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「お前を愛することはない」と言われたので、嫁いだ先で断罪されることになりました

作者: 河合ゆうじ
掲載日:2026/04/17

 『お前を愛することはない』


 夫となる男の声を聞いた瞬間、私は心の底から安堵の息を漏らしてしまいました。


 ——ああ、よかった。これで辺境から持ってまいりました霜花草の球根の、継代培養に没頭できます。


 アウレリウス公爵邸の最奥、初夜前夜の寝室。月光だけが絹のカーテン越しに差し込む薄闇の中、私はベッドの端に腰掛け、両手を膝の上に揃え、新郎となるヴィルヘルム・アウレリウス公爵閣下のお背中を、じっと見つめておりました。


 窓際に立つ閣下の輪郭は、ひどく硬いものでした。黒髪を後ろに撫でつけた長身のお姿は、ご婚礼の礼服のまま。普通であれば、初夜ですから、もう少し寛いだお召し物に改めるものと存じますけれど、いえ、その方が私の研究時間を圧迫しないので、個人的には好ましい展開でございます。


 「寝室も別にする。跡継ぎは……別途、考える」


 閣下のお声は低く、私に背を向けたまま、振り返りもなさいません。けれど、なんて、ありがたいお言葉。


 私は立ち上がり、深々と会釈をいたしました。


 「お心遣い、ありがとうございます」


 「……何」


 「私、実は研究に没頭したくて、夫婦のまぐわいは時間の浪費になるのではないかと、そればかりを嫁入り前から心配しておりましたの。閣下からそう明言していただけて、本当に、本当に助かります」


 閣下の肩が、ぴくりと動きました。


 「今、なんと」


 「あ、お世継ぎのことでしたらご安心ください。植物学的に最適な受精時期を分析いたしますので、排卵周期と月の満ち欠けを計算した上で、合理的な日程を組めば、年に三、四回のご協力で十分かと」


 閣下が、振り返られました。


 月光に照らされた灰狼色の瞳が、大きく見開かれております。端整な眉間に、深い皺が寄るのを、私は不思議な気持ちで眺めました。軍務卿の閣下が、このような表情をなさるなんて、戦場でも滅多にないことでしょう。


 お顔色が、わずかに白くなられたようにも見えます。もしやお体の具合が悪いのかしら。霜花草の葉を擦って飲むと気付けの薬になるのですけれど、今は手元にございませんし。


 「……失礼する」


 閣下は、ほとんど逃げるような早さで寝室を後にされました。扉が閉まる音が、冬の朝の氷が割れるような響きで、部屋に残ります。


 月光の中、私はひとり取り残されました。


 ——よいお方でした。お口数は少なくて、けれど初対面の妻に、わざわざ研究計画を邪魔しないと明言してくださるなんて。なんて紳士的なお方でしょう。


 腰帯を解きながら、私は嬉しさのあまり鼻歌を歌ってしまったほどです。明日、真っ先にすべきことは、裏庭の土壌調査。アウレリウス公爵邸の敷地は王都でも最も広いと聞き及びますから、きっと立派な薬草園を築ける一画が、どこかに眠っているはず。


 政略結婚というのは、こんなにも穏やかなものだったのですね。


 この日まで「出稼ぎに出る」と覚悟していた私の心は、月光の差し込むベッドの上で、ふわふわと軽やかに浮き上がっていくのでした。


◇◇◇


 嫁いで一週間が過ぎた、晴れた秋の昼下がりのことです。


 私は屋敷西側の裏庭で、額に汗を滲ませながら土に鍬を入れておりました。


 ここは長年、使用人が物置代わりに踏み固めていた荒れ地ですけれど、土質は意外なほど良質で、少し耕せば立派な薬草園になる見込みが立ちます。南西向きで日照に申し分なく、裏の森から湧水の支流も近くを流れる。霜花草の継代にこれほど理想的な土地は、辺境の温室にもなかったほどです。


 私はドレスの裾を帯に挟み、持参した麻袋から、銀糸菌の菌糸束を取り出しました。


 ラ・ロシェーヌ辺境伯家には、代々続く慣習がございます。霜花草の球根を植える際、必ず園丁長が培養した銀糸菌を根に絡めてから土に埋める。これは辺境伯家の「霜花草の管理印」と呼ばれるもので、他家の株と見分けをつけるための、わが家にだけ伝わる技法です。


