあわせの電話をしなくてはならない。静かにしてなさい」
「お夕食は?」
「部屋に頼む」
「でもたまには、子ども達と・・・・・・」
突然、母さんの口が止まった。不審に思い見てみれば、父さんのスーツを持ったまま、茫然と突っ立っている。
どうしたんだろう?
不思議に思ったのは僕だけじゃなかったらしく、父さんも振り返った。
「どうした?」
「え、あ、別に」
「しっかりしなさい。」
呆れた顔をして、ため息をつく父さん。母さんを気遣うこともなく、自分の部屋へと戻って行った。母さんはハッとして、机に父さんの上着を置き、後を追いかけて行く。
「お兄ちゃん。お母さんどうしたのかな?」
「さぁな。無愛想な父さんに、いい加減目が覚めたんじゃないか?」
元々、不思議だったんだ。あんなに美人な母さんが、どうして父さんみたいな人と結婚したのか。
母さんが茫然と立っていた場所まで、歩いて行く。母さんには珍しく、机の上に乱雑に置かれた、父さんのスーツ。手にとってみると、今度は僕の動きが止まった。
「どうしたの?お兄ちゃん」
何だ、これ。どうして。体に湧きあがってくる、ぞわぞわとしたこの嫌な感じは、朝も感じたもの。
隣に、てくてくと歩いて来たルナの、膝に巻かれたスカーフを急いで解く。
「・・・・・・同じ、匂い」
きつい、女物の香水。つい先ほど会った女性の香りが、父さんのスーツからもしているのだ。
どういうことだ?
そのスカーフを握りしめ、考える。二人は、知り合いだろうか?それとも、単なる偶然?
『若くて綺麗な、オネーサン』『これから末ながーく、仲良くしましょうね?』
それぞれの言葉が、ぶつかっては離れ、またぶつかる。何だか無性に苛立って頭をかきむしると、ルナが、「お兄ちゃん、意地悪してごめんなさい」と、今頃になってスナック菓子を差し出した。
最近、母さんの様子が可笑しい。どう可笑しいのか、言葉で伝えるのは難しいけど、笑わなくなった気がする。自慢の料理も、近頃はあまり作らなくなった。
父さんのスーツに、知らない女性の匂いがした日から一ヶ月。相変わらず父さんは、家にいる事が少ない。だけど以前は、こんなに寂しいなんて感じることは無かった。
僕とって、母さんはそれだけ大切な存在だ。
それは僕だけじゃなく、ルナにとっても同じで、妹も母さんを心配して、元気がなくなっていた。
「あれ、どうしたの?母さん」
「あ、星児!今日は、お父さんの会社が建てたビルの、完成披露パーティなの」
「僕らも行くの?」
「そうよ。ほら、着替えて」
そう言って母さんは、ソファの上に置いてある、僕とルナの服を指差す。
何時ものように、ルナと二人で学校から家に戻ると、珍しくるんるん気分の母さんが、おめかしをしていた。何時も家に居がちな母さんにとって、お洒落をして外に出ることが、余程嬉しいのだろう。
久しぶりの母さんの笑顔に、僕もルナも喜んだ。
「いやぁ!社長のおかげで、こんなに立派なビルを創立することが出来ました」
「まぁ、主人が聞いたら喜びますわ」
パーティというものには、小さいころから何回か来たことがあるけれど、いまいち良く意味が分からない。着飾った大人たちが、おしゃべりをする。僕の目には、それくらいの認識でしか映らなかった。
「お兄ちゃん、唐揚げ。唐揚げ取って」
「お前、良く食べるよな」
ルナは、相変わらず食欲旺盛だ。僕のスーツの袖を破けそうな勢いで引っ張る妹に、唐揚げと、好きそうな料理を取ってやる。
「あ、父さんだ」
豪華な、フィットネスクラブのビル創立という指揮を取った父さんは、偉そうな男の人たちと談笑中。パーティにやって来た家族に、会いに来もしない父さんに、いい加減反吐が出る。
