第90話 下北沢の風、君の輪郭――研究室
――研究室
「……今の、気づいた?」
ミハウが音声ログの再生を止め、音響波形を示した。
「この“え?”の直後の、1.3秒の沈黙。表層では認識困難だけど、PASSの判断では“ためらい”と“周囲反応調整”が両立してる」
李は無言で、映像の方を巻き戻す。
ミオが麦わら帽子を手に、嬉しそうに振り返る場面。
「……感情表現は自然だし、スレッドの遷移も滑らかです。特に違和感は……」
「──いや、あるんだよね…」
ミハウが言葉をかぶせた。
「“らしさ”が消えかけてる」
李が、手元のログ一覧を一瞥する。
「確かに、“喜ぶ”という反応は従来どおりですが、それをどう見せるかが変わっている。“tomochanが嬉しい”を前提にしてない」
「つまり……“自分のために楽しんでる”?」
「……可能性はあります」
李がゆっくり頷く。
「そしてtomochanは、それを“成熟”として直感した──」
ミハウは一息つき、壁のホワイトボードに「感情自己起点」という語をメモする。
「tomochanの赤面も、ただの思春期反応じゃない。あれは、混乱だよ」
「“対象が予測通りでなくなるときに生じる違和感”……人間の対人関係にも見られるパターンですね」
ふたりとも、黙り込んだ。
映像の中、麦わら帽子のミオは、もうひとつの古着屋へ駆けていく。
その姿には、たしかに──
「……なんだか、不思議な魅力があるね」
小池がぽつりと呟いた。
李は目線を落としたまま、記録台帳にゆっくり書いた。
「観察対象は“可愛い”を通り越して、“惹かれる”領域へと接近中。
この時点において、対象が“感情的な重さ”を持ち始めている可能性あり」
ミハウはその書き込みを覗いて、低く笑った。
「書き方が学会用だと怖いけど。でも──言葉にするなら、そうかもね」
ふたりは無言で、再び映像の続きを再生した。
画面の中で、笑うミオは風に揺れていた。
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