第20話:親愛をこめて
続きは夜にー
霧の立ち込める森の中に、鉄と火薬の匂いが混じり合う。
先ほどまで下卑た笑いを浮かべていたベルショー商会のならず者たちは、今や獲物を見る獣の目ではなく、絶対的な捕食者を前にしたネズミのような恐怖に支配されていた。
「ヴィ、ヴィクトール・フォン・ファヴァロ……! なぜだ、貴様は今頃、西の温泉街の暴動鎮圧に向かっているはずでは…!」
火傷の男が、震える声で叫ぶ。
ヴィクトール様は、泥にまみれた私とシリルの前に静かに立ち、一歩、また一歩と男たちへ歩を進める。その足取りに迷いはなく、漆黒の外套が秋の冷気を含んで重くはためく。
「暴動か。ああ、あのみすぼらしい目くらましのことなら、一時間前に片付けてきた。お前たちの主、マリアン・ベルショーに伝えておけ。『時間稼ぎに投じた駒の質が低すぎる』とな」
ヴィクトール様の声は、驚くほど平坦で、それゆえに酷く冷たかった。
彼の眉間に寄った深いシワは、もはやお茶会で見せる、疲れ切った大人の悲哀ではない。それは帝国の秩序を乱す不浄を、ひとかけらの慈悲もなく削ぎ落とそうとする断罪者のものだった。
「ひ、ひぃっ…! や、やってしまえ! 相手は一人だ!」
男たちの数人が、恐怖を振り払うように一斉にヴィクトール様へ襲いかかる。
だが、その刃が彼に届くことはなかった。
「――愚かな」
ヴィクトール様が剣を振る。その動作はあまりに速く、そして無駄がなかった。
銀光が一閃。
襲いかかった男たちの剣が紙細工のように容易く折れ、彼らは悲鳴を上げて地面に転がった。ヴィクトール様は、血の一滴すら自らの服につかせることなく、ただ冷徹に、倒れた者たちの絶望を瞳に映している。
「ドミニク、残りは任せる。生かして捕らえろ。この地の闇を全て吐き出させる必要がある」
「はっ! 仰せのままに!」
ドミニクを含め帝国の精鋭たちが、瞬く間に残りの賊を制圧していく。
私は、その光景を呆然と見守っていた。
地面の冷たさも、肺を焼くような咳の残り香も、今の私には遠い国の出来事のように感じられた。
ただ、目の前に立つ後ろ姿。
自分を捨て駒のように扱い、弱者を踏みにじる悪党たちを、圧倒的な力と意志で蹂躙するその背中。
(美しい…)
私の瞳からは、恐怖の涙ではなく、形容しがたい感動の涙が溢れていた。
12歳の私は、まだ知らなかった。
正義とは、ただ優しいだけのものではないことを。
誰かを守るためには、時に鬼となり、泥をすすり、他者の怨嗟すらその身に刻み込んで生きなければならないのだということを。
「セリーヌ嬢。立てるか?」
ヴィクトール様が私の方を向き、手を差し伸べた。
先ほどの冷酷な断罪者の顔が、嘘のように和らいでいる。けれど、その瞳の奥には、彼がこの地位に立つまでに払ってきた「犠牲」という名の深い影が、幾層にも重なって沈んでいた。
「…はい、ヴィクトール様。……ありがとうございます。シリル君も、無事ですわ」
私の横で、シリル君が震える手でヴィクトール様の指を握った。
ヴィクトール様は、シリルの汚れを払うようにその頭を撫で、それから私を、軽々と横抱きに抱き上げた。
「っ……ヴィ、ヴィクトール様!?」
「君は、走りすぎた。ドミニクが肝を冷やしていたぞ。別荘に戻り、医師の診察を受ける必要がある。今日はこのまま、私の腕の中にいろ」
「……あ、あの、私は侯爵令嬢ですので、その、面目というか…」
「今はただの『私の教え子』だ。黙って、眠っていなさい」
逆らえない。
彼の胸から伝わってくる、規則正しく、けれど重厚な鼓動。
私は、彼の肩越しに見える夕暮れの空を見つめながら、不意に、彼が抱えている孤独の大きさを察してしまった。
(ヴィクトール様は、ずっとこうして…一人で戦ってこられたのね。シリル君のような子供たちを救うために。帝国の未来のために。……自分自身の若さを、その全てを、責任に変えて)
私は自分の小さな手を、彼の胸元にそっと添えた。
「ヴィクトール様。……私、早く大人になりたいですわ」
「ほう。なぜかな?」