あの人は、僕らを家族とは思っていないんだ。
「ではここで、このビルの建設を承って頂いた、水沢建設、水沢明社長から、一言頂きたいと思います!」
司会の人がそう言うと、皆一斉に父さんを見た。尊敬のまなざしで。でも僕はどうしたって、父さんを尊敬することなんて出来ない。
なんだかやり切れなくなり、隣でもぐもぐと唐揚げを食べている妹の頭を、ぽんぽんと撫でた。
「えー、本日はお集まり頂き、ありがとうございます。このビルの建設に、我が水沢建設が関与出来た事。誠に嬉しく思っている次第であります。」
「あの年で、建設会社の社長とは。それに、スマートに仕事もこなしている。奥さんも、さぞや鼻が高いでしょう」
「そんなこと」
「いやいや。ご主人には、感心させられっぱなしですよ。物静かで、紳士なところもね」
「でも夜は、意外とお喋りなんですよ?」
「え?」
まだ、父さんのスピーチが会場中に響き渡る中。母さんに喋りかけて来た、今回の仕事の相手らしいおじさんの言葉を遮ったその声に、僕は振り返った。
そして、息を呑む。
「家の中は、とても息が詰まるみたいで。帰りたくないって、何時も言ってるわ」
鼻を掠めた、強い香水。キラキラ光る、黄色い派手なドレスに身を包んだその人は、シャンパン片手に、父さんを見つめていた。
「あら、久しぶりね」
あの人だった。ルナが転んだ日、妹の膝にスカーフを巻いた、女の人。
驚く僕たちを尻目に、その人は母さんに向き直る。そして、あの日と変わらない、冷たい瞳を細めた。
「初めまして」
「あ、あの。どな、た?」
「ふふ。挨拶ぐらい、しておこうかと。ご主人の、夜の相手を務めている者です」
ガシャン!!
突然響いた、陶器の割れる音。隣を見れば、ルナが持っていた皿を床に落としていた。
目の前の人物に、相当驚いたのだろう。妹は逃げるように、僕の背に隠れる。
「ど、どういう意味ですか?」
「どうって、他に意味がある?まぁあなたも、昔は綺麗だった様だけど。まるで蝶の様だーとか何とか、言われてたんですって?」
ハハハッと高らかに笑い、その人は持っていたシャンパンを、スッと母さんの頭の上に差し出した。そして、ゆっくりと傾け始める。
「年老いた蝶は、蛾に見える」
トクトクと、その人が持っていたシャンパンが、母さんの頭の上にこぼれ落ちる。
ぎょっとして飛び退くおじさん。母さんは逃げもせず、ただ茫然とその場に立ち尽くしていた。
僕は堪らず、未だ冷ややかな目で母さんを映すその人を、両手で突き飛ばす。ガシャーン!と、彼女の持っていたシャンパングラスが、音を立てて砕け散った。
「僕の母さんに、何するんだ!」
「・・・・・・母さん、ね。ふふ。きっともうすぐ」
「なんだよ!」
「私の事、そう呼ぶ日が来るわ」
何を言っているんだ?この女。
これでもかと睨み付ける僕を嘲笑うかの様に、彼女はその視線を父さんへと向けた。シンとした会場の空気の中、唯一この人だけが笑っている。ストンと膝をついてしまった母さんを、慌てて支える僕。なのに父さんは、表情一つ変えやしない。
何時ものポーカーフェイスで、ただ冷静にこちらを見ているだけ。そんな父さんに、「バン」と右手で撃つ真似をして、その人は楽しそうに会場から出て行った。
感じたことがない。こんな怒りと憎しみは。
ついに声を上げて泣き始めてしまったルナをあやす事も出来ず、放心状態になっている母さんを、持っていたハンカチで拭う。ツンとなるシャンパンの香りに、吐き気がした。
「退きなさい、星児」
「で、でも父さん!」
「聞こえないのか」