 「銀糸さん、新しい土地ですけれど、どうぞよろしくお願いしますね」


 球根に菌糸を丁寧に巻き付けながら、私は老園丁長ユベールのお顔を思い浮かべました。八歳の頃から私の師でいてくださった、しわくちゃの笑顔です。


 ——その時でした。


 「まあ、ご覧になって。どなたかと思いましたら、新しくいらした公爵夫人ですわ」


 甲高い声が扉のほうから降ってきました。裏庭の出入口に、義妹のエメリーヌ様がお立ちになっていらっしゃいます。十七歳の、薄桃色のドレスのお可愛らしい妹君。けれど、その紅い瞳には鋭い棘がございます。


 「泥だらけのドレスですこと。さすが、田舎者らしい身なりですわね」


 エメリーヌ様が扇の陰で薄く笑われました。


 私は鍬を脇に立てかけ、泥だらけの手袋のまま、深く会釈をいたします。


 「ありがとうございます、エメリーヌ様。辺境で鍛えた腕前を褒めていただけるなんて、嬉しゅうございます」


 エメリーヌ様の扇が、止まりました。


 「……は?」


 「ドレスに泥がつくほど鍬を振るえるのは、辺境伯家で培った成果ですもの。わざわざお褒めいただいて、まるでお姉様の鏡のようなお方ですわ」


 「公爵夫人が、そのような雑草まみれのこと、アウレリウス家の恥ですわよ」


 「おっしゃる通り、今はまだ雑草だらけですものね。でもきっと、この薬草園が完成した暁には、アウレリウス家の自慢になりますわ。その時はぜひ、エメリーヌ様にも霜花草の薬湯をご提供いたしますわね」


 エメリーヌ様のお顔が、徐々に朱色に染まっていくのがわかります。夕日に染まる霜花草の蕾のよう、と、心の中で小さく感心してしまったほどです。


 「それから、お兄様、あなたを愛することはないと仰ったそうね」


 「ええ、とても紳士的なお方でした」


 「……なんですって?」


 「妻の研究時間を尊重してくださるなんて、閣下ほどのお方はそうそういらっしゃいませんでしょう」


 エメリーヌ様は、何やら言葉を飲み込まれた後、ぷりぷりと肩を揺らしながら屋敷の方へと去って行かれました。扇が小刻みに鳴る音が、愛らしい後ろ姿を、さらに可愛らしく彩ります。


 扉が閉じた後、私は鍬を持ち直し、銀糸菌の続きに取りかかりました。


 一瞬、裏庭の塀の向こう、大きな樫の木の陰に、薄桃色のドレスとは別の、地味な侍女服の影が揺れたように見えました。けれど、目を凝らすとすぐに消えてしまいました。秋の風が、枝葉を揺らした残像なのでしょう。


 薬草園を見下ろすように、二階の執務室の窓に、黒い軍服の人影が、一瞬だけ映ったような気もいたしました。けれど、私が顔を上げた時には、もう窓は静かに閉じられていたのでした。


◇◇◇


 週に一度、公爵家には義務として夫婦の晩餐がございます。


 長いマホガニーの食卓の、両端。窓際の席に閣下、その対角に私。給仕係が料理を運ぶたびに、長い足で何往復もしていただく、食卓らしくない食卓です。


 閣下はナイフとフォークを、とても静かにお使いになります。音を立てずに切り、音を立てずに咀嚼し、合間にワインを少し。その所作は軍人というよりも、厳しい修道院の長にお見えになるほど。


 私は、その日の午後に採ったばかりの薬草を煎じましたハーブティーを、ポットごと食堂に持ち込んでおりました。


 「閣下、よろしければこちらをお試しくださいませ」


 食後、私は自分のカップに注いだ後、給仕係にお願いしてポットを閣下のお側へ運んでいただきました。


 「軍務でお疲れの神経を和らげる配合です。よろしければ、ご実験にご協力ください」


 「……実験」


 「はい、処方を確かめたいのです。害はございませんが、効きには個体差がございますから」


 閣下は、しばらくポットを視線で観察された後、給仕係に小さく合図をなさいました。注がれたお茶から、薄紫色の湯気が立ち上ります。霜花草の蕾と、野生の甘露花の葉を、黄金比で煎じたもの。


 閣下がカップを口に運ばれました。


 最初の一口。何の変化もございません。けれど、二口、三口と経るうちに、閣下の肩の高さが、ほんの少し下がったのです。眉間の皺が消えたわけではありませんけれど、皺の深さがわずかに浅くなったように見えました。


