新婚夫婦、旅に出る。
『結婚生活というのは長い旅路のようなもので――』
新婚夫婦、旅に出る。/未来屋 環
披露宴で僕の上司がそう挨拶をして、それを聞いたさほちゃんが「旅かぁ」と呟いた。
まるでTVを観ながらこぼす感想のようなそれは、ウエディングドレスを纏ったその姿と高砂席から全景を見渡すこのシチュエーションには大変似つかわしくない。
それでもそんな無邪気なところがさほちゃんだなぁとのんきに思う。
「――ねぇ、私旅してみたいな。隆太郎と一緒に」
つつがなく二次会まで終え新居に帰ったあとで、さほちゃんはそう言った。
その何気ない一言が僕の胸の底をじわりとあたためることなど知らずに。
そもそも上司が言ったのはたとえ話で何も本当に旅に出る必要などないのだけれど、さほちゃんの瞳は放課後の子どものようにきらきらしていた。
念のため、僕はさほちゃんに問い返す。
「いいの? 僕と一緒で」
「いいよ、なんで?」
心底不思議そうに言うので、僕は「それなら喜んで」と答えた。
確かに、晴れて僕はさほちゃんの夫になったのだから、旅の相手としては申し分のないポジションにいる。
さほちゃんは軽やかな女の子だ。
出逢ったのは大学生の時、必修の語学の講義で隣に座ったのが初めてだった。
「――ねぇ、教科書まだ買ってないんだ。見せて」
そうやってさほちゃんは突然話しかけてきた。
思い返してみても今と印象はまったく変わらない。
ただ、今は背中まで伸びている髪が顎の下くらいまでしかなかったけれど。
「別にいいけど……いいの? 僕の隣で」
「いいよ、なんで?」
首を傾げる彼女を前に、普通は友だちに見せてもらうんじゃないかとか、そうでなくても女子に声をかけるんじゃないかとか、そんな雑念が頭を過ったけれど、透き通った彼女の瞳を見ていたらどうでもよくなった。
分厚い教科書の位置をさほちゃんと僕の間に移動させると、彼女は満足そうに微笑む。
「ありがとう、優しいね」
「そうかな」
「そうだよ」
そうして1コマ90分を共に過ごし、講義が終わるとさほちゃんは「じゃあね」とひらひら手を振り去っていった。
これでもう話すこともないだろう――そんな僕の予想を裏切り、さほちゃんは翌週も「おはよう」と僕の隣に座る。
まだ教科書を買えていないのかと思ったら、薄っぺらく見えた鞄の中から分厚いそれが出てきたので僕はすっかりわけがわからなくなった。
「教科書、買ったんだね」
「うん、どうして?」
「……いや、なんでもない」
そして前の週と同じようにふたりで講義を受け、終了と共にさほちゃんは去っていく。
そんな風にひょいと来てはひょいと去っていくさほちゃんがまさか僕の隣に留まってくれるなんて、その時は微塵も思っていなかった。
「――ねぇ、旅に出ない?」
届きたてのドラム式洗濯機から完成物を引き摺り出していると、さほちゃんの声が聞こえてきた。
振り返るとさっきまでパジャマ姿だったはずのさほちゃんが、Tシャツジーパン装備に着替えている。
「旅って……一体どこへ?」
「川の近くのスーパー。まだ行ったことないじゃん」
とりあえず皺になりそうなシャツだけを手早く干しながら「スーパー」と僕は繰り返した。
「それは単なる買い物では」
「いいじゃん、近所だって立派な旅だよ」
そう言って胸を張るさほちゃんを前に、僕は確かにそうかも知れないと思い直す。
そんな僕の逡巡を見抜いたのか、さほちゃんは顔を輝かせたまま「行くよ!」と玄関に走っていった。
僕は慌てて残りの洗濯物をピンチハンガーに吊るして彼女のあとを追いかける。
「おぉー、広くていいね」
さほちゃんがきらきらした瞳で店内を見渡す。
確かにそのスーパーは近所のそれよりも一回り大きかった。
土曜日の午前中だからかまだ人はまばらで、心なしか店内が涼しく感じる。
「せっかくだからお昼ごはん買おうか。何にする?」
「そうめん! 夏っぽいし」
「はいはい」
僕がねぎとみょうがをかごに入れると、さほちゃんがトマトをふたつ入れた。
「……トマト? 冷やしトマトにするの?」
「ううん、そうめんに入れるの」
「……そうめんに?」
首を傾げる僕に目もくれず、さほちゃんは店の奥へと消えていく。