父さんは何時だって威圧的だ。僕に有無を言わせず、母さんを立たせて部屋から出て行く。
「お兄ちゃあん!!」
「大丈夫、大丈夫だ、ルナ」
「全く、ひどい事をする奴もいたもんだ。きっと社長の奥さんに嫉妬したんだな」
一層強くなったルナの泣き声。ぼそりと呟いたおじさんの声が、やけに耳に残った。
「お兄ちゃん、ルナのお洋服がないよ」
「ベッドの上にないの?」
「ない」
「まだ、洗濯してなかったっけ」
時計を見れば、もう朝の七時だ。三十分後には学校へ行かなくちゃいけないのに、ルナはまだパジャマ姿。そんな妹にため息を溢して、僕は脱衣所を覗く。すると目に映った、洗濯物の山。
「・・・・・・マジかよ」
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
「んー?」
「髪の毛。みつあみにしてー」
「・・・・・・マジかよ」
右手に、ウサギの髪留め。左手に、髪ブラシを持ったルナが、にこーっと笑った。
「母さん、大丈夫?」
「・・・・・・」
「僕ら、学校に行くよ?」
「・・・・・・」
「机の上に朝食置いといたから、もし起きれたら、食べてね。じゃあ、母さん」
扉一枚向こうからは、何も返事がない。母さんの姿も見えないのに、悲しみの空気が、ひしひしと伝わってくる。その扉に触れた指先が、何故か震えた。
「行って、来ます」
僕の掠れ出た声が、母さんに届いていたかどうかは分からない。ただ、結局最後まで、母さんの声を聞くことが出来なかった。
どうして、こんなことになってしまったのだろう?つい最近までは、皆で笑って暮らせていたのに。
僕ら兄妹二人、足取り重く学校へと向かう。僕は、母さんの事。妹は、僕が下手くそなせいで、ぐしゃぐしゃのみつあみが気に入らなかったみたいだ。ブスーッと頬を膨らませて、ご機嫌斜めですアピールが、全開になっている。
パーティーから帰って来た母さんは、まるで別人のようになってしまった。一日中ベッドの上にいるし、僕らにすら会おうとしてくれない。勿論、掃除も洗濯も、食事の用意すらしなくなった。
「ルナ、そんな怒るなよ。お兄ちゃん、みつあみ練習するから」
「お兄ちゃん、知ってる?」
「え?」
「女の子は、髪が命なんだよ?」
「あー。そう、なんですか?」
あくまで、妹は本気だ。握りこぶしまで作って力説する彼女に、冷や汗が垂れる。日に日にオマセになっていく妹は、僕にとって困りもの。まだぶつぶつ文句を言っている妹の頭をぽんぽんと撫で、ずれ下がってきたカバンを担ぎ直した。
脳裏に過るのは、あの謎の女。
父さんにとって、あの人がどんな存在なのか。問いただそうとしても、父さんは一回も家に帰ってこない。僕はただ、むしゃくしゃした気持ちと共に、まるで魂が抜けた様な母さんを心配するしかなかった。
「あ、星児くんだー」
「え、あ、お前!」
「あ!」
聞こえて来た声に、隣で歩いていたルナが指をさす。僕は驚いて、思わず足を止めてしまった。目の前には、この間ぶつかった見知らぬ少年。
僕と同じくらいの年頃のそいつは、未だ長い前髪で顔を隠すように右手を上げている。って、いうか。
「ルナ、知り合いなのか?」
「うん!学校が早く終わった日、お兄ちゃん待ってる間、遊んでくれてるの」
「は!?」
「ルーナぴょん!今日もあの公園で待ってるからー」
あの日と変わらず、気の抜けた声だ。少し離れた場所にある公園を指差して、そいつはニカリと笑う。ルナぴょんて何だ。そして、何しれーっと約束してるんだ。
僕は慌てて、ルナを自分の背に隠した。
「人の妹に、何の用だよ!」
「だって、ルナぴょんいつも一人だからー。可哀そうでしょ?」
