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【作者の気が狂ったので休止中】あなたに用はありません!~どこかに素敵な老紳士は落ちていませんか?~  作者: 延々Redo


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第18話:遠い空の呼ぶ声と、小さな手の温もり

続きは夜くらいにー

 エーヴの地に、少しずつ湿った秋の気配が混じり始めた頃。

 私とシリル君、そしてヴィクトール様による奇妙なお茶会は、すっかり日常の風景になっていた。


「セリーヌ、今日はこれを。シリルの勉強を見てやってくれないか」


 別荘のサンルーム。降り注ぐ柔らかな陽光の中で、ヴィクトール様が古い革表紙の本をテーブルに置いた。

 最近、ヴィクトール様は時折、シリル君を私に預けて数時間ほど姿を消すことがある。どこへ行くのか、何をしているのかは語られないが、戻ってきた時の彼の眉間には、出発前よりもさらに数ミリ深く、鋭い公務の苦悩が刻まれている。


(ああ…今日も良い深み。まるでお父様が領地の税率に頭を悩ませている時のような、重厚な責任感を感じるシワですわ。お帰りなさいませ、至高の苦渋)


 私の脳内では勝手に歓迎式典が開催されているが、表向きは淑女の微笑みを崩さない。

 ヴィクトール様は、別荘から一歩も出ないことを私に厳命し、ドミニクとバーバラに「彼女たちを頼む」と短く告げて、影のように静かに去っていく。


「さあ、シリル君。今日は帝国の歴史を少しだけ進めましょうか」


 私は、隣に座るシリル君に視線を向けた。出会った当初は、ヴィクトール様の外套の裾を掴んで震えていた「路地裏の宝石」は、今では私に自分から筆を差し出すほどに懐いてくれている。


 シリル君は相変わらず無口だったけれど、その大きな瞳は雄弁だった。

 私が教科書を読み上げると、彼は真剣な眼差しで文字を追い、時折、私の顔をじっと見つめる。その仕草が、王都に残してきた妹のキャサリンを思い出させて、私の胸を不意にチクリと刺す。


(キャサリン…。あの子、今頃どうしているかしら。私がいなくて、お父様の生え際チェックを一人で頑張っているのかしら…。それとも、私がいない寂しさを、お菓子をたくさん食べることで紛らわせているのかしら)


 ふと、視界がにじむ。

 遠く離れたエンドワの空。厳しい冬の前の、凛とした冷たい空気。家族の笑い声。

 エーヴは温かく、美しく、そして目の前には至高のターゲットがいる。けれど、12歳の私の心は、まだこの帝国という異郷に根を下ろせずにいた。


「……ケホッ。…ゲホ、ゲホッ!」


 感情の揺れが、肺を刺激した。

 一度出始めると、私の咳は止まらない。胸を掻きむしりたくなるような、喉の奥を焼くような痛みが襲う。


「お嬢様!」

「お水を持ってきますわ!」


 離れた場所で控えていたドミニクとバーバラが駆け寄ろうとするが、それよりも速く。

 小さな、けれど確かな温もりが私の背中に触れた。


 ――トントン。


 一定のリズムで、優しく。

 シリル君が、小さな手のひらで私の背中をなでていた。


 驚いて顔を上げようとするが、咳が止まらず、私はただテーブルに突っ伏すことしかできない。シリル君は何も言わず、ただひたすらに、私の呼吸を整えるように背中を叩き続けてくれる。


(……ああ。なんて…なんて優しいの)


