第10話:亡命紳士の告白と、リチャードの影
続きは本日中にー
エヴァーツ侯爵領の領主館は、王都の本邸に比べれば質素ながらも、長い年月を経て磨き抜かれた石材と木材が、独特の落ち着きを醸し出している。
その一室。普段は来客用として使われる、日当たりの良い柔らかな部屋に、湿地帯で保護された彼は横たわっていた。
あれから二日。
領地の専属医師による懸命な処置と、私とバーバラによる(主に視覚的な)手厚い見守りのおかげで、彼はようやく死の淵から這い上がってきた。
「…お嬢様。あまりその、顔を近づけて凝視するのはお控えください。客人が起きた時、最初に目に入るのがお嬢様の獲物を狙うような目つきでは、悪夢の続きかと思われてしまいます」
着替えと湯浴みの手伝いを終えたドミニクが、疲れ果てた顔で私をたしなめる。
だがそんな声は右から左だ。私はベッドサイドの椅子に腰掛け、純白のシーツに沈む彼の顔を、うっとりと見つめていた。
「何を言うの、ドミニク。泥を落とし、清潔な衣類に身を包んだ今の彼は、まさに『磨き直されたアンティーク』よ。見てご覧なさい、この無精髭の生え具合と、体力の消耗ゆえに深く落ち込んだ眼窩を。若さという傲慢さを削ぎ落とされた、真の男の美しさがここにあるわ」
「はいはい、左様で。…バーバラ、お前もだ。いつまでタオルを握ったまま、そこから動かないつもりだ」
部屋の隅で、まるで置物のように静止しているバーバラが、低く情熱的な声で応える。
「…ドミニク、静かにしてください。今、この方は呼吸を一つするたびに、胸元に『苦難の歴史』という名のシワを刻んでおられるのです。その一瞬一瞬を、私は侍女として、いいえ、一人の人間として見届けねばならないのです」
「うちの家庭が崩壊しそうだ…」
ドミニクが頭を抱えたその時。
ベッドの上の男性が、微かに、けれどはっきりと呻き声を上げた。
「……う、ぐ…」
ゆっくりと、重い瞼が開かれる。
現れたのは、冬の湖を思わせる、冷たくも澄んだ灰色の瞳だった。
彼は焦点が定まらない様子で天井を見つめていたが、やがて隣にいる私の存在に気づくと、驚愕と警戒の色をその瞳に宿らせた。
「……ここは…。私は、捕まったのか…?」
かすれた、けれど芯のある低音。私は優雅に、けれど心の底から満足した微笑みを浮かべて答える。
「ご安心ください。ここはエンドワ王国、エヴァーツ侯爵家の領地ですわ。あなたは湿地帯で倒れていたところを、私たちが保護したのです」
「……エヴァーツ…? 王都から離れた、南の……?」
彼は驚いたように私を見つめ、それから自分の手を確認するように動かした。その際、シーツを掴んだ指の関節に浮き出る血管。ああ、素晴らしい。
「私は……ローデリヒ。バリッシュ王国の…しがない旅人だ。助けていただいたことに、心から感謝する」
「『しがない旅人』が、追っ手をまくためにあのような危険な湿地を抜けるものでしょうか? …ローデリヒ様。嘘は結構ですわ。あなたのその、隠しきれない立ち居振る舞い。あなたはバリッシュの貴族、それも相当な位の方でしょう?」
私が核心を突くと、ローデリヒ様は苦笑し、再び力なく目を閉じた。
「……隠し通せるとは思っていなかったが。…そうだ。私はローデリヒ・バリッシュ。バリッシュ王国の、元伯爵だ。…現国王、カールハインツ陛下より謀反の疑いをかけられ、国を追われた」
バリッシュ王国。エンドワの西に位置する内陸国だ。
近年、現国王の暴政によって国力が疲弊し、周辺国への軍事的な圧力を強めているという噂は、王都にいた際にも耳にしていた。
「亡命、というわけですわね。…ドミニク、キャサリンを呼んできて。大事なお話になりそうだわ」
数分後、部屋に集まった私たちを前に、ローデリヒ様は震える手で運ばれたスープを一口すすり、静かに語り始めた。
「バリッシュの状況は、もはや限界だ。陛下は……あの方は、邪悪という言葉では生ぬるい。自らの野心のために、隣国であるエンドワへの侵攻を目論んでいる。海のない我が国にとって、エンドワの港は喉から手が出るほど欲しい果実なのだ」
「侵攻……。ですが、エンドワは軍事力も低くありません。正面からぶつかって、無事で済むとは思えませんが」
キャサリンが冷静に問うと、ローデリヒ様は苦々しく首を振った。
「正面からではない。…エンドワの内部に、協力者がいる。バリッシュは、その男と手を結び、内側からエンドワを食い破るつもりだ。私はその証拠を掴んだために、消されそうになった」
部屋に緊張が走る。
協力者。王国の重要人物の中に、国を売ろうとする裏切り者がいるというのか。
