第2話 第一人格、“オリジナル” 物部素子 その1
「ふっへへ~、これでお兄ちゃんといもこは恋人同士ぃっ」
ぎゅーっと全身で抱き付いたまま妹子は身体を揺する。決して小さくはない胸がむぎゅむぎゅっと押し付けられる。
「なんだなんだ、そんなに嬉しいのか?」
「うんっ、お兄ちゃんに恋人同士じゃないって言われた時は、いもこ、どうしようかと思っちゃった。よかったぁ、付き合えて」
「はっはっはっ、可愛いやつめ」
「あ、でもでも、そうなるとお兄ちゃんに一つやってもらわないといけないことがあるんだったっ! ――ちょっと待っててね、お兄ちゃん」
妹子は俺からぱっと離れると、学習机に向かった。
“お兄ちゃん、ちょっとペンと紙借りるねっ”と一言断ると、そのまま机に向かって何事かやり始める。――う~む、ちょっと寂しい。
「えっへへぇっ、出来たぁっ!」
五分ほどして、妹子はそのままの姿勢で待機していた俺に再び抱き付いた。
「お兄ちゃんにはいもこと付き合うにあたって、一つやってもらいたいことがあるのねっ」
「さっきもそんなことを言っていたね。やってもらいたいことっていったい何だい、ハニー?」
「ハ、ハニーって、うえへへへっ」
可愛い妹分にして今は最愛の恋人は、ちょっと笑い方が汚かった。
「もうっ、話の腰を折っちゃダメなんだよ、お兄ちゃんっ。それでねっ、お兄ちゃんにはお姉ちゃん達からいもこと付き合う許可をもらって来て欲しいのっ。――はい、これっ!」
突き出された紙は、先刻まで妹子が一生懸命に作成していたものだ。
そこには“わたしたちはいもことお兄ちゃんのお付き合いをしょーにんします”の一文とともに、三×三で九つの四角い空欄。いや、正確には空欄は八つで、右下の一つはすでに丸で囲った“妹”の文字で埋められていた。
察するに、八人のお姉ちゃん達からお付き合いの許可を得て、サインかハンコをもらってきて欲しいと言うお願いのようだ。
「えっと、それって必要かな? 別に黙って付き合っちゃえば良くない?」
「ううん、ぜったいぜったい必要だよ。だってお兄ちゃん、付き合うってことはいもこに、…………エッチなこともするんでしょ?」
「それは、まあ、…………うん、いつかはするかも」
抱き付いたまま上目遣いに囁かれれば、否などと言えるはずもない。
いつも通りの過度なスキンシップはすでに意味合いを変えてしまっている。“いつかは”と言うか、正直今も見る人が見ればアウトの範疇に入っているような。
「だったらぜったいぜったい必要じゃないっ。だっていもこの身体は――」
「――私のものでもあるのだから」
すっと声のトーンが低く冷たくなった。
無遠慮に押し付けられていたむにむにの胸や太ももは、他人行儀で硬質なものに変化する。
頭の両サイドの高い位置で結わえられていた髪――いわゆるツインテールだ――がするりと解け、頭頂部で一房だけピンと跳ねていた髪――いわゆるアホ毛だ――もペタンと垂れて他の髪と合流する。それだけでなく姿勢が変わり、背筋が伸び、果ては関節でも組み変わるのか、袖余りだった白無地のブラウスが袖丈ぴったりのジャストサイズに。
「……はぁ、やってくれたわね」
「えーと、素子か?」
「そう、私。……また面倒くさいことしてくれたわね、あなた」
ジロリと、今や唯一無二の幼馴染が睨み上げてくる。
そこで互いの近さに気付いたようで、素子は心底嫌そうに俺に絡みついていた手足を外すと、ベッドに座り直した。
きっちり拳一個分距離を置いた定位置。他の“彼女達”よりは幾分か距離があり、そこらの友人達よりはそれでもずっと近い。そんないつもの距離感に収まると、改めて素子は刺々しい視線を向けてくる。
「な、なんだよ、妹と交際なんて許さないってか? お前ってけっこうシスコンだよな」
「……はぁっ。まあ、私は別に構わないのだけれどね。怒るわよぅ、他の子達。“スケバン”とか“アスリート”とか。あなた、下手したら殺されるんじゃないかしらね?」
「な、なんだよ、脅かして。わ、わわっ、別れろってのか?」
名前の挙がった二人の姿、そしてその人間離れした性能が否応なく想起され、俺はぶるっと背筋を震わせながらも可能な限り強気に言い返した。――どもりまくりだが。
「速攻振るなんて真似してあの子を泣かせたら、私が殺すわよ、そんなくず」
「お、おっかねえなぁ」
中高生が口にする“殺す”程に安い脅し文句も無い、――普通ならば。
だがこの幼馴染ならやる。それも何一つ証拠など残らない完璧な形でやり遂げるだろう。何せ幼稚園の頃、“この物部素子、不得手はあろうと不可能はない”などと謎の宣言を決めると、その次の日には恥ずかしがっていたはずのお遊戯会でブロードウェイのミュージカル女優顔負けの歌とダンスと演技を披露して保護者達を感動の渦に巻き込んだ女である。一度やると決めたなら誰よりも完璧にやりこなすのが物部素子という人間だ。
なにしろ、日本人で二人目、国内では最初の“超人”認定を受けた天才を超えた奇才、偉人を超えた奇人である。
「……はぁ、仕方がないわね。私がみんなに話を通しておいてあげるから、理解を得られるまでしっかりと話し合いなさい」
言うと、素子はぼふっとベッドに身を倒した。
“すぐに”ではなく“すでに”寝息を立てている。某国民的アニメの主人公も真っ青の早業だが、からくりがある。
「えっと、これは、…………眠里か」
覆いかぶさるように顔を寄せ、切り替わった“人格”を言い当てる。
さらりとしたストレートヘアには突如としてクルクルの寝癖が生じていた。加えて体育座りでもするように丸く小さく縮こまった寝相は間違いない。
――そう、俺の幼馴染、物部素子は多重人格者である。
瞬時に眠りに落ちたかに見える早業も、正しくはすでに睡眠中の人格に切り替わったに過ぎない。
先刻以来の俺のハニー、妹尾妹子もまた素子が生んだ人格の一つであり、“みんな”の妹分である。
持って生まれた第一人格の物部素子に、最終人格の妹尾妹子。ベッドの上で寝息を立てている第七人格の眠里。他六名。――計九つの個性豊かな人格達が我が幼馴染の身体には宿っていた。
「要するに八人の、いや、素子は私は構わないって言ってたから他の七人から許可を得ないといけないわけか。…………うわっ、しんどっ」
突如始まった俺と妹子の恋路は前途多難なようだった。