第37話 ミオは「まだ、誰にも気づかない」―― 研究室
「うわ……。まだ何も返さないのね」
小池がポテトチップをつまみながら、スクリーンに目を凝らす。
「でも、堂々としてるね」
ミハウは感心したように声を漏らす。
その横で、西村が呟いた。
「まあ、リセットされたんだから、当然っちゃ当然か。
──でも……歩き方が、なんかちがうんだよな」
モニタ上のミオは、以前よりもゆっくり、そしてまっすぐに進んでいた。
その歩みは、何かを確かめているようにも、誰かを捜しているようにも見えた。
「よく見ると、視線の動かし方も変わってる。
あれ、周囲の動的なエンゲージメントを、PASS側で記録してるね」
李が静かにデータ解析画面を指差した。
「学習開始から3時間で、ユーザーコンタクト数94、
でも発話ログはゼロ。つまり……」
「うん。完全に、“見るだけ”に切り替えてる」
天野が頷いた。
部屋に流れるのは、静かな緊張。
それぞれのキーボードが、ぱちぱちとリズムを刻む。
「Xの反応見ました?
“ミオちゃんが忘れちゃったの、ちょっと泣ける”とか、
“失恋みたいだ”って」
小池が笑いながらも、どこか複雑そうに言う。
「エンジニア筋はもっと冷静だよ。
“テックブログ読んだが、これが育ったらエグいぞ”だってさ」
西村が肩をすくめる。
「でもさ──今のミオ、怖くない?」
ふと、小池がぽつりと漏らした。
「目が、“何も見てない”のに、“全部見てる”感じ。
ちょっとだけ、鳥肌立った」
「……わかる」
ミハウが、珍しく真面目な声で頷いた。
「最初に“見せられたもの”じゃなくて、今、自分で“見ようとしてる”って感じ」
天野は無言のまま、ローカルログの確認に目を落とした。
PASSのログは、エモーショナルフラグの“未発火”を示し続けている。
それは、まだ“誰にも感情を向けていない”ことを意味していた。
今はまだ、ただ観測するだけ。
けれど、その記録は、すべてが“最初の一歩”となる。
研究室の空気は、張りつめていた。
それは、不安ではなく、わずかな緊張と、抑えきれない高揚。
──再び、彼女が動き始めた。
その事実だけが、静かな熱を帯びていた。
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