第17話:ティータイムの天使と死神
続きは明日の昼頃にー
森の木漏れ日の中、私は激しい動悸に襲われていた。
それは肺の病による苦しさではなく、私の幼い心に突き刺さった、新しい価値観のトゲによるものだ。
目の前のヴィクトール様は、自分の服を握って離さない少年の頭を、大きな手でゆっくりとなでている。その際の指の節の動き。そして彼が少年に向ける眼差しに宿る、深い、底の見えない自責と慈愛が混ざり合った苦悩。
「……不思議だな。シリルが初対面の相手に、これほど落ち着いているなんて」
ヴィクトール様が独り言のように呟いた。その暗い青の瞳には、純粋な驚きの色が浮かんでいる。
「この子は、その……。望まずして授かった容姿のせいで、他人から向けられる『好意』というものに人一倍敏感なんだ。多くの大人が向ける、執着や劣情を含んだ眼差しを、この子は無意識に察知して拒絶してしまう。…だが、君に向けられたその目は、どうやら違うらしい」
ヴィクトール様の言葉に、私はドキリとした。
劣情…!? そんな、私にあるはずがありませんわ!
今の私がシリル君に向けているのは、純粋なる造形美への敬意…。そう、あくまで美術的な関心に過ぎませんのよ!
(けれど、ヴィクトール様。あなたのその眉間に寄った、まるで罪の意識が彫り込まれたような深いシワ。それに対して私が抱いている、この心臓のバクバクとした高鳴りは……一体何だと仰るの!?)
私は自分自身の内側から溢れ出す、かつてブラム様に見せた恋心 (のフリ)とは全く質の異なる、どろりとした熱量に戸惑っていた。
「…セリーヌ嬢。君は、シリルを怖がらせないようだ。もし君の体調が許すなら、あちらのカフェで少しばかり話をしないだろうか? この子がこんなに興味を示している相手を、そのまま帰すのは惜しい気がしてね」
「まあ…! 喜んでお供いたしますわ!」
私は心の中で喝采を上げた。
ブラム様、聞いてください。私は今、孤児かもしれない少年と、その保護者の方を助けるために、社交という名の義務を果たそうとしておりますの。決して、ヴィクトール様の目尻のシワを近くで観察したいからではありませんわよ!
ドミニクとバーバラを引き連れ、私たちは森の出口にある、テラス席の美しいカフェへと向かった。
◇◇◇◇◇◇
エーヴの街並みを一望できるテラス。白に塗られたテーブルの上に、香りの良いハーブティーと、帝国の伝統的な焼き菓子が並べられる。
私は、自分の正面に座る「二人の芸術品」を、呼吸を整えながら見つめていた。
「シリル。ここなら安心だ。おいで」
ヴィクトール様が膝を叩くと、シリル君は迷うことなく彼の膝の上に潜り込んだ。
大きな、けれど細いヴィクトール様の腕が、シリル君の小さな体を抱きかかえる。シリル君は甘えるように彼の胸に顔を埋め、ヴィクトール様はそれを当然の儀式のように受け入れ、彼を優しく包み込む。
(っ、あああああ…!!)
私の内側で、何かが決壊した。
大きな、疲れ切った大人の手。
小さな、汚れを知らない少年の背。
ヴィクトール様がシリル君の肩を抱くたび、黒の外套に寄るシワ。そして、彼がシリル君の耳元で何かを囁くとき、彼の口元に浮かぶ「自分には幸せになる権利などない」とでも言いたげな、切ないまでの笑み…!
(いけませんわ、セリーヌ! よだれ、よだれが…! 淑女はどのような時も、このような至高の構図を前にしても、よだれを垂らしてはなりませんのよ!)
私は、必死にナプキンで口元を押さえた。
隣で控えているバーバラが私の異変に気づいたのか、「お嬢様、お顔が真っ赤です。お冷を…」と震える声で差し出してくれる。見れば、バーバラの目も少しだけ充血していた。彼女もまた、この究極の対比に当てられたのかもしれない。
「セリーヌ嬢、顔色が悪いようだが、やはり散歩が長すぎたかな?」
「いいえ! とんでもありません。あまりに紅茶が……、いえ、景色が美しくて感動しておりますの。……それで、ヴィクトール様。エンドワのことがお気になりますの?」
私は必死に話題を逸らした。このままだと、彼の目尻に刻まれた小じわの数を数え始めてしまいそうだったからだ。
「ああ。エンドワは、エーヴに比べればずっと北にあるだろう? 一度も訪れたことはないが、武門の家系が多い、誇り高い国だと聞いている」
「ええ。冬は雪に覆われますけれど、とても凛とした美しい国ですわ。私の父は、少しばかり暑苦しいところがありますが、騎士としての矜持を大切にする人です。…ただ、今は少し、故郷の風が恋しくなることもありますけれど」
私は嘘偽りのない本心を口にした。
本当だ。12歳の私は、まだ王都の賑やかさや、エヴァーツの屋敷の匂いを思い出しては、夜な夜な枕を濡らしていたのだから。
「故郷か。……いいものだね。私には、あまり馴染みのない言葉だが」
ヴィクトール様が、遠くを見つめるように瞳を細めた。
ああ…この方は、故郷という言葉にさえ、痛みを感じるような歴史を歩んできたというの。
30代後半(と私が思っているが実際は26歳)にして、これほどの重みを背負うなんて、帝国というのはなんて過酷な場所なのかしら。
ブラム様のツルツルとした未来に比べて、この方の顔には、既にどれほどの過去が埋葬されているのか…。
「セリーヌ嬢。君は、自分の婚約者の話をするときよりも、今、私の顔を眺めているときの方が、ずっと情熱的な瞳をしている気がするが……気のせいかな?」
「は、はは、はいぃぃ!?」
私は思わず、変な声を上げた。
まさか。まさか、気づかれたの!? 私の、この…まだ「何だか分からないけれど素敵!」という段階の、この熱視線を!?