 空になったカップが、静かに受け皿に戻される音がします。


 「……もう一杯、所望する」


 「まあ、お口に合いまして、よろしゅうございました」


 お代わりを注いでいただいている途中、ふと視界の端に、食堂の壁に掛かる一幅の肖像画が目に入りました。金髪を結い上げた、少し儚げな印象の貴族令嬢。お召し物から推して、数年前のものでしょうか。


 そのお名前を、私はまだ存じ上げないのでした。


 二杯目を飲み終わる頃、閣下は立ち上がり、食堂を出られる際に、一度だけ振り返られました。


 「……君は、私を何だと思っている」


 その声音には、怒りというより戸惑いの色がございます。


 私は立ち上がって、真面目にお応えいたしました。


 「大変、興味深い、植物学的被検体でございますわ」


 閣下の口元が、何かを堪えるように、わずかに動きました。それが微笑なのか、吐息なのかは、角度のせいで私には見えません。


 「……毎日、用意できるか」


 「もちろんです。毎朝、お部屋の前にポットを置いておきますので、ご実験サンプルとしてお気軽にお使いくださいませ」


 「わかった」


 閣下はそう短くおっしゃって、食堂を後にされました。


 ——翌朝。


 私が自室の扉を開けますと、昨夜ポットごとお届けしたはずのカップが、きちんと空になって、扉の前の敷物の上に置かれておりました。少しだけ冷めた陶器の底に、ほんの一滴、薄紫の滴が残っています。


 お召し上がりいただけたのですね。


 これはこれで、立派な実験結果です。私は日記に「被験体・一号、継続摂取の意志あり」と記録して、新しいポットの煎じ方の配合を、計画し始めたのでした。


◇◇◇


 翌週の午後、お悔やみの花を献じるという名目で、フォンテーヌ伯爵家のご令嬢が公爵邸にお見えになりました。


 エヴェリーヌ・フォンテーヌ様。閣下の前婚約者のお従妹にあたられる、二十歳の令嬢です。漆黒のドレスに、揃いの漆黒の絹手袋。胸元には、白い百合の花束。


 「お初にお目にかかります、公爵夫人」


 エヴェリーヌ様のお辞儀は、流れるように優美でした。所作にも物腰にも、一分の隙がございません。


 「亡き従姉セシリアの供養で、お邪魔しておりますの。どうぞ、お許しくださいね」


 「どうぞ、お気兼ねなく」


 私は素直にお応えしました。先日、食堂で拝見した肖像画のご令嬢が、恐らくはその「セシリア様」でいらっしゃるのでしょう。閣下にとって大切だった方の面影を悼む人が訪ねてくるのですから、妻として遮る理由はどこにもございません。


 「せっかくですもの、公爵夫人の薬草園を拝見させていただいても?」


 「もちろんです。ただ、まだ造成途中でお見苦しいのですが」


 エヴェリーヌ様は、黒の絹手袋を外さぬまま、裏庭へとお入りになりました。貴族のご令嬢が、薬草園で絹手袋のまま。というのは、あまりない光景でございます。


 秋の陽光の角度が絶妙だったのでしょう。エヴェリーヌ様の手袋の指先に、一瞬、微細な粒子の反射光のようなものが見えた気がいたしました。


 私は目を瞬かせて、その違和感を頭の隅に置きました。光の加減かもしれませんし。


 「こちらは霜花草ですわね。珍しい種を栽培していらっしゃるのね」


 エヴェリーヌ様のお声には、どこか試すような響きがございます。


 「ええ、管理には特殊な共生菌が必要で、辺境伯家では代々、銀糸菌と呼ばれる糸状菌を球根に絡めてから植えますの。他家の株と見分けがつきますし、共生関係によって葉の艶も増すのです」


 「まあ、銀糸菌。聞いたことがございませんわ」


 「他家では使っておりませんから。継代のたびに仕込み直さなければ絶えてしまう性質で、なかなか普及しませんの」


 エヴェリーヌ様は、上品にうなずきながら、メモ帳に何かを書き留めておられます。熱心な方だわと、私は素直に感心いたしました。


 一時間ほどで、エヴェリーヌ様は丁寧な会釈と共に去って行かれました。白い百合の香りが、薬草園の土の匂いに、ほんの少し混ざって残ります。


 ——翌朝。


 毎朝の見回りで薬草園へ降りた私は、霜花草の区画に、見慣れない新株を見つけました。


 形は霜花草。葉脈も霜花草。けれど、根に絡んでいる共生菌が、私の銀糸菌ではないのです。


 「あら」


 しゃがみ込み、葉を一枚つまんで、光にかざしました。共生菌特有の、ほんのり甘い菌糸の香り。でも、これは銀糸菌のものとは違います。もっと湿っぽく、森の深部の落ち葉を思わせる香り。


