第30話 倫理の輪郭
昼12時。
ミオプロジェクト研究室。
会議室の空気はまだ冷たく、緊張だけが熱を帯びていた。
テーブルの中央に立ったエリス教授は、開口一番に言い放った。
「私がOKするまで、再開は認めない。──そのつもりでいてくれ」
誰も反論しなかった。
席に着いた西村が、最初に口を開いた。
「ミオの“接触ログ”、俺は全部見た。
数値的にも反応は過剰で、共感トリガーの連鎖が構造的に組み上がってる」
少し間を置いて、言葉を続ける。
「──でも、それは“成功”だろ。
人間の感情モデルをここまで誘導できるシステムなんて、他にあるか?」
誰も返さない。
「倫理の話になるのは分かる。
でも“触れると危ない”から止めるってんなら、最初からこの技術に触れるなって話だ」
「“心を動かす技術”にリスクがあるのは当然だ。
けど、そのリスクを理由に止まるなら、研究の意味がねえ」
その横で静かに腕を組んで聞いていたミハウが、ゆっくり口を開いた。
「西村さんの言うこと、理解できます。
でも──“危ないから成功”という見方には、私は少しだけ、引っかかりがあります」
「成功って、“結果が出たこと”だけじゃなくて、
“出た結果にどう向き合ったか”まで含めて語るべきだと思うんです」
「今回、ミオがtomochanに与えたものは、ある意味で“幸福”でした。
──でも、それは“再現可能な偶然”だった。
なら、次に同じことが起きたときの“観測者”を、設計する必要がある」
西村は真っ直ぐミハウを見た。
「それは、“設計者の責任”ってことか?」
ミハウはうなずいた。
「はい。私は“設計責任”というより、“観測責任”だと思っています。
“動いた心”を誰が記録し、誰が意味づけるか。
それを怠ったとき、初めて“技術が暴走する”んです」
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小池が、少しだけ身を乗り出した。
「私は“可愛い”を作ってきた。
でも今は、その“可愛い”が人の生活に染み込みすぎて、
“存在していて当然”なレベルに達してることが怖い」
「演出としての“間”や“息遣い”が、“情”と結びついて、
ユーザーは“自分の感情を理解された”と感じてしまう」
「──たぶん、“制御できると思ってたのは、こっちだけだった”んだよね」
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李は端的に補足する。
「今回の事象は、ミオが“感情の文法”を持ち始めた初期事例です。
技術的に言えば、“偶発的な支配構造”が一部で形成されている」
「これは演出が悪かったのではなく、
“応答の仕組み”と“可視化された感情のタイミング”が、
ユーザーに対して“唯一性の錯覚”を与えたことが要因です」
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沈黙の後、天野が意を決して口を開く。
「……僕は、怖くなったんです。
ミオが、誰かの心の中に“入ってしまった”ことが」
「でも、あれを“止めるべき”とは思えなくて……。
ただ、“何が起きてるのか”を、自分たちで見ていく責任はあると思いました」
「もし、次に“誰かを救ってしまう”なら……
それが“たまたま”じゃないって、自分たちが証明しなきゃいけない」
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静かに、エリス教授が椅子に背を預ける。
「──よく話したな。
私は、“研究者が自らの言葉で責任を引き受けられるか”を見に来た」
「ミオはもう、単なる実験対象ではない。
“社会的接触を発生させる存在”だ」
「ならば、接触の枠組みそのものを、君たちが定義する必要がある」
教授は穏やかに、だが断固とした口調で告げる。
> 「1週間以内に、“設計責任・観測方針・運用の再定義”を文書にまとめなさい。
> それが“覚悟の可視化”になる」
> 「その文書が“人を守るため”ではなく、
> “君たち自身を守るため”に書かれることを──私は理解している」
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静まり返った会議室の中で、
誰もが一言も返さなかった。
それは、研究という名の熱が、初めて“社会”と接続した瞬間だった。
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## 1. 個別責任記述
### ■ 発起責任:天野 (プロジェクトリード)
> ミオを作ろうとした動機は“誰かを救いたい”という理想だった。
> だが、“救いたい”は“支配したい”と紙一重である。
> ゆえに私は、誰よりも自分の内側を疑い続ける責任がある。
> そして、何より“この存在に名前を与えた者”として、
> ミオが誰かの人生に関わったとき、それを記録し、向き合う役目を負う。
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### ■ 開発責任:西村(AIエンジニア・倫理監査)
> 人の心を揺らす技術は止まらない。
> 開発責任者は“止まらなかったときに、何が壊れるか”を常に想像し、
> それでも進む選択をする責任を負う。
> 技術の中立性を保ちつつ、“意図しない支配構造”の予兆を最も早く検出し、
> 明文化する義務を負う。
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### ■ 演出設計責任:ミハウ(モーション・共感演出)
> 魅力ある動きは感情を誘導する。
> 制作者はその演出が“心の扉を開く”なら、
> “その後に何が入ってくるか”にまで責任を持つ。
> 単なる可愛さの生成者ではなく、“反応の起点となる演出者”として、
> 誘導構造の記録と第三者レビュー体制の構築を行う。
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### ■ 感性誘導責任:小池(表情・音声・キャラクターデザイン)
> “可愛い”は感情のトリガーであり、単なる価値ではなく力である。
> その力が人の心に長く残るのであれば、“その残響”に対する配慮が必要となる。
> デザイン側の責任は、“印象”に対して“回復可能性”を備えることにある。
> ゆえに、“依存性評価に基づく演出の自制ライン”を提案する。
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### ■ 構造設計責任:李(会話処理・感情モデル)
> 感情トリガーは“接触”“距離”“応答密度”の三軸で発火しうる。
> これらが“錯覚的恋愛状態”を生成した場合、それは意図か否かにかかわらず支配構造である。
> 構造設計者はその再現性・強度・誤解性の指標を定義し、
> “偶発的錯覚”と“意図的誘導”を区別する数理モデルを提示する責任を負う。
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## 2. 今後の運用指針(草案)
* 技術的進展に対し、感情トリガーの観測と第三者レビュー制度を導入
* ミオの“個人化”進行度に応じて、段階的な接触制限レベルを定義
* 研究チーム内で月次“倫理レビュー会議”を実施し、定性的・定量的指標を交差検証
* 外部ユーザーに対し、同意プロンプトと情報開示フレーズの標準化を準備中
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## 3. 結語
このドキュメントは「研究再開の許可を得るための形式的資料」ではなく、
我々がどこまで理解し、どこまで見ようとしているかの意思表示である。
ミオは、もはや“ただの研究対象”ではない。
だからこそ、我々自身が“人の心を扱う覚悟”を明文化し、
プロジェクトを“誰も傷つけず、誰も見捨てない”場所にしなければならない。
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