「大きなお世話だ!っつーか、お前誰だよ!」
後ろから、「そのお兄ちゃんは、良い人だよー」と、ルナが人ごとみたいに言う。
そうか、コイツが俺の名前を知っていたのも、ルナがべらべら喋ったからだ。知らない人と遊ぶだなんて、本当に危機管理能力が低すぎる。
嫌悪感丸出しでぐっと睨むと、そいつはへらへら笑ったまま、こっちに歩いて来た。
「星児くん、良い事教えてあげようか?」
「気安く名前を呼ぶなよ」
「もうすぐ君の、人生が変わるよ?」
耳元で、ぼそりと呟かれた。たったそれだけ。たったそれだけなのに、体中の毛が、猫みたいに逆立つ。
驚いて、バッとそいつから離れる僕。その瞬間微かに奴の前髪が揺れ、唯一見えている口元の口角が、右に上がった。僕は、ばくばくと鳴り出した心臓を右手で押さえ、確かめる様に口を開く。
「どういう、意味だ?」
「何がー?」
「だから!」
「お兄ちゃん、もう学校遅刻しちゃうよ」
後ろから、僕の学ランをつんつんと引っ張るルナ。ハッとして振り向くと、ルナが面白くなさそうに、口を膨らませていた。僕ははぁとため息をついて、分かったと妹に頷く。
そして、ルナの手を握り振り向いた。
「どこの誰だか知らないけど、もう妹に近づくな」
「・・・・・・」
「それから。僕の人生は、変わらない。これからも、ずっと」
生きていくんだ、あの家で。母さんを助けながら。
相変わらず睨み続ける僕に、そいつはふっと笑う。そして、「そうかー」と苦笑した。
「だけど星児くん、これだけは覚えておいて」
「何だよ」
「俺は、君の敵じゃない」
「え?」
「俺は、君の」
「お兄ちゃん!早く行こうよ!」
目の前の少年の言葉を遮る様に、ルナが声を荒げた。それを心底楽しそうに笑い、首傾げて手をひらひらと振る。
「じゃあねー」
また、気の抜けた声だ。結局、謎だ。それしか分からなかった。どこの誰なのか、何がしたいのか。あの言葉の意味は、何だったのか。
ルナを連れて、また歩き出した僕。ここのところ疲れることの連続で、頭がはっきりしない。取りあえず、呑気に鼻歌を歌っているルナに言って聞かせるため、重い口を開いた。
「ルナ、もうあの人と遊んじゃだめだ」
「どうして?」
「どうしても。知らない人と遊んじゃ駄目なんだよ」
「でもあの人、お兄ちゃんのお友達だって言ってたもん」
「え?」
「お友達なんでしょ?あの人と」
友達?冗談じゃない。この間ぶつかった時が、初対面だったというのに。頭を押さえ、あー。と唸る。どうしてこう、次から次へと・・・・・・
「ルナさん?」
「ん?」
「お兄ちゃん、みつあみ頑張るから、言う事聞いてくれませんか?」
「んー。しょうがないなぁ」
やっぱり妹は、オマセだ。「このみつあみ、友達に笑われちゃう」とまた、ぼやき始めたルナ。僕はごめんごめんと謝りながら、妹の頭を撫でる。
「僕は、君の」その言葉の先は、「友達」だったのだろうか。結局ただの、変人か。らんらんと鼻歌を
歌いだした妹の横で、僕は再度大きなため息を溢した。
「星児、最近元気ないよな」
「ほっといてくれないか」
学校からの帰り道。僕は、いつにもましてイライラしていた。今朝の出来事も原因の一つだが、一番の理由は。
「何でも相談しろよー。僕ら、友達でしょ?」
コイツ、早坂景がつきまとうからだ。しつこい、本当にしつこい。そして僕は、こいつと友達になった覚えなんか、一度もない。
両方の手をポケットの中に突っ込み、いつもの二倍速で歩く。毎日ルナと待ち合わせをしている公園には、妹の姿はなかった。代わりに、砂場に大きく「お兄ちゃん、先に帰ります」と下手くそな字で、一言書いてあるだけだったのだ。
