第16話:路地裏の宝石と、陰気な救世主
続きは数時間後にー
7年前。私は12歳。
今よりもずっと線が細く、一度激しく咳き込めば肺がひっくり返るのではないかというほど、私の体はもろかった。療養のために送られた、ファヴァロ帝国の南端にあるエーヴという地は、一年を通じて温暖な風が吹き、いたる所からミネラルを豊富に含んだ温泉が湧き出る楽園だ。
けれど当時の私にとってその地は、愛する(と自分に言い聞かせていた)ブラム様から引き離された、寂しい流刑地でしかなかった。
「……はぁ。ブラム様は今頃、王都で他の令嬢に囲まれているのかしら。私はこんなところで、毎日温かい湯を浴び、泥のような苦い薬を飲み干すだけの日々だなんて。ああ、私の一途な恋心が、このままエーヴの空に溶けてしまいそうだわ」
エーヴに構えられたエヴァーツ家の別荘。
私は体調が良い日を見計らって、監視役のドミニクと、まだ新米侍女だったバーバラを連れて、別荘の裏手に広がる樫の森へと散歩に出た。
陽光が木々の隙間から降り注ぎ、空気には微かな硫黄の香りと、春の芽吹きを思わせる草花の匂いが混じっている。
「お嬢様、あまり奥まで行かないでください。万が一発作が出たら、私めがお嬢様をかついで全力疾走しなければなりません。それは騎士としての名誉に関わります」
「分かっているわ、ドミニク。あそこの大きな樫の木まで行ったら、少しだけ休みましょう。そこでブラム様への想いを馳せるつもりよ」
私は森の中心に聳え立つ、樹齢数百年はあろうかという巨木を指差した。
その根元に近づいたとき。
私は思わず、息を呑んで足を止めた。
木陰に、一人の少年が座っていた。
「……まあ」
そこにいたのは、言葉を失うほどに美しい少年だった。
私と同じか、少し下くらいだろうか。つややかな黒髪が、透き通るような白い肌に夜の闇を落としたように映えている。その顔立ちは帝国の宮廷画家が一生をかけて描き出す「理想の天使」よりもなお、エキゾチックで儚い造形をしていた。
(なんて、綺麗な子…!)
私はその圧倒的な造形美に打ちのめされた。
けれど、すぐに頭を振って、自分の中の不謹慎な感情を必死に抑え込む。
(いけないわ、セリーヌ! 私にはブラム様という、愛すべき、そして愛さねばならない運命の婚約者がいるのよ。こんな…街中の人々が足を止めるような輝かしい美少年に心奪われるなんて、婚約者の名折れだわ!)
そうだ。私はブラム様に一途な、悲劇のヒロインなのだ。
……けれど、と私の心の中の「鑑賞家」が、甘い毒を盛るようにささやく。
(でもセリーヌ、見るだけなら。そう、ただの『景色の鑑賞』だと思えば、それは浮気ではありませんわ。名画の前で足を止めるのと何が違うというの? 芸術を愛でる心は、ブラム様への忠誠とは別の部屋にしまっておけばよろしいのよ…!)
私は自分への言い訳をすませると、ドミニクたちをその場に待たせ、ゆっくりと少年に近づいた。
少年は膝を抱えて座り、虚空を見つめている。私の足音に気づくと、彼はビクリと肩を震わせ、濡れた子鹿のような瞳で私を見上げた。
「こんにちは。…あなた、こんなところでどうしたの? 迷子かしら?」
私は努めて優しく声をかけた。
だが、少年からの返答はなかった。彼はただ怯えるような、けれどどこか世界そのものに対して諦めたような、冷え切った瞳で私を見つめ返し、きゅっと唇を結んでいる。その震える肩には、この年頃の子が背負うにはあまりに重すぎる、寂寥の影が落ちていた。
「あら、恥ずかしがり屋なのね。私はセリーヌ。そこの別荘に療養に来ているの。あなたは、お名前を教えてくれるかしら?」
再び問いかけるが、やはり沈黙。
少年は、まるで言葉というものを信じていないか、あるいは誰かに奪われてしまったかのように、静かに首を振るだけだった。
(困ったわ…。捨て子かしら? それとも、療養地に蔓延るという人身売買の被害者…?)
不穏な考えが頭をよぎり、私が思わず手を差し伸べようとした、その時。
「――シリル。そこにいたのか。勝手に出歩いては困ると言ったはずだ」
森の奥から、低く、湿り気を帯びた重厚な声が響いた。
草を分ける音が近づき、一人の男性が姿を現した。
私はその姿を見た瞬間、先ほど美少年に向けた甘酸っぱい鑑賞心など、一瞬で木っ端微塵に砕け散るのを感じた。
「……っ!」
現れたのは、黒い髪をきっちりとオールバックにした、痩身の紳士。
質の良い黒の外套をまとっているが、その佇まいはどこか陰気で、日の光を嫌う吸血鬼か、あるいは死神のように冷ややかだ。
何より私の目を釘付けにしたのは、その顔の情報量だった。
こけた頬。
ひどい寝不足を物語るような、隈が浮き出た暗い青の瞳。
そして――私の魂が歓喜に震え出したのは、彼の眉間に深く執拗に刻まれた、まるで「世界の不条理をすべて一人で受け止めてきた」かのような、凄絶なまでの苦悩のシワだった。
(な……なんなの、この方は…!?)
