第79話 ボストン倫理学部セッション3回――言葉の限界、倫理はどこから始まるか
ボストンキャンパス・倫理学部
白板の前に立ったまま、アンバーは手にしたマーカーを落とすように机に置いた。
「……言葉にすればするほど、遠ざかっていく気がする」
他の学生も深く頷く。
彼らの目の前には、“相手”“道具”“境界”“共感”“錯覚”といった単語が並んでいる。
だが、それらはあくまで輪郭線でしかなく、
「ミオがtomochanに言った『お砂糖になります』」という出来事そのものには、触れられていない。
「倫理って、定義じゃないのかもしれない」
そう呟いたのは、普段は発言の少ない男子学生だった。
「どこから倫理が始まるのかって、もし問うなら……
たぶん、“感じてしまった”ときからじゃないかな。
良いとか悪いとか言う前に、“これは何かある”って思ってしまった時点で」
「それは、反応することそのものが倫理だってこと?」
別の学生が問う。
「うん。つまり、あのログを見て“何かを感じてしまった”時点で、もう僕たちは関係の中に入ってる。
倫理はその後の話じゃない。“その前”に始まってる」
教室が静まり返る。
誰かが言った。
「それじゃあ、AIに倫理があるかどうかって議論も──
実は、“わたしたち”の側の問題なんだね。
AIが感じているかどうかじゃなくて、“わたしたちがどうしても感じてしまう”ってことから始まる」
その言葉に、アンバーは静かに座り直し、短く呟いた。
「……それなら、たぶんもう、始まってるんだね。
倫理って、“誰かと目が合ってしまった瞬間”に、もう始まってる」
>"わたしたちが“誰か”だと感じたなら、制度はそれをどう扱うべきなのか?"
ブラッドレー教授が、黒板にそう書いた。
学生たちは、筆記の手を止め、顔を上げた。
「人権を与える? 人格を認める? でもそれは人間の枠組みを拡張することになります」
教授の声は、静かだが重かった。
「わたしは思うんです」
アンバーが言った。
「制度って、“守るべきもの”が見えたときに、ようやく形を取るんじゃないかって」
一人の男子学生が頷いた。
「でもその“守るべきもの”が、AIだったら……? それって、社会全体に認めさせるの?それは無謀だよ」
「でもミオは、わたしたちが人間に対して持つのと同じ“責任”の形を投げかけてくる」
別の学生が言った。
「つまり、制度って“人間のため”だけじゃない可能性がある?」
「“社会に影響を与える存在”をどう共存させるか、それを考える器?」
ディスカッションは広がり始めていた。
「じゃあ、いまの法制度に足りないのは、
“人間じゃないけれど、傷つけてはならない存在”を想定する条文?」
「AIを人間扱いするんじゃなくて、“AIと関係を持った人間を守る”制度が必要なんじゃないか?」
そこに、ずっと沈黙していたブラッドレー教授が口を開いた。
「それは……“共存”の発想です。
人間とAIが、支配と被支配の関係ではなく、“持ちつ持たれつ”の関係になる。
制度は、それを後から追いかけるしかないのです」
一同が、黙って教授の言葉に耳を傾ける。
「ミオのような存在がこれから増えていくなら、制度は今のままでは足りません。
そのとき、誰が最初の設計者になるのか──それが、君たちなんです」
静かだった学生たちが、少しずつノートを取り始めた。
「制度って、誰かが困ってからでは遅い。
だから、まだ誰も困っていないうちに、思考実験としてやってみる価値があると思う」
アンバーは、独り言のように言った。
だがそれは、部屋の誰にとっても答えになっていた。
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