仕方がないので、僕も移動しめんつゆとチューブのしょうがを手に入れた。
肝心のそうめんを買おうとカートを押したところで、いきなり列の間からさほちゃんが飛び出してきて「はい」とかごに商品を入れていく。
そうめん、大葉、ツナ缶にごま油――
前半のふたつはいいが、後半のふたつの使い道が思い当たらない。
極めつけにコーラのペットボトルを差し出してくる。
「私これでいいや」
「……これ、全部そうめん?」
困惑した僕の台詞を聞いて、さほちゃんが「まさか」とつぶらな目を更にまんまるくした。
「コーラは隆太郎と一緒に帰り道飲むんだよ」
「あ、そうなんだ」
ツナ缶とごま油の謎は解けないままだけど、ひとまずよしとしよう。
会計を済ませて外に出ると、強烈な夏の陽射しが僕たちに降り注ぐ。
思わず顔をしかめた僕に、さほちゃんが満面の笑みで「はい」とコーラを差し出した。
「用意がいいね」
「でしょ」
さほちゃんが得意げに笑う。
かくして僕たちのデビュー戦は、回し飲みのコーラの味で締めくくられた。
***
「夏のそうめんもおいしいけど、秋のおそばも格別だね」
目の前でさほちゃんがそう言いながらするるとそばを啜る。
僕はその様子を見ながらなすの天ぷらをさくりと噛んだ。
古来から一生に一度は参るべきとされる善光寺を経て、歩き疲れた身体に上品な油がじゅわりと沁みわたる。
――そう、僕たちは今長野県に来ている。
初めての旅を終えてから3ヶ月、ようやっと旅らしい旅が実現したというわけだ。
あの日僕たちはそれぞれ育ってきた家庭の味を披露し合った。
つまりは僕の家の正統派そうめん、そしてさほちゃんの家の風変わりそうめん。
――いや、さほちゃんからすれば、あのトマトツナそうめんこそが正統派なんだろう。
さほちゃんはねぎとみょうがとしょうがをそうめんに纏わせ、つるると食べたあとで「シンプルでいいね」と頷いた。
僕はそうめんを啜ったあとめんつゆに浮かんだトマトの切れ端とツナ、そして大葉を口に入れる。
もぐしゃくもぐと咀嚼した瞬間、口の中がトマトの瑞々しさとツナのうまみでいっぱいになった。
――うん、確かにこれはおいしい。
ごま油の香ばしさに大葉のすっきり感もいい仕事をしている。
そんなわけで僕たちの家のそうめんはさほちゃんの家のものをベースにすることとなった。
こうしてふたりの味をこれからひとつずつ作り上げていくのだと思うと、なんだか感慨深い。
「隆太郎、そば伸びるよ」
「――え、あっごめん」
慌てて目の前のそばをつゆにつけ、ずるると啜る。
そばの香りがふわりと優しく香り、ほっとした。
会社の昼休みに食べる立ち食いそばもおいしいけれど、本場の信州そばはより洗練された味がする……気がする。
「うん、おいしい」
「……さっき、何考えてたの?」
さほちゃんが海老の天ぷらをかじったあとでそう訊いてきた。
そばを食べながらかつて食べたそうめんの味を思い出していたなんて節操ない気がして、僕は「あぁ、このあとのプランについて」と小さな嘘をつく。
「この辺りでやり残したことないかと思ってさ」
「――ふぅん?」
さほちゃんは納得しているのかしていないのかわからないような声を出したあと、残りの海老をもぐもぐと食べ進めていった。
そんな彼女をしり目に、僕は本屋で買ったガイドブックをぱらぱらめくる。
今晩の内に移動し、明日は松本城や諏訪湖を観光する予定だ。
まだ時間に余裕があるし、もうひとつくらいイベントをこなしておきたい。
「……じゃあ、これは?」
投げかけられた声に顔を上げると、さほちゃんが卓上の七味唐辛子の缶を手に取って眺めていた。
「この七味買いに行きたい」
さほちゃんに渡されたそれをまじまじと見ると、見慣れた唐辛子のイラストと共に牛が描かれている。
調べてみると、どうやらご当地限定缶のようだ。
さほちゃんもこういうものを欲しがるんだなと意外に思っていると、続きの言葉が紡がれる。
「せっかく隆太郎と来たから――記念のおみやげ」
そして、ふいっと視線を逸らした。
照れたように尖らせた口唇を見て、僕は思わず噴き出してしまう。
「――なに」
「ううん、なんでもない。じゃあここのお店に行ってみようか」
こうして次の目的地を決めた僕たちは、残りのそばをおいしくいただいてから席を立った。
