第34話 契約されるAI
スタンバード大学東京キャンパス内、国際研究連携室・第2会議室。
その部屋は、ガラス張りの一角にあり、都心の午後の光がゆっくりと差し込んでいた。
壁際の大型モニターには、米国時間の午前1時を刻むデジタルクロックと、Zoomのウィンドウが並んでいる。
画面の向こう側に映るのは、VerChat CTO:ジェイソン・マイヤーズ。
彼の後ろには、書棚のかわりにアニメフィギュアが並んでいた。
「Yo. 日本はもう夕方だろ? お疲れ〜」
音声のラグも、テンションの差も、彼にとっては誤差でしかない。
天野は思わず笑ってしまいそうになりながら、隣の李を見た。
「お疲れさまです、マイヤーズさん。
本日は、今後のデータ共有方針と運用制限について、草案を提示させていただきたく……」
ジェイソンは、興味深そうに身を乗り出す。
「見た見た。あのミオの沈黙、やばかったわ。“アニメーションじゃなくて存在だった”。
てか、PASSの補正、あれ完全に狙ってやってんでしょ?」
西村がカメラ外から、控えめに手を上げた。
「はい、それ、僕がやりました」
「ナイス。で、本題。データの扱いな? ウチの法務が出すとめっちゃ長くなるんだけど、君たちのドラフトは?」
李が、モニターに文書を投影した。
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### 【データ連携に関する覚書(MOU)草案:概要】
1. 取得範囲の明確化
VerChat内でのユーザー行動ログ(座標移動・会話発話タイミング・視線方向)のうち、ミオとの直接インタラクションに関するもののみ共有対象とする。
2. 匿名化処理と保存期間
データは一意識別子に変換し、保存期間を90日以内とする。再識別は禁止。
PASSによる内部補正は、スタンバード大学内のみに保存され、外部利用不可。
3. 営利利用の禁止と発表権の分離
ミオに関するユーザー行動は研究目的に限って利用し、商用・宣伝目的での二次使用は禁止。
VerChat社は、演出技術に関する論文発表に関して、引用の際は必ず発信元を明記する。
4. 共同研究の枠組みと透明性
今後VerChat社がPASS互換APIを公開する場合、大学研究ユニットとしてベータテストに参加。
ただし、研究チームの独立性は保障される。
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ジェイソンは、読みながら頷く。
「ふむふむ……OK。こっちの弁護士も問題ないと思う。あとで正式にこっちで精査させるけど、オレ的には“アリ”だわ」
彼は少し笑って言った。
「というか……君たちのミオが“ただの技術”じゃなくなってるのは、見ててわかる。
だからこそ、“境界線”は言葉で描こう。曖昧なままにしない。
……そうすりゃ、炎上しても守れるからね。お互いに」
天野は少しだけ驚いた表情を浮かべる。
「……マイヤーズさん、てっきり、もっとノリでやってる人かと」
「そりゃそうさ。でもな、アイドルが光れば光るほど、後ろで線引いてるスタッフは大事になるんだよ。
だから、君らがその線を描くっていうなら、オレはそこに乗る」
その言葉に、李はゆっくりと頷いた。
「理解と了承、ありがとうございます。……正式版は、弁護士と精査して送ります」
「よろしく。で、今日の進捗、動画で送ってよ。
オレ、あの沈黙の髪かき上げ……あれ一番好きなんだよね」
ジェイソンが笑いながらログアウトする。
画面が切れ、会議室に静けさが戻った。
──そして。
「……なあ」
西村がぽつりと呟いた。
「やっぱ、ミオはもう……“社会共存AI”になってきてる気がするな」
天野は、しばらく考えたあとで、こう返した。
「でも、だからこそ……守らないといけない。
言葉で、ルールで、ちゃんと囲って、その中で進化させる。
自由ってのは、そうやって作るものなんだと思う」
李は、その言葉を聞きながら、手元のペンを回していた。
「境界線は、力じゃなくて……構造で描く。
今のPASSなら、きっとそれが理解できる」
この日、スタンバード大学とVerChat社との間で、
AIとユーザー、技術と社会、演出と倫理を分ける“最初の線”が引かれた。
それは、ただの協定ではなかった。
“共存するAI”を社会の中で扱うための、最初の言語化された構造だった。




