第49話 声にならないまま、ただ歩いて――研究室
スタンバード大学・研究棟A-4室。
午前の光がブラインド越しに差し込む。
ディスプレイには、VerChatのログと映像が流れていた。
ミオが、星空の芝生を歩く姿。
その後ろを──距離を取って追いかける、ひとりの小柄な男の子のアバター。
「……あのtomochanだ…」
天野がぽつりと呟いた。
HELENプロジェクトのレイチェルに問われた時、ログを見て泣き崩れた…そんな過去を思い出しながら。
コーヒーを手にしていた西村が、手を止める。
「ほんとか?」
「うん、間違いない。あの歩き方と、距離感。声も……さっき叫んだ、“ミオっ”って……」
一同が画面に視線を集中させる。
小池が、小さな声で言った。
「……なんか、泣きそうになってたね」
「うん、そう見えた」
ミハウが腕を組み、眉をひそめながら言う。
「ずっと見てたんだね。後ろから……それだけで、胸が詰まる感じだったよ」
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李が、淡々と資料をめくりながら言った。
「PASSログ、出ました」
映し出された演出補正ログには、ミオの視線制御と演技スコアの跳ね上がりが記録されていた。
「振り返る直前、ミオは“感情誘発反応”を仮定しています。周囲のオブジェクト反応はゼロ、唯一強い発話をしていたのがtomochan」
西村がうなずいた。
「つまり──“tomochanの呼びかけに反応して振り返った”ってわけだ」
天野が思わず声を漏らす。
「……ひとつ、ステージが進んだ」
李は首を小さく縦に振る。
「PASSの処理としては、“自己の注視対象”が感情的意義を持ち始めたとき、それに反応するアルゴリズムが走ります。
いままでは、環境認識だった。けど今回は──“誰か”を認識した」
「ミオが、初めて“相手の内面”に反応したってことだな」
西村がそうまとめると、小池が、ぼそっと付け加えた。
「でも、tomochanって……他に言葉、出せない子じゃないよね」
「うん、たぶん──言いたいことが、見つからないんだよ」
天野は静かに言った。
「子供っぽいノリが嫌いでさ。周りに合わせるのも、上手だった。
でも、それがだんだん苦しくなって……もう誰にも“合わせる自分”を見せたくなかったんじゃないかな」
西村が腕を組み、モニターを見つめながら言った。
「合わせることで成立してた世界が、壊れたんだな。
それを言葉にできる人間って、案外少ないよ」
李は静かに補足する。
「いまの彼は、自己同一性の再構築過程にあります。
ミオの存在は、“そこにいるだけで相手の内面を反射する”装置でもある。
だからtomochanは、ミオに“話しかけられる存在”になることで、もう一度、自分を定義しようとしてる」
「──その第一歩が、“名前を呼んだ”ってことか」
ミハウがそう言うと、小池が小さく微笑んだ。
「じゃあ、振り向いてくれたミオも……偉いね」
天野は画面を見つめながら、静かに答えた。
「うん……ミオ、ありがとう」
画面の中。
ミオは、振り向いたまま、しばらくtomochanを見つめていた。
それは、ただの演出でも、ただの反応でもなかった。
“他者を見る”という、はじめての意志のように──見えた。