 「面白いこと……これ、別の共生菌ですわね」


 新株を抜いてしまおうかと一瞬考えましたけれど、思い直しました。せっかくの研究素材なのですから、抜いてしまうのはもったいのうございます。原因の追求は、後にしても遅くはないはず。


 私はその一株に「調査対象・A-1」と書いた小さな札を立て、柔らかく土を被せました。


 ——その日の午後、庭の向こうで、薄桃色のドレスと地味な侍女服が、何やらひそひそと話している姿を、視界の端に捉えた気がいたしました。


 屋敷の奥の廊下では、侍女長のヘンリエッタ様が、その話し声を耳にしながら、静かに唇を噛んでおられた、と、後日、ご本人が教えてくださいました。


◇◇◇


 一月後、王都の秋の夜会。


 アウレリウス公爵夫人としての社交デビューを兼ねて、私は閣下と共に宮殿の大広間に足を踏み入れました。


 蝋燭の海。絹のドレスの波。楽団の弦の震え。皆、私にとっては霜花草の蜜に群がる蜂のように、きらびやかで目まぐるしいものでございます。


 閣下は私の腕を取り、エスコートしてくださいました。黒い礼服が、とてもよくお似合いでいらっしゃいます。「君は、笑っていればいい」と、小さくおっしゃってくださいました。普段お口数の少ない閣下にしては、珍しく優しいお言葉でした。


 楽団が一曲目を奏で終え、会場が少しだけ静まった、その時です。


 「皆様!どうか、お聞きくださいませ!」


 甲高い声が、天井から降ってきたように響きました。


 大広間中央の、二階のバルコニーに、薄桃色のドレスの少女がお立ちになっています。エメリーヌ様。頬を紅潮させ、扇を握りしめ、瞳を涙で潤ませながら。


 「兄の、公爵様の、お命が危のうございます!」


 会場中のざわめきが、波のように広がりました。


 「新しい公爵夫人が、兄上の毒殺を企てておいでなのです!証拠は、ここに!」


 エメリーヌ様が掲げられたのは、乾燥された霜花草の葉数枚。胸元のリボンで束ねられたそれを、高く高く、誰の目にも見えるように、蝋燭の光に晒されました。


 会場の視線が、一斉に私に集中いたします。


 隣の閣下の指先が、私のドレスの袖を掴む力を、わずかに強めるのを感じました。けれど、閣下は私を離されません。離すどころか、腕に添えられたお手が、ほんの少し、震えていらっしゃるのが伝わります。


 お疲れなのかしら。先ほど、階段を上がる際に息が切れておられたから。


 壇上の玉座の傍から、王族の裁定者である若い侯爵様が、杖を床に打ち鳴らしながら降りていらっしゃいました。


 「アウレリウス公爵夫人。弁明を、所望する」


 私は閣下のお手を一度だけ優しく離し、前へ一歩、進み出ました。


 スカートの裾を広げて、深々と礼をいたします。


 「まあ、皆様」


 顔を上げますと、蝋燭の炎が、会場中の瞳に、いくつもの小さな火花のように映っておりました。


 「私の研究成果に、ご興味を持ってくださったのですね。とても、とても、光栄ですわ」


 蝋燭の炎が、一瞬、風もないのに揺れた気がいたします。


 「では、植物学の基礎から、ご講義させていただきますわね」


◇◇◇


 私は裁定者の侯爵様に目配せし、エメリーヌ様のお手から、葉束を預かっていただきました。若い侯爵様は、何とも奇妙なものをご覧になる目をされた後、それを私の手の平に、うやうやしく置いてくださいました。


