第70話 リンダ・ジョー・ベイカー ―― 遠くなったひと、オハイオの午後
オハイオ州スターク郡。
礼拝を終えた教会の前で、信徒たちは穏やかな午後の日差しの中、談笑していた。
リンダ・ジョー・ベイカー、民主党所属の州議会議員、60歳。
この保守的な土地で、彼女は例外的な存在だった。
対立よりも対話を重んじ、教会や農場の集会で長く信頼を集めてきた。
老婦人が声をかけてきた。
「リンダさん……あの子、最近は難しい顔をすることが増えてるわね。笑顔が似合う人なのに」
“あの子”とは――今や合衆国大統領となったデニス・R・ハーディングのことだった。
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### 自宅にて
住宅地から少し離れた、牧草地の縁に建つ白い平屋の家。
裏手にはトウモロコシ畑が広がり、表通りには大型ピックアップトラックと古い郵便受け。
家の前には、アメリカ国旗と州旗が一本ずつはためいている。
しかしそれは選挙のためではなく、習慣としての敬意だ。
リンダは、昼食のあとの紅茶を片手に、老婦人の言葉を思い返していた。
かつて、スターク郡の教会で一緒に歌っていた“デニス”。
母親の手を引いて礼拝に来ていたあの12歳年下の少年が、いまやホワイトハウスにいる。
彼が出した最新の声明が、フェイスブックに投稿されていた。
> Dennis R. Harding
> 「連邦補助金は国の未来への投資だ。
> だが一部の大学が、それを“イデオロギー教育”の温床にしている。
> 私は、誠実な教育にこそ資金を配分すべきだと考えている。」
スタンフォード、ハーバード、スタンバード──
いずれも補助金対象から除外された。
リンダはゆっくりとスマートフォンを持ち替え、返信欄に打ち込んだ。
> Linda Jo Baker
> 「アメリカが誇るべきなのは、誰もが学べる国であるという事実です。
> 補助金は投資であると同時に、社会の信頼でもあります。
> 私たちは、それを失ってはいけません。」
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## ホワイトハウス 執務室
「大統領、リンダ・ジョー・ベイカー州議会議員が、あなたの投稿に返信しています」
スタッフの報告に、ハーディングは手を止めた。
「それで?」
「民主党の州議員ですが、大統領の地元スターク郡出身。地元では党派を超えて影響力があります。
それに彼女は……あなたのことを昔から知っている方です。手懐けておかないと厄介なことになります。」
デニスはわずかに目を細めた。
彼の手がゆっくりと、キーボードを叩き始めた。
> @Dennis R. Harding
> 「リンダ、君の声はいつも静かで、芯がある。
> だが私は、大学が国民から乖離した価値観を広める場になっている現状を看過できない。
> 私の責任は、“国民の信頼”を取り戻すことだ。」
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> @Linda Jo Baker
> 「信頼は、“切り捨てることで取り戻す”ものではないと思っています。
> 教育は、耳を傾けることの積み重ねの上にしか成立しません。」
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> @Dennis R. Harding
> 「君の言う通りだ。だがいま、政治が耳を傾けすぎた結果、
> 大学は国民の声を忘れた。私は、そのバランスを正すために行動している。」
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> @Linda Jo Baker
> 「その“正しさ”が、誰かを遠ざけてしまわないことを、私は祈っています。」
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ハーディングは一瞬、手を止め、画面の向こうにいるかつての“リンダ姉さん”を思い出す。
真っ直ぐな目。つねに、言葉を濁さない人だった。
> @Dennis R. Harding
> 「私は、あなたの言葉を忘れたりはしない。
> たとえ立場が変わっても。」
オハイオの土を知るふたりが、いまや政党を分かち、国の舵を巡って言葉を交わしていた。
それでも、その言葉の中には、かつて同じベンチで祈った記憶が、静かに宿っている。
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