番外編6:亡命紳士の回想、あるいは至高と呼ばれる日々(ローデリヒ視点)
続きは数時間後にー
かつて、私の世界は鉄と血の色に染まっていた。
バリッシュ王国。その高地に位置する凍てついた国で、私は王族の末端に連なる者として、誇りと共に生きていた。現国王、カールハインツとは遠い親族にあたる。かつての彼は厳格ながらも、国を愛する賢君であったはずだった。
だが、老いとは恐ろしいものだ。
長すぎた治世は、彼の賢明さを肥大化した猜疑心へと変えた。彼は、自らの権威を脅かす可能性のある親族を次々と粛清し、あまつさえ、平和に時を刻んでいた隣国エンドワへの侵攻という、狂気じみた野心に取り憑かれた。
『ローデリヒ。お前はエンドワの内通者と連絡を取れ。断るというなら、お前の領民すべての命はないと思え』
王宮の謁見の間。冷え切った空気の中で放たれたその言葉を、私は今でも忘れない。
老害という言葉では足りない。かつて尊敬した主君が、私利私欲のために国を泥沼の戦争へ引き込もうとしている。その醜悪なゆがみを目の当たりにしたとき、私の中にあったバリッシュへの忠誠は、音を立てて崩れ去った。
私は証拠となる密書を盗み出し、闇夜に紛れて国を脱出した。
後ろめたさはなかった。ただ、この事実をエンドワに届けねばならないという使命感だけが、私の足を動かしていた。
だが、現実は過酷だった。
バリッシュの追手はどこまでも私を狙う。私は街道を捨て、獣道すら通らぬ険しい道を選ばざるを得なくなった。食料は尽き、傷口は膿み、意識は薄れゆく。
エンドワの国境を越えたとき、私の目の前に広がっていたのは、底の見えない広大な湿地帯だった。
(ここまでか…)
泥水に足を取られ、冷たい泥が体温を奪っていく。
背後には追手の声。目の前には、どこまでも続くガマの群生。
私は、自分が愛した国の「歪んだ歴史」を抱えたまま、名もなき泥の中で朽ちるのだと確信した。
意識が遠のく直前、私の視界を塞いだのは、高く澄んだエンドワの空ではなく、ぬらりとした泥の色だった。
……それが、あのような形で拾われることになるとは、夢にも思わなかったのだ。
◇◇◇◇◇◇
「…あ、あの。セリーヌ嬢……」
「あら。どうかなさいましたか、ローデリヒ様。…もう少し、右に顔を向けてくださる? その角度だと、窓からの光があなたの頬のコケ具合をより『ドラマチック』に演出しますの」
領主館のテラス。
私は、純白のシャツに仕立ての良いベストをまとい、背筋を伸ばして椅子に座っている。その数メートル先。この家の主であるセリーヌ嬢が、真剣な眼差しでスケッチブックに筆を走らせている。
その隣では侍女のバーバラ嬢が、これまた恐ろしいほどの集中力で私を見つめていた。
「お嬢様……。見てください。今のローデリヒ様が、微かにお茶の熱さに眉を寄せた瞬間のシワ…。バリッシュの雪山のような、厳しくも美しい稜線を感じますわ」
「ええ、本当に。…ドミニク、見て。この方のこの、隠しきれない『過去に傷を持つ男』のオーラ。湿地に落ちていたあの頃のボロボロさも捨てがたかったけれど、今の『洗練された敗北美』も捨てがたいわね」
背後で護衛のドミニク殿が、盛大な溜息をつくのが聞こえた。
「ローデリヒ殿、すまない。この家の女共は、本質的に何かが壊れているんだ。君の亡命の目的や、抱えている国家機密よりも、君の目尻のシワの深さに価値を見出すような連中なんだ」
「……いや、助けていただいた身だ。文句などあるはずがないのだが」
私は、差し出された最高級の紅茶を口に含んだ。
バリッシュの王宮で飲んでいたどの酒よりも、今の私にはこの温かい液体が染み渡る。
死を覚悟したあの日。
泥の中から私を引きずり上げ、あまつさえ「至高の拾得物」と呼び、慈しむように介抱してくれたのが、この風変わりな令嬢だった。