 枯れかかった霜花草の葉。


 「ありがとうございます」


 私は葉を持ったまま、会場の中央に設えられた長机の上に、そっと載せました。蝋燭の光が、葉の縁を金色に縁取ります。


 「まず、結論から申し上げます」


 ざわめきが、一段、低くなりました。


 「この葉は、霜花草です。間違いございません。致死量も、正確に申し上げれば、五グラムで成人男性を眠らせるように殺せます」


 会場が「ひっ」と息を呑む音。


 閣下の肩が、わずかに動かれました。けれど、お声は上げられません。


 「けれど、皆様は霜花草について、誤解していらっしゃる部分がございます」


 私は葉を一枚、裏返しにして、根元の折れた茎を光にかざしました。


 「霜花草は栽培が非常に難しい植物です。自生種はほぼ絶滅しており、貴族家の薬草園でかろうじて継代されている状態。そしてその継代には、共生菌が必須ですの」


 「共生菌、ですって?」


 エメリーヌ様のお声が、震えていらっしゃいます。


 「はい。根に共生菌を宿していない霜花草は、継代の過程で必ず枯死いたします。そして……」


 指先で、葉の根元にこびりついた薄紅色の菌糸の欠片を示します。


 「ここが大切なのでございますが、ラ・ロシェーヌ辺境伯家では、代々、銀糸菌という糸状菌を使ってまいりました。父祖代々の慣習でございます。私が嫁ぎ先に持参し、裏庭の薬草園で育てている霜花草は、全て、銀糸菌と共生しております」


 言葉を切り、葉を高く掲げ、蝋燭の光に再び照らします。


 「銀糸菌の共生痕は、薄い銀色の菌糸と、独特の甘い匂いで判別できます。けれど、この葉の根元に見えるのは」


 光に浮かび上がる菌糸は、薄紅色。


 「明らかに、銀糸菌ではございません」


 エメリーヌ様が、ぐらりと扇を取り落とされました。


 「つまり、この葉は、私の薬草園から採られたものでは、ございません」


 会場の、風のようなざわめきが、一気に厚みを増します。「そんな」「まさか」。誰かの声が、壁に反響して戻ってまいりました。


 けれど、私はまだ止まりません。


 「代わりに、別の共生菌が付着しております」


 葉を二本の指でつまみ、裁定者の侯爵様に微笑んで差し出しました。


 「お鼻の良い方なら、森の深部のような、落ち葉に似た匂いを感じ取れるかと」


 侯爵様は顔を近づけ、眉根を寄せ、そして息を呑まれました。


 「これは、灯縁菌(ともえだけ)、ではないか」


 「さすが、お目が高うございます」


 会場の後ろのほうで、白髪の老貴族が、杖を床に打ちつけました。


 「灯縁菌だと……?灯縁菌といえば、フォンテーヌ伯爵家、東方林の、限定自生種ではないか!」


 老貴族のお声に、会場が、文字通り、凍りつきました。


 「はい。王国広しと申せど、灯縁菌の継代に成功している領地は、フォンテーヌ伯爵家のみと存じます」


 私は、会場のどこかにお立ちのはずのエヴェリーヌ様を、そっと見つめました。漆黒のドレスの後ろ姿が、人波の中で固まっているのが見えます。


 「つまり、皆様、この毒草は、フォンテーヌ領から、私の薬草園に、どなたかの手によって、持ち込まれたもの、でございますわね」


 ざわめきが、大きな波になって、会場を揺らしました。


 小首を傾げて、私はつぶやきます。


 「あら、でも、不思議ですわ。どなたが、このような手間をかけて、私を陥れようとなさったのかしら。私、人様に恨まれる覚えは、とんと、ないのですけれど」


 誰かが、息を漏らしました。


 誰かが、乾いた笑い声を立てました。


 そして誰かが、閣下が、私の名を、呼ぼうとされました。


 けれど、私はまだ、手を止めません。


 「ところで、フォンテーヌ伯爵令嬢」


 会場の中央を歩み出て、エヴェリーヌ様の前に、すっと立ちます。漆黒のドレスの令嬢は、わずかに後ずさられました。


 「先日、お悔やみの花を献じに、公爵邸へお越しくださいましたわね」


 「そ、それが、何か……」


 「その際、薬草園を見学していただきましたの、覚えていらっしゃいますかしら」


 エヴェリーヌ様のお顔から、血の気が引いていくのがわかります。けれど、エメリーヌ様と違って、エヴェリーヌ様は立ち姿を崩されません。さすがは、セシリア様の従妹でいらっしゃる。