「大人になって、歴史を重ねて……。そうすれば、いつかあなたの隣で、その重荷を半分、スケッチブックに写し取って差し上げられるかもしれませんもの」
ヴィクトール様は一瞬だけ足を止め、それから喉の奥で低く笑った。
その笑い方。
眉間のシワが少しだけ解け、目尻に優しい「諦念」の線が走る。
「……全くだ。君という子は、どこまでも私を驚かせる。だが、急ぐことはない。君には、君だけの美しい歴史を刻む時間が必要だ」
◇◇◇◇◇◇
別荘に戻ると、バーバラが泣きながら私を抱きしめた。
ベルショー商会は、その日のうちに帝国軍によって徹底的に捜索され、各地の拠点は壊滅。元締めのマリアン・ベルショーも、ヴィクトール様が事前に配置していた伏兵によって、逃亡先で捕縛されたという。
夜。私はベッドの中で、ペンを走らせていた。
体は疲弊し、熱っぽかったけれど、この高揚感を記録せずにはいられなかった。
(ヴィクトール様のあの、賊を睨みつけた瞬間の表情。あれは、43歳、いえ、50歳を超えた統治者の風格でしたわ。……実際には、まだ38歳(セリーヌの勘違い継続)なはずなのに。ああ、なんて贅沢な歴史の先取りなのかしら)
ふと、部屋の扉がノックされた。
入ってきたのは、着替えて少しだけ「人間に戻った」ヴィクトール様だった。手には、温かいミルクのカップを持っている。
「まだ起きていたのか、観察者殿」
「ヴィクトール様。…はい。記録しなければならないことが多すぎて」
彼は私のベッドサイドの椅子に腰掛け、ミルクを差し出した。
「マリアン・ベルショーは投獄された。これで、シリルのような子供たちが路地裏で怯える夜は、少しだけ減るだろう。……君の機転のおかげだ、セリーヌ嬢」
「私は何も……。シリル君を守りたかっただけですわ。それと、汚い顔の男に、私たちが消費されるのが許せなくて」
「…君のその『美学』は、時にどんな法律よりも鋭い武器になるようだな。皇帝も、君のような面白い娘がエンドワにいると知れば、直接会いたいと仰るかもしれない」
ヴィクトール様は、私の額にかかった髪を、優しくかき上げた。
「セリーヌ。君が国へ帰る日は、そう遠くないだろう。病も癒え始め、君はこのエーヴには収まりきらない輝きを持ち始めている。だが、忘れないでほしい。君が今日見せたその気高さこそが、真の貴族の証だ」
「……ヴィクトール様。私は、あなたのような大人になりたい。落ち着いていて、静かで、けれど誰よりも熱い歴史を背負った、そんな大人に」
私が真っ直ぐに彼を見つめると、ヴィクトール様は少しだけ困ったように、けれど今日一番の、穏やかで美しいシワを刻んで微笑んだ。
「……よそう。私のような、影に潜む男を目標にするのは…。君には陽光の下で、誰よりも美しく、そして『変態的』に輝いていてほしい」
「まあ、ひどい! 変態だなんて!」
私がむくれると、ヴィクトール様は再び笑った。
この夜の。
薪の爆ぜる音と、彼の優しい笑い声。
そして、暗闇の中に刻まれた「統治者の休息」という時間。
それが12歳の私の魂に深く、深く、消えない刻印を残したのである。
日記を更新しましょう(12歳のセリーヌの日記より)。
『○月×日。決戦の夜。
ベルショー商会壊滅。
今日、私は「大人」というものの真髄を、ヴィクトール様の背中に見た。
誰かを守るために、自分の平穏を差し出す。その覚悟が刻むシワは、どんな宝石よりも価値がある。
ブラム様。……私は、あなたを愛しています(義務)。
けれど。……私の瞳が本当に求めているのは、あの方のような、底知れぬ深淵を抱えた「大人の影」なのかもしれません。
いつか、胸を張ってあの方の隣に立てるよう、私も立派な「シワ愛好家」として成長することを誓いますわ。
(追記:ヴィクトール様が抱き上げてくださった時の、胸元の感触。……これは一生の宝物ですわね。バーバラに自慢したら、鼻血を出されましたわ)』
セリーヌは満場一致で変態でしょう
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