 シリル君の指先。

 まだシワなど一つもない、つやつやとした子供の手。

 けれど、その掌からは、路地裏で必死に生き延びてきた者が持つ、力強い命の温度が伝わってくる気がした。


「……はぁ、……ふぅ……。…ありがとう、シリル君。もう、大丈夫よ」


 ようやく咳が収まったとき、私の目からは、咳による涙とは別のものがあふれ出していた。


 一度あふれた感情は、もう止まらなかった。

 私は、シリル君を抱きしめるようにして、声を殺して泣いた。


「帰りたい……。お父様、お母様…。キャサリン…。ブラム様…。……私、どうしてこんなところにいるの? どうして、私だけが病気なの…?」


 自分でも驚くほど、子供染みた泣き言だった。

 私は強いつもりでいた。ブラム様への愛を糧にして、一人で病と戦う健気なヒロインである自分に酔っていたのかもしれない。

 けれどシリル君の小さな手の温もりが、私の張り詰めていた仮面を粉々に砕いてしまった。


「……よし、よし」


 かすれた、けれど鈴を転がすようなシリルの声。

 彼は、初めて私に声をかけてくれた。

 つたない言葉。けれどその響きには、ヴィクトール様から受け継いだような、深い慈愛が宿っていた。


 泣いて、泣いて、泣き疲れて。

 私はシリル君の肩に頭を預けたまま、いつの間にか深い眠りに落ちていた。




◇◇◇◇◇◇




 どのくらいの時間が経ったのだろう。

 目が覚めると、あたりは夕暮れの茜色に染まっていた。


 私は自分がベッドに横たわっていることに気づいた。

 いつの間に運ばれたのかしら、と思っていると、部屋の隅で椅子に腰掛け、静かに本を読んでいる人影が見えた。


「…ヴィクトール様?」


 私のかすれた声に、人影が動いた。

 本を閉じ、ゆっくりと立ち上がったのは、影をまとった死神……いいえ、今の私には、世界で一番頼もしい大人に見える男性だった。


「目が覚めたか。ドミニクから聞いたよ。かなり激しく咳き込んで、そのまま眠ってしまったそうだな」


 ヴィクトール様がベッドサイドに歩み寄る。

 窓からの逆光で、彼の顔は暗く沈んでいたけれど。

 彼が私の額にそっと触れたとき、その指の節々に寄った深いシワが、夕闇の中で黄金色に縁取られて見えた。


「……ごめんなさい、ヴィクトール様。私、シリル君の前で見苦しいところを…」


「見苦しいものか。君は、12歳の少女だ。故郷を離れ、病と戦い、どれほどの重荷を背負ってきたか。泣くのは当然だ」


 ヴィクトール様の声は、どこまでも低く、優しかった。


「シリルが心配していたよ。君が泣き止むまで、ずっと君の手を握っていた…。彼にとっても、君は特別な存在になっているようだ」


 私は、自分の右手を見つめた。

 そこにはまだ、シリル君が握りしめていた温もりが残っているような気がした。


「ヴィクトール様…。私、エンドワへ帰りたいなんて、思ってはいけないと思っていました。…ブラム様への愛があれば、どこでも幸せだと言い聞かせて…」


「愛……。君が口にするその言葉は、時折、とても重苦しい鎖のように聞こえる」


 ヴィクトール様が、眉間のシワを深くして、私をじっと見据えた。


「セリーヌ嬢。君は、誰かのために自分を律しすぎる。もっと、自分自身の『欲望』に忠実になっても良いのではないかな。……例えば、君が私の眉間を眺めているときに見せる、あの生き生きとした瞳のように」


「っ、な、なぜそれを…!!」


 私は、飛び起きそうになった。


「ふ、ふふ…。シリルが教えてくれたよ。セリーヌは、ヴィクトールのここ(眉間)を見るのが大好きみたいだ、とね」


 ヴィクトール様が、悪戯っぽく笑った。

 その笑顔! 30代(推定)の大人が見せる、少年のような無邪気さと、年輪を重ねた苦悩が混ざり合った、究極の表情筋の動き!


「…っ。それは、その! 医学的な、あるいは美術的な興味でして!」


「構わないよ。君がそれで笑ってくれるなら、私のこの疲れ切った顔も、少しは役に立つというものだ」


 ヴィクトール様は、大きな手で私の頭を優しく撫でた。

 その手のひらの質感。ザラリとしていて、けれど、どんな絹よりも心地よい温かさ。


 私は12歳にして、一つの答えに辿り着いた。

 ブラム様というツルツルした未来。

 ヴィクトール様という重厚な過去。


 どちらが正解かなんて、今の私には分からない。

 けれど。

 今、この瞬間、私の心を震わせているのは、あの日王都で誓った義務的な愛ではなく。

 目の前にいる「歴史を背負った大人」の、その深いシワの奥に隠された、底知れぬ慈悲なのだということを。


(大好き…。……いいえ、まだ『鑑賞対象として最高』だと言っておくことにしますわ)


 私は、ヴィクトール様の大きな手に顔を埋めるようにして、再び静かに目を閉じた。




 日記を更新しましょう(12歳のセリーヌの日記より)。


『○月×日。雨上がりの夕暮れ。

 今日、私は生まれて初めて、他人の前で「本当の私」を出して泣いてしまった。

 シリル君の小さな手が、私の背中をなでてくれたとき。

 ヴィクトール様の大きな手が、私の頭をなでてくれたとき。

 私の心の中にあった、ブラム様という名の重い石が、少しだけ軽くなった気がした。

 あの方のシワは、ただの老いではない。

 それは、弱き者を守り、不条理と戦い続けてきた勲章なのだ。

 ……いつか、私も。

 あの方のような、重厚で、優しい歴史を刻める大人になりたい。

(追伸:ヴィクトール様の「なでる際の手の節」、今日は暗くて写生できなかったけれど、脳内に完璧に保存しましたわ)』


まだまだ子供です


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