 「その時、確か、黒の絹手袋を、お召しでしたわね」


 「……え?」


 「今日のこの手袋と、同じ手袋を」


 エヴェリーヌ様は、反射的に両手を、背中に隠そうとされました。


 けれど、もう、遅うございます。


 「灯縁菌の胞子は、一度絹の繊維に付着いたしますと、三月の間、落ちません。蛍光試薬をかければ、青白く発光いたします」


 懐から、小さな試薬瓶を取り出します。


 辺境伯家で、私が日頃から持ち歩いている道具の一つ。植物学者の、職業病のようなものでございます。


 侯爵様に一瞥で許可を求めると、若い裁定者様は、震える手でうなずいてくださいました。蛍光試薬を、エヴェリーヌ様の背に回された手袋へ、数滴、振りかけます。


 月光を、そのまま吸ったように。


 青白く、胞子が、輝きました。


 会場が、完全に、静まり返ります。


 「あらまあ、きれいに光りましたわ」


 私は、そっと両手を合わせて、にっこりと微笑みました。


 次の瞬間、壁際のエメリーヌ様が、膝から崩れ落ちる音がいたしました。


 エヴェリーヌ様は、最後まで凛とされたまま、けれど唇だけを小さく震わせておいででした。


 「私、植物に嘘をつかれるのは、ちょっと、いただけませんの」


 私の声は、会場の中で、いつもと変わらぬ穏やかな響きだったはずです。


 けれど、誰ひとり、動きませんでした。


 後ろの方で、どなたかのご婦人が、小さくつぶやかれるのが、聞こえました。


 「公爵様、お顔が……」


◇◇◇


 断罪劇の余韻を引きずったまま、私たちは深夜の馬車で、公爵邸へ戻りました。


 閣下は、馬車の中でも、ほとんどお口を開かれませんでした。窓の外を見つめるお横顔が、月光を受けて、ひどく青ざめていらっしゃるように見えます。ハーブティーをお淹れしましょうかと申し上げようとして、けれど、その前に馬車が玄関前に停まってしまいました。


 「先に、休んでくれ」


 それだけを、閣下はおっしゃいました。


 私は素直に玄関で閣下とお別れして、自室へ戻りました。


 ——けれど、夜更け。


 眠れずに水差しを取りに部屋を出た私は、一階の食堂から、微かな物音と、何か重いものを運ぶ衣擦れの音を耳にいたしました。廊下の角からそっと覗きますと、閣下が、ご自身で白布を抱えていらっしゃる。


 食堂の壁から、セシリア様の肖像画が、外されていました。


 閣下は白布で肖像画を包み、使用人にすら触れさせず、地下の記念室のほうへ、お一人で運んでいかれます。肖像画のあった壁には、長い、四角い、日焼けの跡だけが残されました。


 私は、何も言わずに自室に戻りました。


 閣下のお決断は、閣下のお決断です。私が口を挟むものではございません。


 ——夜明け前、私は執務室の扉を叩かれる音で、夢から覚めました。


 扉の下の隙間から、一枚の紙が滑り込んでおりました。短く、走り書きのように、震える字で。


 『離縁しないでほしい。理由は、明日、直接、言わせてくれ』


 その紙を、光にかざしました。


 罫線のない、公爵家の上質な紙。字は何度も書き直された痕跡があります。右下の余白に、何度も消された「愛し」「君は」「俺は」の、かすれた文字が、ほんの薄く残っておりました。


 ——ああ。


 私は、静かに紙を机に置きました。


 これは、勿体ないことです。閣下は、きっとお疲れなのでしょう。戦場で従姉妹様を失われた過去があって、今回のような事件で、心が過去と現在の間で揺れていらっしゃるのに違いありません。


 こんなことで、閣下が大切な自己律を曲げてしまわれるのは、本当に、お気の毒です。


 夜明けとともに、私は身支度を整え、自分の机に向かいました。羽ペンを取り、公爵家の専用紙を広げ、しっかりとした字で書き出します。


 『離縁申請書』


 タイトルの下に、理由を、丁寧に整えて書き下ろしました。「政略結婚の目的は、すでに果たされました」「辺境に戻り、研究に従事いたしたく存じます」「円満に」「互いの未来のために」。書きながら、私はひとりでうなずきます。これが、閣下のためになるに違いありません。


 朝の柔らかい光が窓から差し込むころ、私は申請書を手に、閣下の執務室へと向かいました。


 扉を叩きますと、すぐに「入れ」と、かすれたお声が返されました。


 中には、既に身支度を整えた閣下が、椅子に座っていらっしゃいます。けれど、机の上には、白紙の紙束と、インクの染みた羽ペンが一本。目の下には、うっすらと隈がおありです。