最初は彼女たちの熱烈な視線を、亡命者の素性を暴こうとする厳しい取り調べだと思っていた。だが目が合えば「素晴らしいわ!」「良い角度です!」と喝采を送られ、衰弱して苦悶するたびに「そのシワの影を記録させてください!」と懇願される。
どうやら、私の人生という名の歴史が刻まれたこの体は、彼女たちにとっては拝むべき芸術品らしい。
「ローデリヒ様。今日からあなたは、正式に私の従者ですわ」
数日前、セリーヌ嬢はそう言って微笑んだ。
それは打算的な政治の笑みでも、冷酷な勝者の笑みでもなかった。
ただ純粋に、私の存在そのものを肯定し、愛でようとする、恐ろしくも温かい笑みだった。
「バリッシュでの苦悩も、逃亡の恐怖も。すべてがあなたの顔を、これほどまでに美しく磨き上げたのです。…だから、あなたはただ、そこで堂々と生きていればよろしいの。私が、その歴史をすべて、正しく世界に伝えて差し上げますわ」
……その言葉に、私は救われたのだ。
リチャード・エンドワという男が、偽りの傷を作り、権力のために国を売った一方で。
私は、自分が背負ってきた本物の苦しみを、そのまま受け入れてくれる場所を見つけた。
「さあ、ローデリヒ様! おかわりの紅茶はいかが? ちょうど今、ドミニクにお願いして、あなたにぴったりの『重厚な歴史を感じさせる茶菓子』を焼かせたところですの!」
「お嬢様、俺に何を求めているんですか…。ローデリヒ殿、これはただの全粒粉のスコーンだ。表面がゴツゴツしているのが気に入ったらしい」
ドミニク殿が差し出した皿を見て、私は不意に笑いが込み上げてきた。
バリッシュの王宮では、誰もが私を「駒」か「障害物」として見ていた。
だが、ここでは。
私はローデリヒという名の「最高にシワが良い男」として、愛されている(独特な形ではあるが)。
「…ふふ。ありがたく頂戴しよう。セリーヌ嬢、バーバラ嬢」
私が微笑むと、二人は「100点ですわ!」「今日の収穫、最高です!」と、今日一番の歓声を上げた。
領地を囲む湿地帯は、かつて私を飲み込もうとした地獄の門だった。
だが今、そこを吹き抜けてくる風は、この平穏なテラスを優しくなでている。
カールハインツ・バリッシュ。
あなたが捨て、抹殺しようとした私の命は。
今、このエンドワの北の地で、かつてないほど平穏な日々を刻んでいる。
私は、手渡されたスケッチブックの隅にある、セリーヌ嬢が走り書きした私の似顔絵を眺めた。
そこには、私が鏡で見知っていた、疲れ切った亡命者の顔ではなく。
どこか誇らしげに、未来を見据える一人の男の姿があった。
「…セリーヌ嬢。一つ、頼みがあるのだが」
「あら、何かしら? 私にできることなら何でも言って頂戴」
「……たまには、その。シワの観察ではない話も、してはもらえないだろうか? 例えば、君がなぜここまで…独特な感性を持つに至ったか、とか」
「まあ! 私の歴史に興味を持ってくださるなんて! バーバラ、お聞きになって? 至高の被写体が、こちらを理解しようとしておいでよ!」
「お嬢様、それは大変な名誉ですわ! ローデリヒ様、ぜひ、朝まで語り合いましょう。私の夫ドミニクがいかに若造で、シワが足りないかという話も含めて!」
「……やめてくれ。俺のライフはもうゼロだ」
ドミニク殿の嘆きを聞きながら、私たちのティータイムは続いていく。
私は誓った。
この「やばい」けれど「愛おしい」家族を守るためなら、私はバリッシュの亡霊をも打ち払ってみせよう。
それが泥の中から私を救い出し、私の人生に新たな価値を与えてくれた彼女たちへの、最大の恩返しになるのだから。
空は高く、蜂蜜色の髪が陽光に輝いている。
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