パッと見れば病弱で、今にも崩れ落ちそうなほど弱そうに見える。
けれどその皮膚のたるみ、絶望を通り越して諦念に至ったような表情の奥には、計り知れない闇と歴史が脈打っているのが分かる。
(推定、30代後半…? いいえ、もしかしたら40歳に近いかしら? この老い具合、このいやらしさのない退廃的なオーラ。若さという名の暴力に抗い続け、磨り減った魂が肌の表面ににじみ出しているようだわ…!)
「私の連れが、ご迷惑をおかけしたようだ」
男性は、私の前で軽く挨拶をした。その所作の一つひとつに、無駄のない、研ぎ澄まされた大人の余裕…あるいは、自分自身の存在を削り取りながら生きている者の、特有の薄暗い色気が宿っている。
「……あ、いえ。その、あまりに綺麗な子でしたので、お声をかけてしまっただけでして。ご迷惑でしたら、申し訳ありません」
「シリルは……少し、言葉を話すのが苦手でね。怪しい者ではない。…私はヴィクトール。彼を保護している者だ」
ヴィクトールと名乗ったその男性は、座り込んでいた少年のかたわらに歩み寄った。
すると、あんなに私を怯えて見ていた美少年――シリルが、自分からヴィクトールの服の裾をぎゅっと掴み、その背後に隠れるようにして身を寄せたのだ。
冷徹な死神のような紳士と、汚れを知らぬ天使のような少年。
なんということでしょう! その対比! その構図!
ヴィクトールがシリルの頭を、細く、節くれだった指先で愛おしそうに撫でる。その際の、指の節々に寄る微細なシワ! 慈しみの中に隠された、深い自責の念のような眼差し!
(……よだれが。よだれが…こぼれ落ちそうですわ…!)
私は、自分の胸元のリボンを千切れんばかりに強く握りしめた。
12歳の私にとって、ブラム様という「ツルツルした未来の希望」は、義務のような正義だった。
けれど今、目の前に立つこのヴィクトールという男性が放つ、抗いようのない「過去の重力」は。
私の魂の根底にある、まだ自分でも気づいていなかったよく分からない感覚を、暴力的なまでの力で叩き起こそうとしている。
「あなたは…エンドワの貴族の方かな? 療養に来ている令嬢と見受けられるが」
「……ええ、そうですわ。セリーヌ・エヴァーツと申します」
私は必死に赤らむ顔と、荒くなる呼吸を抑えながら答えた。
ヴィクトール様は、私の様子を「熱でもあるのか?」と訝しむように見つめ、それから微かに、本当に微かに、口元のシワを震わせて微笑んだ。
「そうか。…エヴァーツ。エンドワの誇り高き一族だ。…この静かな森は、令嬢が過ごすのに…少し暗すぎるかもしれないな」
暗すぎる?
いいえ、ヴィクトール様。
私にとっては、その暗闇が、その静けさが最高の栄養素ですわ!
ブラム様、ごめんなさい。
あなたのことはもちろん愛しています。あなたのツルツルした頬を思い出し、私は毎日泣いていますわ。
けれど……けれど、今、私の目の前で「世界の終わり」のような表情を浮かべているこの紳士の、その目尻に刻まれた小じわの一つひとつを、私はスケッチブックに焼き付けずにはいられないのです…!
「…セリーヌ嬢。顔色が優れないようだが、私の顔に何か不快なものでもついていたかな?」
「いいえ! とんでもありません! むしろっ、いえ、何でもございませんわ!」
私は、12歳にして人生最大の危機に直面していた。
それは病の恐怖でも、婚約者への申し訳なさでもない。
目の前にいる、私の価値観を根底からくつがえしそうな存在を前にして、平然とした令嬢のフリを続けなければならないという、あまりにも過酷な試練だった。
こうして、私の五年間にわたる帝国療養生活は。
一人の美少年と、そしてその背後にたたずむ絶望をまとった紳士との出会いによって、純白の療養日誌が真っ黒に塗り潰されるような勢いで、あらぬ方向へと加速し始めたのである。
ちなみにヴィクトールはこの時点で26です
10歳以上老けて見えるだけです
「面白かった!」
「続きが気になる、読みたい!」
「今後どうなるの!!」
と思ったら
↓
下にある☆☆☆☆☆から、作品への応援をお願いいたします!
面白かったら☆5つ、つまらなかったら☆1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!
ブックマークもいただけると本当にうれしいです!
なにとぞよろしくお願いいたします!