「その男の名は分からない。だが、バリッシュの密書によれば…『王族の血を引きながら、継承権を持たぬ者』。『王国の盾ではなく、王宮を貫く剣とならんとする者』。そして、『金髪で、左の頬に古い訓練の傷跡がある若き英雄』と記されていた」
その言葉を聞いた瞬間。
私の脳裏に、王都で見かけた、あのキラキラと輝く、まだ老いていない美青年の姿が鮮明に浮かび上がった。
「リチャード・エンドワ……」
キャサリンが小さく呟く。
お父様が「食わせ者だ」と評した、あの近衛副団長。
一途な愛を語り、私との婚約を熱望していた、王族の異端児。
「…ああ、やっぱり」
私は、自分でも驚くほど冷めた声を出していた。
「お姉様? 知っていたのですか?」
「いいえ。でも、確信したわ。…リチャード様の目に宿っていた、あの不自然なギラつき。私、ずっと違和感があったのよ。あの方は確かに英雄と呼ばれ、まぶしいほどの輝きを放っていたけれど…。その輝きには、深みが全くなかった。まるで、安物の金メッキを施しただけの、歴史のない新造品のようだったわ」
私は、ベッドに横たわるローデリヒ様を見つめた。
「それに比べて、ローデリヒ様。あなたの目はどうでしょう。逃亡の果てにボロボロになり、すべてを失ってもなお、その瞳の奥には揺るぎない矜持と、積み重ねてきた重厚な時間が宿っている。…リチャード様には、それが欠片もなかった」
「セリーヌ嬢……」
「あの方は、自分を磨き上げられた完璧な剣だと思っているのでしょうね。でも、私から見れば、あの方は『歴史を刻む資格のない、薄っぺらな輝き』でしかなかった。理想の老紳士候補……いえ、理想の『男性』として、最初から不合格だったのよ」
私は確信していた。
リチャード様が私を求めたのは、愛などではない。エヴァーツ侯爵家という最強の後ろ盾を手に入れ、王権を乗っ取るための踏み台にするためだ。
彼の目に宿っていたのは情熱ではなく、ただのどろりとした野心。
「お姉様、そんな性癖ベースの判断で納得されても困りますけれど…。でも、リチャード様が内通者だとするなら、お姉様を狙った理由も合致してしまいますわね。お姉様を手に入れれば、侯爵家の軍事力が手に入るのですから」
「ええ。…でも、残念でしたわね、リチャード様。私はツルツルの野心家よりも、泥まみれの亡命紳士の方が、よほど拝む価値があると思っているのですから」
私はローデリヒ様の手にそっと自分の手を重ねた。
「ローデリヒ様。あなたはもう、私たちの家族ですわ。…いいえ、まだ正式ではありませんけれど、まずは私の『従者』という名目で、この館に身を置いていただきます。あなたが持つ情報を整理し、王都へ、そして陛下へと届ける手伝いをさせてください」
「……私のような敗残兵を、それほどまでに厚遇してくださると…?」
「敗残兵などではありません。あなたは、私が湿地帯で見つけた、世界にたった一つの『至宝』ですもの。…それに、あなたが元気になられたら、お聞きしたいことが山ほどあるのです。そのシワ一つひとつに刻まれた、バリッシュの物語をね」
ローデリヒ様は、私のあまりにも真っ直ぐな(そして少し変態的な)眼差しに圧倒されたのか、やがてふっと、憑き物が落ちたように微笑んだ。
その笑いシワの美しさといったら! 私は思わず、バーバラと顔を見合わせて音のない喝采を送った。
「……わかった。この命、あなたに預けよう。エヴァーツの賢き令嬢よ」
「ええ。…まずは、その無精髭を整えましょうか。あ、剃り落としてはいけませんわよ、ドミニク! 少しだけ長さを揃えるのです。その『やつれ具合』を残しつつ、清潔感を出す。これこそが今の彼の美しさを最大化する秘訣ですわ!」
「…もう、俺は何も言わない。好きにしてくれ」
ドミニクは天を仰いだ。
リチャード・エンドワ。
あなたが王都で一途な恋心を演じている間に、私はここで、あなたの陰謀を打ち砕くための最高の手札を手に入れましたわ。
国を売るような薄っぺらな男に、私の日記の一頁を汚させるわけにはいかない。
あなたのその磨き抜かれた顔が、絶望に歪む瞬間を楽しみにしていますのよ。
日記を更新しましょう。
『本日の進捗:ローデリヒ様(48)、正式に私付きの従者(暫定)に決定。
彼の語るバリッシュの闇は深く、それゆえに彼のシワもまた深みを増している。
リチャード様については、理想の候補から永久追放。
さあ、これから始まるのは、国を賭けた至高の歴史を守るための聖戦ですわ。
(追記:ローデリヒ様の髭の整え方について、バーバラと三時間の会議を行った)』
適度に整えられた髭、めっちゃ好きですね
嫁が枯れ専なドミニクには強く生きてほしい
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