「……冗談だ。済まない、少し意地悪が過ぎた」
ヴィクトール様が、困ったように眉を下げて微笑んだ。
その笑いシワ! 優しさと諦念が混ざり合った、その繊細な筋の重なり!
私は12歳にして、世界はツルツルしたものだけで出来ているのではないと確信した。むしろこの影。この深み。この枯れの予感こそが、私の求める究極の美なのではないかという、恐ろしい仮説が頭をもたげる。
(ブラム様…。ブラム様は、このヴィクトール様のように、30年後にこれほど素晴らしいシワを刻んでくださるのかしら…?)
ふと、脳内にブラム様のツルツルした顔が浮かぶ。
……ダメだ。想像がつかない。あの方は、どんなに年を取っても、ただの「ツルツルしたおじさん」にしかならない気がしてならない。
「エーヴはどうだい? 療養生活は退屈だろう?」
「ええ。毎日が同じことの繰り返しで、鏡を見るのも飽きてしまいますわ。…でも今日、あなたたちに出会えて、エーヴの景色が少しだけ色鮮やかになった気がします」
私は膝の上に座るシリル君を見つめて、微笑んだ。
シリル君は、ヴィクトール様の腕の中から、そっと顔を出して私をじっと見ている。
「シリル君。私と、友達になってくれないかしら? 毎日、一緒に散歩をしたり、本を読んだり……。そうすれば、ヴィクトール様のシワ……じゃなくて、ヴィクトール様のお話も聞けるでしょう?」
「…っ。シリル、どうだい?」
ヴィクトール様の問いかけに、シリル君は一瞬だけ彼を見上げ、それから小さく、本当に小さくコクリと頷いた。
「……シリルが、自分から頷くなんて。…セリーヌ嬢、君は本当に不思議な子だ。君と話していると、この地の湿った空気が、少しだけ軽くなるような気がするよ」
ヴィクトール様が、今度ははっきりと口角を上げて微笑んだ。
その時。彼の目尻に幾筋もの細かな線が走り、私の視覚を強烈に刺激する。
(決定。決定ですわ…!)
何が決定したのかは、12歳の私にはまだ分からない。
けれどブラム様という、ツルツルした正義だけが世界のすべてだった私の価値観に、今、重厚な歴史を持つ影という新しい神が降臨したのだ。
「嬉しいわ! シリル君、ヴィクトール様。これから、たまにこうして一緒にお茶をしてもよろしいでしょうか?」
「……ああ。私がこの地にいる間なら、喜んで」
ヴィクトール様は、そう言ってシリルの手を優しく握り直した。その際に見える、使い込まれた剣技の跡が残る指の節!
こうして、私の五年間にわたる帝国療養生活の中で。
後に「至高の写生対象」と呼ばれることになる二人との、奇妙で、美しく、そしてよだれが止まらない関係が始まったのである。
ブラム様、ごめんなさい。
私は今、人生で初めて、スケッチブックのページが足りなくなるのではないかという恐怖に震えておりますの。
日記を更新しましょう(12歳のセリーヌの日記より)。
『○月×日。快晴。
樫の森にて、天使と死神に遭遇。
天使(シリル君)は、この世のものとは思えないほど美しいが、私の心は、その背後にいる死神(ヴィクトール様)の眉間に吸い寄せられてしまった。
あの方のシワは、ブラム様の若々しさとは全く違う、「大人の深淵」を教えてくれるような気がする。
これが憧れなのか、それとも病の副作用なのか、今の私には分からない。
けれど、明日もまた、あの眉間の谷間を拝めると思えば、泥のような薬も美味しく飲めそうな気がするわ』
セリーヌが変態です
12歳にしてもう手遅れです
「面白かった!」
「続きが気になる、読みたい!」
「今後どうなるの!!」
と思ったら
↓
下にある☆☆☆☆☆から、作品への応援をお願いいたします!
面白かったら☆5つ、つまらなかったら☆1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!
ブックマークもいただけると本当にうれしいです!
なにとぞよろしくお願いいたします!




