番外編8:死神の休息、あるいは歴史の交差(ヴィクトール視点)
続きは本日中にー
私の人生は、生まれた瞬間から濁っていた。
ファヴァロ帝国。大陸最大の版図を誇るこの国の前皇帝は、愛欲に溺れた男だった。正式な妃のほかに五人の愛妾を持ち、私はその中で最も身分の低い女の息子として生を受けた。
王宮という名の伏魔殿において、ろくな後ろ盾もない幼子がどう扱われるか。語るに落ちる。私は異母兄たちの蔑みと、暗殺の影に怯えながら、自らの存在を消すようにして生きてきた。
そんな私を泥の中から引き上げたのは、八歳年上の兄、現皇帝セドリックだった。
「ヴィクトール。お前、その若さでそんなにやつれて……。死人のようなツラだが、目は死んでいないな。いいだろう、俺が鍛えてやる」
兄上は性的に乱れた父帝を廃し、血塗られた粛清を経て皇帝の座に就いた苛烈な人だ。だが、孤独だった私に「役割」を与えてくれた唯一の人でもある。
私は兄上の影となり、帝国の汚れ仕事を一手に引き受けてきた。人身売買、貴族の汚職、隣国との暗闘。気づけば鏡の中の自分は、実年齢より十歳以上も老け込んだ「死神」のような風貌に変わり、実際にそう呼ばれるようになった。
「……ヴィクトール、お前、働きすぎだ。隈がひどくて、公使たちが怯えているぞ」
二年前。兄上は執務室で呆れたように私を眺め、一枚の書状を投げ渡した。
「南のエーヴへ行け。あそこの温泉はミネラルが豊富だ。一ヶ月ほど療養してこい。……ああ、ついでに、あそこの療養地にはびこる人身売買組織も根こそぎ潰してこい。これは『休息』だ。いいな?」
「休息」という名の任務を受け、私はエーヴへ向かった。そこで私は、路地裏で捕らえられそうになっていた一人の少年、シリルを拾った。
自分と同じ、絶望の瞳をした少年。彼を放っておけなかったのは、かつての自分を重ねたからだろうか。
シリルを連れて、エーヴの静かな森を散歩していたある日のこと。
私は一本の樫の木の下で、蜂蜜色の髪をした奇妙な少女に出会った。
「こんにちは。……あなた、こんなところでどうしたの? 迷子かしら?」
セリーヌ・エヴァーツ。エンドワ王国の侯爵令嬢。
初めて彼女を見たとき、私はその瞳に驚愕した。
シリルというあまりに美しすぎる造形を前にして、多くの大人は卑俗な欲望を浮かべる。
だが、彼女の瞳にあるのは、純粋な好奇心と……そして、なぜか私へ向けられる、熱烈な、それでいて得体の知れない「観察欲」だった。
(何だ、この令嬢は。私の隈や、眉間のシワを、まるで名画の細部でも確認するかのように凝視している……)
困惑した。だが、彼女と話す時間は、不思議と私の心を軽くした。
彼女は、私の過去や身分など知らないはずなのに、私の顔に刻まれた苦労の跡を、肯定すべき歴史として扱ってくれた。
「ヴィクトール様。あなたのシワは、とても立派な勲章ですわ」
そう言って微笑む彼女の感性は、帝国のどの貴婦人よりも「やばい」ものだったが、同時に、どの聖職者よりも私の魂を救ったのだ。
五年間の交流を経て、彼女がエンドワへ帰る日。私は、自分の中にあった親愛という感情が、いつの間にかかけがえのないものになっていることに気づいた。
いつか、彼女が真実を見抜く大人になった時。
その隣に立つ自分は、恥じぬ歴史を刻めていなければならない。
◇◇◇◇◇◇
――そして、現在。帝国の王宮。
「ヴィクトール。エンドワ王国と正式に軍事協力を結ぶことになった。リチャード・エンドワの謀反を鎮めたのは、あのセリーヌ嬢だそうだ。ふはは! やはり面白い娘だな。お前が気に入るわけだ」
兄上――セドリック皇帝が、愉快そうに書類を放り出す。
「いい機会だ。親善大使としてエンドワへ行き、話をまとめてこい。調整ができたら、あのお嬢さんを連れてこい。帝国の温泉の効能を、改めて確認してもらわねばならんからな」
「……御意。喜んで務めさせていただきます」
私は、静かに頭を下げた。
胸の奥が、かつてないほど高鳴っているのを感じる。
二年。
帝国の激動を駆け抜け、兄上の治世を盤石にするために奔走したこの二年間。
私の眉間には、さらに新しい歴史が刻まれたことだろう。
彼女は、それに気づくだろうか。
……いや、彼女のことだ。一ミリの狂いもなくスケッチブックに描き写し、よだれを垂らしながら(心の内で、だが)絶賛してくれるに違いない。
「シリル、準備をしろ。エンドワへ向かう」
私の隣で、立派な青年に成長したシリルが、静かに頷いた。
「はい、ヴィクトール様。……セリーヌ様に、お会いできるのが楽しみですね」
エンドワ王国、エヴァーツ侯爵邸。
扉を開けた先に待っていた彼女は、私の想像以上に美しく……。
私の顔を見た瞬間、期待通りに歓喜の瞳を向けてくれた。
「……久しぶりだな、セリーヌ。我が友にして、最高の観察者殿」
彼女の手を取ったとき、私の指先に伝わる温もり。
さあ、外交を始めよう。
私が守ってきた帝国の重みと、彼女が愛するエンドワの歴史。
それらを、一つの未来へと繋げるために。
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