***
「――え、そんなことあったっけ」
さほちゃんがとぼけたように言う。
お皿の上のスパゲッティは半分程食べ進められていて、そろそろ交換のタイミングと言わんばかりだ。
僕はきっちり半分食べた自分の白いお皿と、さほちゃんの前にある黒いお皿を入れ替える。
「あの頃はまだ新婚だったから、浮かれてたのかな」
「え、さほちゃんも浮かれるなんてことあるの?」
「さぁ、どうでしょう。でもあの七味はおいしかった気がする」
しれっと言ってから、さほちゃんはさっきまで僕が食べていたスパゲッティをくるくるとフォークに巻き付けた。
セーターの袖から覗く手は少しだけ血の色を取り戻していて、内心僕はほっとする。
外の世界は僕たちの事前予想よりもう数段寒かったからだ。
それは冬だからというだけでなく、水場が近いということも影響しているのだろうけれど。
「Would you like something to drink?」
通りがかった店員に話しかけられる。
僕が「えっと……」とまごまごしている間に、さほちゃんがすっとメニュー表の一点を指差した。
店員は無表情で頷いて去っていく。
「何頼んだの?」
「リモンチェッロ。甘くて飲みやすいらしくて」
そう言って、さほちゃんは手元のドリンクを飲み干した。
オレンジ色のそのカクテルの名前が何なのか、僕はもう覚えていない。
――そう、僕たちは今ベネチアに来ている。
勤続10年記念に会社から与えられた長期休暇をフル活用した結果、人生で一番の遠出をすることができた。
といってもさほちゃんの会社にそういう制度はないので、僕の都合に合わせてもらった形だけれど。
「本当に来てよかったね。無事ゴンドラにも乗れたし、ため息橋も観られた」
微笑むさほちゃんの頬は、室温とアルコールのお蔭で少しだけ紅潮していた。
耳には街歩きの途中に買ったベネチアングラスのイヤリングが揺れている。
あまりものを欲しがらないさほちゃんだから、「誕生日も近いし」と僕が半ば強引にプレゼントしたのだ。
オレンジ色の明かりに照らされながらも、その深い翠は塗りつぶされることなく圧倒的な存在感を示している。
それは運河をゴンドラで進む間、灰色が滲む冬空の下でも変わることなく、きらきらと輝いていた。
家々の間に張り巡らされた水路、ゴンドラから見上げる異国の人々、さほちゃんの耳に光るベネチアングラス――そんなミックスされた非日常の味に僕は酔っていたのかも知れない。
「――こんな綺麗な街がいつか海に沈んじゃうなんて、信じられないな」
だから、ぽつりと呟かれたその言葉に思わずはっとする。
顔を上げるとさほちゃんは悲しげに眉を寄せていた。
そう、この街は地盤沈下と地球温暖化の影響でこのままだと海に沈んでしまうらしい。
とはいえ、それは何十年も先の未来のことだ。
僕みたいに自分の半径1メートルのひとさえ平穏であればいいという思考の人間にとって、未だ見ぬ人々のために悲しむことのできるさほちゃんはとても奇特で、そして尊いものに思える。
「……そうだね」
僕は何の慰めにもならない相槌を打ち、目の前の黒いスパゲッティにフォークを差し込んだ。
持ち上げてみると驚く程黒い。
ひと時迷ったのち、僕は勇気を振り絞ってその闇を飲み込んだ。
瞬間、濃厚な魚介そのものの味が口内を満たしたあと、ほのかな甘みが舌を撫でる。
うん、見た目で敬遠せず食べてよかった。
「ねぇ、隆太郎」
「え?」
不意に呼ばれて顔を上げると、向かい側のさほちゃんがいたずらっぽく笑う。
「ふふ、見事なお歯黒」
そう笑うさほちゃんの歯だって、黒く染まる――ことはなく、あまり色が変わっていない。
何故だろうと思いながらも、僕は「そりゃあイカスミだからね」と答えた。
「もしこの街が海の底に沈んでしまったとしても、僕たちがここでイカスミスパゲッティを食べたという事実は永遠に変わらない」
「なにその名言」
さほちゃんが楽しそうに目を細めるので、僕もイカスミスパゲッティを食べながら笑う。
東京から9,500km離れたこの街にさほちゃんとふたりでいることを奇跡のように感じながら、僕たちは更けゆく水都の夜を過ごした。
***
「我々の旅もついにここまで来ましたか」
