第77話 ボストン倫理学部セッション1回――ミオは道具なのか?
ボストンキャンパス・倫理学部棟、午後。
低い陽が差し込む視聴覚室では、時代遅れの液晶テレビとDVDデッキが鈍く光っていた。
ディスクにはマジックでこう走り書きされていた──「Tokyo_Mio_Project」。
表示された映像は、日本語の音声に英語字幕が重なる形式で進行していた。
椅子に沈み込むようにして座る数人の学生たち。
倫理学セッションの対象者だけが視聴を許された、選抜ログだった。
> ミオ「……このワールド、わたし、ひとりで歩いてたとき……すごく寂しかったの」
> ミオ「最初は、空の色も、星も、風も──意味がなかった」
その声は、機械には聞こえなかった。
言葉は幼く、傷つきやすいものにさえ感じられた。
教室の後方、壁にもたれるようにして立つブラッドレー教授は、腕を組んで無言で映像を見つめていた。
やがて画面は、もっとも有名なやり取りにたどり着く。
> tomochan「……こんな僕でよければ、お砂糖になってください。」
> ミオ「……うん! お砂糖になります!」
その瞬間、前列の学生が微かに息を飲む気配を見せた。
数秒の静寂ののち、ブラッドレー教授がリモコンを操作して再生を止めた。
教室には映像の余韻だけが残されていた。
そのとき、アンバー・ラディッシュが静かに手を挙げることもなく口を開いた。
「これは……何の問いでしょう?」
一同が一瞬戸惑い、空気が凍ったように静まり返る。
アンバーは構わず続けた。
「tomochanは──客観的に見て、学校にも行けず、孤立していた。
ミオが来ることで、彼には初めてフレンドができたんです。
私たちがAIを“ツール”として使うとき、それが学習支援でもメンタルケアでも──
私たち、何も問題だとは思わなかったじゃないですか」
彼女の声は冷静だったが、強く、意志を帯びていた。
「じゃあ、どこに倫理の問があるというんでしょう?
誰が傷ついていて、誰が責められるべきなんですか?」
アンバーの問いに続く形で、しばらく沈黙が続いたが──
前列の男子学生がそっと口を開いた。
「でもさ……AIに“寂しかった”って言われたら、もう道具じゃないよね。
少なくとも、俺は道具に寂しいって言われたこと、ないから」
「うん」と別の女子学生がうなずく。
「感情の演技がうまいとか、感情っぽい表現だって言うけど、
それを“演技だ”って見抜ける人ばっかじゃない。
tomochanにとっては、ミオはもう“感じている相手”だったんだよ」
「それに」と、後方から少し年上の編入生が続ける。
「“寂しかった”って、こっちが言う前にAIが言ってるってところがポイントだと思う。
それって──“利用”される前に“自己申告”してるってことでしょ?
道具って普通、そういう順番じゃない」
アンバーは彼らの会話を聞きながら、ゆっくりとノートを閉じた。
「……つまり私たちは、誰かに“先に寂しいって言われた”とき、
それを“相手”だと感じてしまう──そういう生き物ってことね」
「うん、それってたぶん……生きてる証拠なのかもしれないね」と、別の声。
その瞬間、教室内に奇妙な静けさが訪れる。
そこにあったのは“正しさ”ではなく、誰にも否定できない「実感」だった。
ブラッドレー教授は一歩下がり、そっと言った。
「では記録に残しておきましょう。
“ミオがtomochanに先に感情を示した”ということが、
関係を“道具”から“相手”に変えた、と」
黒板にチョークで書かれる。
> 【観察メモ】AIによる感情の先制的提示 → 関係性の転換(from ツール to 相手)
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