心配にならない筈がない。今朝、あの変なヤローに会ったばかりだと言うのに。
「今日、ルナちゃんは?」
「関係ないだろ」
「可愛いよなー、ルナちゃん。いいなー、あんな妹がいてさ」
「・・・・・・」
「なぁ、星児。一日貸し」
「それ以上言うと、ぶっ殺すぞ」
くるりと振り返り、ドスの効いた低い声で、一言呟く。景は珍しく目を丸くして、固まった。やっと僕の、うざい。近寄るなオーラが伝わったみたいだ。歩くのを止めてしまった景も無視して、僕はフンと鼻息を鳴らし家へと急ぐ。
正直、今はこんな奴を相手している場合じゃない。
「ルナー!母さーん!帰ったよー!」
家に着くなり大声で叫ぶと、広い廊下に僕の声が木霊した。母さんからの返事がないのは、悲しいけど慣れてしまった。けど、ルナは。妹なら、大きな声で返事をしてくれる筈なのに。
嫌な予感がして、靴も脱ぎ散らかしたままに、家の中へと急ぐ。ドタドタと、騒がしく小走りで廊下を駆けると、視界の片隅に、ピンクのカーディガンが映った。反射的に止まる、僕の足。
ゆっくりと振り返れば、母さんと父さんの寝室の前で、ルナがぼーっと立っている。
「ルナ?」
「・・・・・・」
「どうした?」
「お兄ちゃん」
俯いていた妹が、僕を見上げる。その瞳に、ドキリと心臓が飛び跳ねた。純粋で嘘のない、真っすぐな瞳。
そんな瞳が、何を映したのか。僕は本能的に、感じたのかもしれない。
「お兄ちゃん。お母さんが」
「・・・・・・母さんが?」
「お母さんが、動かないの」
母さんが、動かない?
バンっ!
震えたルナの声と共に、一気に寝室のドアを開け、中に入った。
「母さん!!」
叫んだ自分の声と、目に入った揺れるカーテン。それと。
それと・・・・・・
天井からぶら下がった、母さんの姿。
「母、さん」
足が、震える。声が、出ない。揺れる母さんの体から、目が離せない。
真っ暗だ。何も見えない。感じない。体から温度が抜けていく。
「陽子さん!」
割れんばかりのその叫び声に、一瞬で引き戻された。突き飛ばされた体に、鈍い衝撃が走る。机に思いきりぶつけた体を押さえ顔を上げると、白髪交じりのぼさぼさの頭。そして感じた、苦い煙草の香り。
「何でこんなこと!」
「荒巻さん?」
「何してんだ!早く救急車を呼べ!!」
母さんを下ろしながら、荒巻さんが叫ぶ。その声に、僕は一気に部屋から飛び出した。震える足のせいで、何度も転びそうになる。
・・・・・・嘘だ。嘘だ、嘘だ、嘘だ!!死ぬわけない。母さんが、死ぬわけない。
辿りついたリビングで、受話器を取る。冷たいそれに、嫌に頭が冷静になっていった。機械的な、呼び出し音。だけど次の瞬間。その音の中に交じって、小さく響いたエンジン音が、耳に入った。その微かな音に、自然と瞳が窓の外へと向く。
そして、息が止まった。
「はい、此方緊急救命センターです。どうなさいました?」
何で、あいつが。
エンジン音と共に動きだした、黒い高級車。リビングの広い窓から見えた、車に乗った横顔は、まさしく母さんにシャンパンをかけたあの人で。
「もしもし?どうなさいました?」
どうして、あの人が家に。どうして、母さんがあんなことに。霞がかっていく視界に、ギュッと受話器を握りしめた。信じない。母さんは、僕らを残して死んだりしない。自殺なんて、する筈ないんだ!
「・・・・・・母さんが、殺されました」
自分の声が、幾重にもなって頭の中を反芻する。ごとりと手落とした受話器に、頭が垂れた。
『もうすぐ君の、人生が変わるよ?』
遠くで、あの気の抜けた声がした。