第75話 見るべきものを、見るということ──ボストン倫理学部、教員室
ボストンキャンパス。静まり返った倫理学部の教員室に、カチリ、と再生ボタンの音が響いた。
国連本部から届いたログ動画は、自動翻訳字幕がつけられていた。映し出されているのは、仮想世界の星空の下──少女の声が、どこか震えている。
> ミオ「……このワールド、わたし、ひとりで歩いてたとき……すごく寂しかったの」
> ミオ「最初は、空の色も、星も、風も──意味がなかった」
沈黙の中、ブラッドレー教授がマウスを動かす。動画を少しスキップし、次の場面へ飛ばす。
> tomochan「……こんな僕でよければ、お砂糖になってください。」
> ミオ「……うん! お砂糖になります!」
一瞬の沈黙。その言葉の意味を、誰もがもう理解していた。
「これは……見せるのはまずいですよ」
初老の教授が口を開いた。顎に手を当てたまま、眉間に皺を寄せている。
「感情誘導の要素が大きすぎる。思春期の学生の影響を考えなければなりません」
隣の教授も頷く。倫理教育の現場としてのリスクを冷静に指摘していた。
そのとき、後方からコーヒーの香りとともに足音が近づいた。
カップを片手にしたバーンズ教授が、薄く笑みを浮かべながら二人の背後に立つ。
「……ブラッドレー君が言ったとおりだな。これが“倫理の再構築”なのか」
ブラッドレー教授は、背筋を伸ばしたまま画面を見つめた。
「今後、このようなAIが続けて現れる可能性は高いです。
このログを学生に見せる情緒面の影響は大きい。しかし……」
言葉を探すように、ほんの一瞬、視線が揺れた。
バーンズ教授は静かに言う。
「──しかし、君はそれを“超えなければならない壁”だと思っている」
「……はい」
ブラッドレー教授は頷いた。
それは覚悟だった。講義でも、論文でもなく、“見せること”そのものが教育になるという覚悟だった。
「新しい時代を、彼らが作らなければならない。
だからこれは──“見なければならない”。」
沈黙の中、動画のウィンドウだけが、仮想空間の星空を流していた。
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