さほちゃんが感慨深げにそう言うので、僕もひとまず「ついにね」と相槌を打つ。
僕たちの眼前にはイカスミよりも真っ黒な闇が広がり、そしてその中に宝石のようにぱらぱら散りばめられた光が浮かんでいた。
「ねぇ隆太郎、宇宙だよ、宇宙」
さほちゃんが窓の外を指差して笑う。
僕は「……そうだね」と頷いた。
「……なんか隆太郎、テンション低くない?」
「そんなことないよ。宇宙すごいね」
「でしょ? せっかく来たんだから楽しまなきゃ」
さほちゃんの台詞で僕の中のスイッチがかちりと入る。
そうだ、せっかくの機会だし楽しもうじゃないか。
それから僕たちは窓の外を眺めて過ごした。
普段地上から見上げている時の月は黄色く輝いているけれど、近くで見るとなんだか灰色っぽい。
「知ってる? 月にも『海』があるんだって」
さほちゃんが手元のタブレットに視線を落としている。
そもそも月には水がないのだから、僕たちがベネチアで見た海とは違うだろう。
それでも『雨の海』や『晴れの海』、『静かの海』などと名付けられたそれらを眺めれば、段々とこれも海なのかも知れないという気になってくるから不思議だ。
「地球から見たら黒い影に見えるのが海の部分で、餅つきしているうさぎの耳は『豊かの海』と『神酒の海』みたい」
「へぇ、色々な名前があるんだね」
「そう、宇宙って奥深いよねぇ」
そう言って笑うさほちゃんの前には、一口大になったラーメンの塊が置かれている。
僕の手元にもあるそれをまじまじと見つめてみると、塊の上には小さな肉や玉子が載っており、それらをねっとりとしたソースが覆っていた。
箸で塊をつまみ、口に入れるとさほちゃんはすぐさま「おいしい!」と声を上げる。
「地上のカップラーメンと見た目が違うからどうかと思ったけど、全然大丈夫。むしろ塊になってて食べやすい」
「そうか、無重力空間でバラバラにならないよう工夫してるんだ」
僕も一口食べてみると、食べ慣れた味が口いっぱいに広がった。
これならいつか本物の宇宙に行った時にも食の心配をせずに済むだろう。
「あー、面白かった」
アトラクションの全行程を終えたさほちゃんはご満悦だった。
その笑顔を見ていると、僕も素直にここに来てよかったという気持ちになる。
道の両端を飾る満開の桜も僕たちのささやかな『宇宙旅行』を称えてくれているようだった。
僕たちが旅を始めてからもう結構な時が経つ。
あれから色々な所に行ったけれど、さすがに宇宙旅行は生きている間に実現しないだろう――そんな僕の発言を聞いて、さほちゃんが「いや、行ける!」と探してきたのがこの宇宙旅行体験テーマパークだった。
「距離的にはこれまでの行き先より近かったけど、普段の旅行とはまた違って楽しめたね」
「そうだよ、旅で大事なのは距離じゃないんだから。そこで何をするかだよ」
そう得意げに言うさほちゃんの目尻には、幾つかの皺が走っている。
それだけ僕たちは歳を重ねてきたんだと改めて思った。
「確かに、さほちゃんの言う通りだ」
僕は隣を歩くさほちゃんの手を握る。
すると、さほちゃんが驚いたように僕を見た。
「どうしたの? いきなり」
「別に、なんでもないよ」
「――なら、いいけど」
そのまま僕たちは手をつないで駅までの道をゆっくり歩く。
ふと強く風が吹いて、散った桜の花びらが僕たちの往く道の先を点々と彩った。
***
「――ねぇ、旅に出ない?」
もう三代目になった洗濯機が完成させた着替えを棚の上に置きながら、僕が言う。
反応がないのでベッドの方に目を向けると、さほちゃんはぼーっとTVを観ていた。
画面上には情報番組が流れていて、そばを啜ったレポーターが気の利いたコメントを発している。
机の上に置かれた七味の缶を見て、あぁあの店かも知れないと懐かしく思った。
僕はベッドの脇の椅子に腰かけ「さほちゃん」と話しかける。
すると、さほちゃんの視線がゆっくりとこちらを向いた。
とろんとした目をしているのを見ると、もしかしたら眠いのかも知れない。
「ごめんさほちゃん、眠い?」
「……ううん」
「そしたらさ、旅に出ようか」
「……たび?」
虚ろな眼差しで問い返すさほちゃんに僕は頷いてみせる。
「うん、そうだよ。旅」
