番外編4:侯爵家の日常〜生え際の肯定〜(ベンジャミン視点)
続きは本日中にー
鏡というものは、時として残酷な真実を突きつけてくる魔道具だ。
「……気のせい、だよな。うん、気のせいだ」
私は自室の姿見の前で、必死に自分の前髪をかき上げていた。
エヴァーツ侯爵家当主、ベンジャミン・エヴァーツ。世間からは有力な侯爵として、また美貌の妻と二人の娘に恵まれた幸福な男として見られている自負はある。だが最近の私は、国家や領地の仕事よりも、切実な問題に直面していた。
生え際だ。
かつてはうっとおしいほどに生い茂っていた茶髪が、心なしか……いや、明らかに後退の兆しを見せている。おでこの面積が、昨年に比べて指一本分ほど広くなった気がしてならない。
「やはり、最近の激務が良くなかったのか。それとも栄養が偏っているのか? 海藻か。海藻をたくさん食べれば、この領土(生え際)の防衛線は守られるのか……?」
私は鏡の中の自分と向き合い、深刻な顔で指先マッサージを始めた。頭皮を柔らかくすれば血行が良くなって、眠れる毛根たちが再び芽吹くかもしれない。
「よし、今日から食事メニューの改善を指示しよう。それから、特製の育毛トニックの調合を医師に…」
その時だった。
「――お父様! いけませんわ!!」
「うおっ!?」
背後から突然響いた大音声に、私は思わず飛び上がった。
振り返ると、そこには蜂蜜色の髪をなびかせ、瞳を異様なほどに輝かせた長女、セリーヌが立っていた。
彼女は「シュバッ」という擬音が聞こえてきそうな勢いで私の目前まで詰め寄ると、私の額を……正確には生え際を、食い入るように見つめた。
「せ、セリーヌか。驚かせるな。着替えの最中だぞ」
「そんなことはどうでもよろしいのです! 今、お父様は何をしようとなさっていましたか? マッサージ? 海藻? いいえ、断じて認めませんわ!」
「ええ……。いや、最近少しおでこが広くなってきた気がしてな。身だしなみを整えるのは貴族の嗜みだろう?」
私が気恥ずかしさに顔を赤らめると、セリーヌは私の両肩をガシッと掴み、真剣な面持ちで首を横に振った。
「お父様、わかっておられませんわね。その生え際の後退、それこそが、お父様が歩んできた『責任』と『年月』の証。まさに至高のグラデーションではありませんか!」
「し、至高のグラデーション……?」
「そうです! 重力に逆らうことをやめ、自然の摂理に従って領土を譲り渡していくその潔さ。それこそが、成熟した男性にしか出せない『枯れ』の美学なのです! そこに無理やり毛を植えたり、不自然に隠したりするのは、名画に泥を塗るのと同じ行為です!」
娘の言葉は、あまりにも熱を帯びていた。
彼女は私の額を拝むような手つきで、うっとりとため息をつく。
「良い…とても良いですわ。どうぞ、そのままで。自然に任せて、より広大な『知性の広場』を構築してくださいませ。私はその移ろいゆく景色を、日々、日記に刻ませていただきますから!」
そう言い残すと、セリーヌは満足げに一度深く頷き、再び「シュバッ」という風を切るような速度で部屋から立ち去っていった。
後に残されたのは、茫然自失とした私と、静まり返った室内だけである。
「……えぇ…。うちの娘、やばくないか?」
私は震える手で自分の額を触った。
父のハゲをこれほどまでにポジティブに――いや、もはや「ハゲてほしい」と言わんばかりの熱量で全肯定してくる娘。五年間の療養生活で、彼女は一体何を摂取して、どんな教育を受けてきたというのだ。
「そんなに私の生え際は、観察対象として優秀なのだろうか…」
自己肯定感は爆上がりしたが、同時に父としての威厳がどこかへ霧散していくのを感じていると、部屋の扉が再び開いた。
「あら、あなた。まだ鏡の前で悩んでいらしたの?」
入ってきたのは、愛妻のリネットだった。
彼女は私が手に持っていた育毛トニックの試作案を取り上げると、くすりと微笑んだ。
「さっき、セリーヌとすれ違いましたわ。お父様の額が『芸術の域』に達しつつあると、鼻歌を歌いながらスキップしていましたけれど」
「……リネット。聞いてくれ、セリーヌが怖いんだ。私の髪が抜けるのを、あんなに楽しみに待っているなんて」
情けなく肩を落とす私に、リネットは私の隣に立ち、鏡越しに私の顔を覗き込んだ。そして、少しだけ細くなった私の生え際に、優しく指先を這わせる。
「……私も、そのままで良いと思いますけれどね」
「えっ? リネット、君まで?」
「あなたがどんな姿になっても、私が見てきたベンジャミン様であることに変わりはありません。むしろ、家族のために苦労を重ねてきた証だと思えば、私は今のあなたの方が、若い頃よりずっと素敵だと思いますけれど」
リネットの、いつものクールな表情の中に宿る、ほんのりとした熱。
その言葉はセリーヌの変態的な肯定とは違い、私の心に深く、優しく染み渡った。
「リネット…! ああ、リネット! 君はどうしてそんなに出来た妻なんだ!」
私はリネットの細い腰を引き寄せ、力いっぱい抱きしめた。
「うわー! 大好きだ! リネット、愛してるよ!」
「ちょ、ちょっと! 急に何をするのですか、暑苦しい!!」
リネットは私の胸をポカポカと叩いて抗議するが、その耳たぶは赤く染まり、口元には隠しきれない笑みが浮かんでいる。
「離してくださいな、子供たちが見たらどうするのです。…もう、本当にあなたは、昔から直情的なのですから」
「いいじゃないか。我が家は今日も平和だ。娘は少…し……いや、かなり変わっているが、リネットが私を認めてくれるなら、ハゲても何でも構わん!」
「ハゲると決まったわけではありませんわよ。…ふふ、でも、セリーヌが毎日あなたの顔を楽しそうに見に来るなら、それはそれで親子のコミュニケーションとして悪くないのではありませんか?」
「それはそうだが…。毎朝、生え際をミリ単位でチェックされる父の身にもなってくれ」
私たちは、笑い合いながら部屋を後にした。
◇◇◇◇◇◇
その日の夜、セリーヌの日記にはこう記された。
『本日の大収穫:お父様の生え際、順調に至高の領域へ向かって後退中。
それを慈しむお母様の眼差しも、これまた年季の入った熟成された愛の形であり、大変見応えがあった。
我が家はシワと後退の美学に満ちた、世界一の聖域である。
……明日のお父様の朝食には、血行を良くしすぎない(生え際を守りすぎない)メニューを提案してみようかしら』
何も知らないベンジャミンは翌朝、娘から「お父様にぴったりの健康メニューですわ!」と差し出されたサラダを、涙を流して喜んで食べるのであった。
過去には両親にもいろいろありました、そのうち書きたいですね
今は平和です
セリーヌが帝国から帰ってきて間もない頃の話
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