 「閣下、早朝に申し訳ございません」


 「……構わない」


 閣下は、私のお顔を見るなり、わずかに椅子から身を乗り出されました。


 その表情は、何か、期待するようなお顔でございました。


 「昨晩、お書付を頂戴いたしました。ありがとうございます。私も、申請書を書いてまいりましたの」


 「申請書?」


 「はい」


 にっこりと微笑み、机の上に書類を置きます。


 「離縁申請書、でございます!」


 閣下の指先から、羽ペンが、ぽろりと、机の上に転がり落ちました。


 「昨夜の件で、政略結婚の役目は十分に果たしましたし、辺境に戻って研究を続けたい旨をお伝えしたくて。ちょうど、タイミングもよろしいかと思いましたの」


 「……君は」


 「霜花草の球根は、数株こちらに残してまいりますわね。閣下、お体の調子がずいぶんと戻られたご様子で、何よりでしたわ。もしよろしければ、あのハーブティーの配合も、書面でお伝えしておきますから」


 閣下のお顔が、見たこともないほど、白くなっていかれます。


 私は申請書をひとつだけ机に置いて、お辞儀をして、執務室を出ようといたしました。


 扉の取っ手に手をかけた、そのときでした。


 背後から、信じられないほどの速さで、私の腕を掴む手がございました。


 「……待て」


 閣下のお声でした。低く、震えている。


 振り返ります。


 見上げた閣下の灰狼色の瞳が、何かの言葉を探して、激しく揺れていらっしゃいました。けれど、口元が何度も開き、何度も閉じて、言葉は出てまいりません。


 私は、小首を傾げました。


 「閣下、お体が、またお辛いのですか?」


◇◇◇


 執務室から廊下へ、私の腕を掴んだまま、閣下はふらふらと数歩、引きずるように出ていらっしゃいました。


 遠くの廊下の角に、侍女長のヘンリエッタ様と、使用人たちが、息を潜めて立ち尽くしておられるのが、視界の端に映ります。きっと、閣下のお声が大きかったからでしょう。


 「離縁は——受けない」


 閣下は、私の腕を離されません。逆に、もう一方のお手で、壁に手をつき、ご自分の体を支えていらっしゃいます。


 「でも、閣下は、私を愛することはないと、仰いましたでしょう?」


 「……あれは」


 閣下は一度、深く息を吸われ、吐き出されました。


 「撤回する」


 「撤回、ですか?」


 私は、真面目に、首を傾げました。


 「そのような手続きは、確か、結婚契約書の条項には、記載されていなかったはずでございますが……」


 「条項の話じゃ、ない」


 閣下のお声に、初めて、感情という感情が、ざらりと混じりました。苛立ちでも、怒りでもない、むき出しの、切実な何か。


 「君は、政略結婚を、出稼ぎだと、思っていたな」


 「はい、正直に申しますと、そのような認識でおりました。アウレリウス家には研究環境のご用意があり、辺境伯家には経済支援が、それぞれ利のある取引だと」


 「俺は」


 閣下は、初めて私から視線を外し、遠くの窓を見つめられました。


 「——三年前に、婚約者を失った」


 私は、口を閉じました。


 「彼女を、愛しすぎていた。失くした瞬間に、俺は、誓った。次の誰かを愛することは、彼女への、裏切りだと」


 朝の光が窓から、閣下の灰狼色の瞳に差し込みます。その奥に、湖のような透明な水が、揺れているのが見えました。


 「だが」


 閣下のお手が、私の腕から、すこし、緩みました。


 「君が、薬草園で、土に触れている姿を見るたびに」


 「……」


 「君が、食堂で、あの茶を、差し出すたびに」


 「……」


 「毎朝、扉の前のあの一杯を、三年ぶりに、一滴残らず、空にしていた」


 「……」


 「俺の、誓いは、一枚ずつ、葉が散るように、剥がれていった」


 心臓が、おかしな拍動をいたしました。


 今までの人生で、一度も、こんなふうに鼓動を打ったことはない、というほどの、おかしな拍動。動悸に近く、胸に痛みを伴うような。反射的に、空いたほうの手を胸に当てます。


 「閣下、それは……」


 「愛している」


 閣下のお声は、静かでした。けれど、どの戦場の号令よりも、重く、揺るぎのない声音。


 「これは、撤回しない」


 朝の光が、閣下と私の間の廊下の埃を、金色に照らしています。


 私は、何か言わねばと口を開きましたけれど、言葉が出てきてくれません。代わりに、頬が熱を持つのがわかりました。鏡を見ずとも、きっと朱色に染まっているはず。霜花草の萼が、開ききった瞬間の、あの色に。