「……たび」
『た』『び』と一音ごと、確かめるように口唇を動かしてから、さほちゃんはゆっくりと口角を上げた。
「……いいね」
僕はさほちゃんを乗せた車椅子を押して、ゆっくりと近所の川原に向かう。
アスファルトのつなぎ目を通るたびに車椅子はかくん、かくんと揺れて、それと共にさほちゃんの耳に光る翠色の光もきらり、きらりと瞬いた。
夏が近いからか、今日も強烈な陽射しが僕たちに向かって降り注ぐ。
川原までの道は遮るものも少なく、僕たちは無防備に太陽の下を往くしかない。
立ち止まって日傘を差しかけようとすると、さほちゃんが「……いい」と言う。
「暑くない? さほちゃん」
「――ねぇ、月はどこ?」
さほちゃんは眩しそうに空を見上げ、はっきりとした口調で言った。
――たまにあるのだ、こういうことが。
日によって調子に差はあるけれど、総じて最近はベッドの上で過ごす時間が長くなってきている。
思い出話をすれば「……そうだっけ」と不思議そうに首を傾げるようになった。
以前より口数が少なくなったさほちゃんは、しかし時としてその瞳を少女のように輝かせる。
緩慢な仕種はそのままだけれど、きっと心はあの頃のように躍動しているのだろう。
胸の底にじわりと熱が走るのを感じながら、僕は広々とした青空を見上げる。
そして、ぽちりと薄白く浮かび上がる小さな円を発見し、ゆっくりと指差した。
「さほちゃん、あれだよ」
「……そうなの」
「そうだよ」
さほちゃんは少しだけ黙ったまま白い月を見つめ――そして、ふふっと笑う。
「……そっかぁ」
その笑顔は初めて見た時のものから少しも変わらない。
かつては背中まで伸びていた髪が、今は出逢った頃と同じ顎の下くらいまでの長さに戻っている。
透き通るようなその純白を、僕はたまらなく綺麗だと思った。
時は過ぎ、僕たちも歳を重ねてきている。
きっと色々なものが緩やかに悪化こそすれ、急激に改善することはないだろう。
もしかしたら、明日になればさほちゃんはまた別の思い出を忘れているのかも知れない。
――それでも、僕にとってさほちゃんはさほちゃんなのだ。
僕は車椅子の上のさほちゃんを後ろから優しく抱きしめる。
さほちゃんは少しだけくすぐったそうに身をよじりながらも、されるがままおとなしく座っていた。
「ねぇ、さほちゃんの言う通り、近所でも立派な旅だったね」
「……そう?」
「うん、そう」
『そうだよ、旅で大事なのは距離じゃないんだから。そこで何をするかだよ』
記憶の中のさほちゃんが得意げに笑う。
そう――旅で大事なのは距離じゃない。
そして、僕にとってはそこで何をするかよりもっと大事なことがある。
「さほちゃん、これからも一緒に旅をしよう。ずっとずっと、ふたりで」
――そう、もしこの世界が終わってしまったとしても、僕たちがふたりで旅をした事実は永遠に変わらない。
「――隆太郎」
「なに?」
「……ありがとう」
「こちらこそ」
さほちゃんが僕の腕にそっと手を添える。
その掌の熱を僕は心から愛おしく思った。
「さほちゃん、今日のお昼何食べたい?」
「……そうめん」
「いいね、作ろうか。僕たちの家のそうめん」
「……トマト多めがいい」
「もちろん、さほちゃんが好きなだけ入れよう。僕は大葉を多めで」
さほちゃんがこちらに顔を向け「……いいね」と嬉しそうに笑う。
そして僕たちは材料を買い足すべく、次の旅に向けて新しい一歩を踏み出した。
(了)
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
今回のテーマは「みず」ということだったので、水に関係する街のお話が書けたらいいな……と旅先のひとつをベネチアにしました。
大昔に一度だけ行ったことがあるのですが、ファンタジーな街並みでとっても素敵だったのを覚えています✨
ちなみに日本の水の街といえば岐阜県の郡上八幡。
こちらを舞台にしようかとも思ったのですが、以前小説家になろうで郡上八幡を舞台にした作品を読んだことがあったので、今回はお見送り。
郡上八幡も綺麗な所ですので、よろしければ是非行かれてみてくださいね。
以上、あとがきまでお読みくださりありがとうございました。




