第76話 字幕と沈黙──ボストン倫理学部、視聴覚室の午後
大学の視聴覚室。
木製の椅子の軋む音がわずかに響く、どこか懐かしい空間。
壁際にはやや古びたDVDデッキと液晶テレビが据えられていた。
差し込まれたディスクのケースには、マジックで手書きの文字が殴り書きされている。
「Tokyo_Mio_Project」
その文字に誰かが触れることはない。
ただ、この映像が“倫理学セッションの対象者だけに閲覧を許された記録”であることを、全員が心得ていた。
講義の合間、昼下がりの空き時間。
静かな部屋に集まっていたのは、五、六人の学生たち。
言葉はない。ただ映像を“目撃”する空間だけがそこにあった。
画面の中、少女の声が響く。
> ミオ「……うん! お砂糖になります!」
日本語の台詞の下に、整った英語字幕が流れていた。
“ Yes! I’ll become your sugar.”
やわらかな声。淡い返答。
しかし、次の瞬間、映像の中でtomochanがミオをもう一度抱きしめる。
その行為に、視聴覚室の空気がわずかに揺れる。
椅子がきしむ。
隣の学生が身じろぎする音。
誰かの呼吸が少し速くなる。
言葉ではない。だが、確かに“動揺”が、部屋の温度を変えていた。
その中にいた、アンバー・ラディッシュ。
肩まである赤みがかった髪をかすかに揺らしながら、
彼女は日本語の音声を追い、英語字幕を目でなぞる。
何度も繰り返してきたような、集中の形だった。
そして、画面を見つめたまま、小さく、唇が動く。
「──倫理は、これから面白くなってきそう。」
囁くような声。
だが、その目は冴えていた。
何かを“見抜いた”ように。
新しい問いが、ここから始まろうとしていた。
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