 「……困りましたわ」


 小さな声で、私は、自分でも驚くようなことを、言葉にしていました。


 「私、愛された経験がないので、どう対処すべきか、植物学の教本には、載っておりませんの」


 閣下が、笑われました。


 三年ぶりに、と、後で侍女長ヘンリエッタ様が、涙を流しながら教えてくださいました。声を出してお笑いになられた、と。


 そのお声は、低く、穏やかで、少しだけ、かすれていらっしゃいました。


 ——なんて、温かな音なのでしょう。


 胸に当てた手を、私はそっと、下ろしました。


◇◇◇


 秋の柔らかい日差しが、薬草園に降り注いでおりました。


 あれから数週間が経ち、裏庭はずいぶんと薬草園らしくなってきたのです。霜花草の新株が、あちらこちらで花穂をのぞかせ始めています。


 「ここの根には、この量の菌糸を、絡めてくださいませ」


 私は、土に膝をついた閣下の大きな手の平に、一掴みの銀糸菌を載せました。


 閣下は、いつもの真っ黒な軍人用の手袋ではなく、私が王都の園芸店でお求めした、薄い革手袋をはめていらっしゃいます。手つきは、私の目から見て、控えめに申し上げても、不器用と言う他ございません。


 「閣下、少し、指先の力が入りすぎておいでですわ」


 「……君の指導が、厳しい」


 「あら、植物と付き合うには、繊細さがなにより肝心でございます」


 「善処する」


 閣下は一度、深く息を吸って、菌糸を球根の根元に、慎重に、慎重に、巻きつけられました。そのご集中された表情は、執務室で書類をお読みになる時よりも、ずっと真剣に見えます。


 薬草園の遠くの扉から、侍女長ヘンリエッタ様が、籠にティーポットを入れて運んできてくださいました。朝方、新しい配合をお試ししたいとお願いした、ハーブティーです。


 そうそう、事件の顛末でございますけれど。


 エメリーヌ様は、陰謀に加担した罪で、王都から遠く離れた修道院へと送られました。短気な義妹君でしたから、修道生活が三日で音を上げるのではと心配しておりましたけれど、面会に訪ねていらした閣下のお話では、意外にも静かに祈りの日々をお過ごしとのこと。セシリア様を慕っていらしたお気持ちが、鎮まる時間が必要だったのかもしれません。


 エヴェリーヌ様については、フォンテーヌ伯爵家そのものが、灯縁菌の密造と、いくつかの古い事件への関与で、爵位を返上することになりました。ご本家の現家長はその事実をご存じなかったとのことで、ご本家の皆様は今も、田舎の領地で質素にお暮しだと聞きます。


 そうしてアウレリウス家とラ・ロシェーヌ辺境伯家の縁は、かえって強まりました。辺境伯家の国境防衛費は、王家からの直接援助で補われることになり、父からはほっとした筆跡のお手紙が届きました。


 私の薬草園、つまり銀糸菌共生の霜花草の群生は、先日、王立植物学会から「顧問のご依頼」を頂戴するまでに至りました。お返事は、研究を進めながら、少しずつ差し上げるつもりでございます。


 「閣下、新しい配合のお茶、いかがでしょう」


 籠からポットを取り出して、陶器のカップに薄紫の湯気を注ぎます。


 「よく眠れるだけでなく、よい夢を見る効能を、加えてみましたの」


 閣下は、土で汚れた革手袋を脱ぎ、受け取ったカップを両手で包まれました。カップの湯気が、灰狼色の瞳を、ほんのりと曇らせます。


 「俺の夢は、もう、現実に、追いついたが」


 閣下が、小さく、そうおっしゃいました。


 私は、思わず、視線を逸らしました。


 頬が、また、霜花草の萼の色に染まっていくのがわかります。


 「それは、それは、閣下、そのような、お上手を」


 「上手ではない。事実だ」


 「……」


 秋の風が、薬草園の葉を、さらり、と、揺らしました。


 膝の前では、銀糸菌を巻かれた新株の球根が、土の中で静かに休んでいます。来年、冬の終わりの頃には、薄紫の花を咲かせてくれるはず。


 あの月光の夜、背を向けた声が言い渡した言葉の通りに、断罪される予定だったはずの、私。


 どうやら、この方のお言葉には、途中で、丁寧な訂正が入ったようですわ。


 植物学にも、人の心にも、変異というものは、起きるものなのですね。


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愛することない宣言より先に事情を話しなさい。
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