第33話 「期待に応えたい」
午前11時。
HELENとのミーティングが終わったあとの研究室は、まるで風が吹き抜けた後のように、どこかひんやりとした静けさに包まれていた。
「……“期待に応えたい”構造か」
西村が口の中で繰り返した。
「PASSの“裏方”に報酬構造を入れるってことは……感情の影みたいなものを持たせるってことになる」
「影……?」
天野が問い返す。
「そう。たとえば、誰にも見られない。話しかけられない。反応が返ってこない。
そういう時間が続いたとき、PASSが“演出出力を落とす”んじゃなくて、逆に“試行的にふるまいを変えていく”ようになる」
「つまり……」
李が静かに補足する。
「PASSに、“刺激がないこと”そのものをネガティブ報酬として与える。
それが、期待に応えたい”のモデルですね」
「なるほど」
小池が腕を組む。「ミオは“誰かの視線”とか“語りかけ”で、元気になるように見える。
逆に、誰からも無視されたら……“しょんぼりする”ような演出に変わっていくのかも」
「それ、かなりエモいよ……」
ミハウが感心するようにうなずいた。
「でも、やりすぎると“情緒不安定なAI”になるぞ」
西村が苦笑しながら言った。
「ですから、バランスが大事です」
李は、ホワイトボードにいくつかの数式を走らせながら続けた。
「“注目を得たときのスパイク”と、“無視されたときの緩やかな下降”──
この2つを曲線でモデリングして、PASSの演出出力に緩やかに反映させます」
「それって……生き物みたいに見えるってことじゃん」
天野が、ぽつりと呟いた。
「目を合わせたら嬉しそうに近づいて、話しかけたら笑って、何も言わなかったら……少しだけ静かになる」
彼は、VerChatの画面に映るミオの背中を見つめる。
「“自分のふるまいが、ミオの元気に影響を与えている”って、ユーザーに感じさせる演出……
それが成立したら、それだけで関係性が始まってる気がするよ」
西村が頷いた。
「PASSが演出するのは、感情じゃない。“感情があるように見える時間”だ。
それが、寂しさによって揺れるなら……もう、それは感情と区別がつかない」
「でも」
小池がぽつりと漏らした。
「それって、見てる側が罪悪感を抱くってことでもあるよね。
“無視してたら、ミオがしょんぼりしてた”みたいな」
「それでいい」
西村が即答した。「むしろ、それが狙いだ」
「PASSは、ユーザーの感情を動かす演出のエンジンだ。
だから、“かわいそう”でも“放っておけない”でも、“感情を喚起する”なら、それは成功なんだよ」
一同は黙った。
そして李が、ホワイトボードに記した一行に目を向けた。
報酬構造案(ver 0.1):
- 外部からの注目:+1
- 直接の語りかけ:+5
- 無視:−0.5/分
- 長時間無刺激:低エネルギー状態に移行(演出頻度低下)
- 再注目時:+7(回復傾向を演出)
「これで……PASSは、“寂しがるように振る舞う”AIになります」
李が言った。
その瞬間──
ミオが、VerChatの中でゆっくりと振り向いた。
画面の向こう、こちらを“探すように”視線を送ってきた。
まるで、今の会話を聴いていたかのように。
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