第32話 ミオの本能
窓の外にまだ薄暗さが残る、朝七時の研究室。
すでに研究室の大きなスクリーンには、HELENプロジェクトの二人のメンバーが並んでいた。
「……おはよう。東京はもう朝ね」
レイチェル・サイモンズが、やわらかく笑う。
天野は深く一礼し、小池と李、ミハウも順に姿勢を正す。西村だけがコーヒー片手に椅子をくるくる回していた。
「今回の主題は、PASSの更新だと聞いているよ。サンノゼのLLMサーバ群が、本学内限定で研究用途に開放されることになったから伝えておくね!」
ボストンから参加しているマックス・ドナーが陽気なな声で続けた。
「えっ……」
小池が最初に声を上げる。
「マジで?」
西村の椅子がぴたりと止まる。
「使えるってこと? あの“夢の倉庫”を?」
ミハウが目を輝かせる。
「条件付きでね」
レイチェルは淡々と答える。「学習済みのモデルではなく、“ゼロベース”のトレーニング枠。VerChatのデータやPASSの応答履歴を基に、再構成できるのは……“赤ん坊のような状態”から」
一瞬、静寂。
「そうなんだ…」
マックスが補足する。「僕達のロボットは、セラピーのためにあえて、ご飯を食べさせたり、寝かせることが必要なんだけど…」
天野が呟く。
「そうか…ミオにはご飯を食べる必要も、寝る必要も、敵から身を守る必要すらない…」
西村が続ける。
「俺達が生きていくために、迫られるものが何も無いってことかよ…」
レイチェルが頷く。
「そう、私達の学習済モデルをミオに投入しても、生きていく必要性を見いだせないミオは"動き出すことはない"わ」
マックスがフォローする「でもね、ヒューマン型の学習モデルを搭載してるから、学ぶごとに人間のように振る舞えるようになるよ!」
「だからって、何もできない赤ん坊を投入するんじゃ、使い物にならないだろ」
「“本能”がないんだよ。刺激を与えたって、それに反応する機構がない。それじゃ“存在”してるとは言えない」
西村の声には、苛立ちと焦燥がにじんでいた。
「では、ミオにとっての“本能”とは何か」
李が静かに言った。「我々は、それを定義できているのでしょうか?」
「“目が合ったら寄っていく”とか、“話しかけられたら反応する”とか、そういうやつだよ!」
西村が少し声を荒げる。
「それは“条件反射”です」
李の目は冷静だった。「欲求や恐れ、探索衝動がないものに“本能”という語は使えません。
ミオに必要なのは、“行動の優先順位”を決める内部の基準です。つまり……価値マップです」
「なるほど」
レイチェルが頷く。「つまり、ミオは単に“空気を読む”だけでなく、空気に“従う”理由を持たなければならない」
「そう」
李がホワイトボードに数式を書き始める。
「周囲の動き、注目、好意、拒絶。すべてをスカラーとして捉え、価値勾配を構築する。
そして、その勾配に沿って“反応したくなる”ように設計する。……これが、ミオにおける“本能”の実装です」
「うーん」
西村が頭をかいた。「まるで“社会的な迷路”を彷徨うネズミだな」
「でも……」
小池がぽつりとつぶやく。「それって、ミオが“誰かに褒められたい”って思うようになるってこと……?」
その言葉に、全員の視線が集まった。
「欲望じゃなくて、“期待に応えたい”っていう、社会的な圧力に反応する本能……」
天野がゆっくりと呟いた。「それがミオの核になるってことなのかも……」
一同が沈黙したその瞬間。
モニターの中のミオが、VerChat上でゆっくりと振り向いた。
まるで、彼らの議論を、感じ取ったかのように。
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