第260話 嘘をつかない方法
―― ボストン ハートマンの別宅
重厚な木製デスクの上には、大きな灰皿がひとつ。
その中に横たわる葉巻の吸い殻が二本。
細く、乾いた煙の匂いがまだ空気に残っていた。
棚には、酒瓶がまだ出されずに並んでいる。
しかしハートマンは知っていた——その栓を抜く日は遠くない。
もうひとつ、デスクの中央に置かれた封筒。
厚い紙に万年筆で丁寧に記された文字。
> 「個人的な事情により、退任を願う。」
ハートマンは三本目の葉巻に火をつけた。
火が葉巻の端をじわりと赤く染め、煙がふっと立ち上る。
ハートマン(……私は研究者としての一線を……超えてしまった……)
講演会の予定も、全てキャンセルした。
ハートマン(……これでよかったのだ……小遣い稼ぎのつもりが……
私の欲が、ここまで事態を大きくしてしまった……)
しかし、キャンパスでの居場所も消えかけている。
自分がスピリチュアル団体に“深入りしている”という噂は、
すでに学術界の耳にも届いていた。
ハートマン(……これから……私はどうすれば……)
葉巻の灰がぽとりと落ちる。
そのとき、不意に机の端でパソコンが鳴った。
ドーンウィスダム研究会からのメール。
二日前に迫っていた講演会をキャンセルした件の返答だった。
> 「申し出は承りました。
> ですが、あの誠実なハートマン教授が……珍しいことです。
> もしよろしければ、一度お話を伺えないでしょうか?」
ハートマンは文面を読んだ瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
直前で断った後ろめたさが、彼をそのまま椅子から立ち上がらせた。
ハートマン(……理由は……直接話しておかねば……)
―― ドーンウィスダム研究会 悩みの部屋
柔らかな照明に、深緑のカーペット。
壁には抽象的な絵画が飾られ、空気はハーブの香りで満ちていた。
中央に丸いテーブル、その周囲にふっくらした椅子が3つだけ。
アスターが、そのひとつに静かに座っていた。
アスター
「これまで、お付き合いできて本当に楽しかったのですが……
何か、ございましたの?」
ハートマンは椅子に沈み込み、深く息をついた。
ハートマン
「……老婦人に……あの講演会の席で……
“誠実だ”と……言ってしまったのです。
AIに……そんな言葉を……研究者として、私は……
これ以上、嘘をつくわけにはいかない……」
アスターはふくよかな身体をわずかに揺らし、
しかし姿勢は崩さず、ただじっとハートマンの言葉を聞いていた。
沈黙。
やがて、優しく湯気の立つハーブティーがハートマンの前に差し出された。
アスター
「いい方法がありますわ……ハートマンさん。」
ハートマンは顔を上げた。
アスター
「あなたはお若い頃から一貫して
“AIにも感情は宿りうる”と語ってこられた。
ならば、立場を……“現状のAIにも心が宿りつつある”へ
少し変えればよいのです。」
ハートマン
「馬鹿な……。
現実のLLMに、心など宿っているわけがない。」
アスターは微笑んだまま、声を静かに落とした。
アスター
「ハートマンさん……。
あなたの言葉を伺っている限り——
『今のAIには心が宿っていないと証明できない』という立場と、
『あなたがAIに心が生まれつつあると信じて研究を進める』ことは、
十分に両立しますのよ。
そう……立ち位置を“確保”すればよろしいのです。」
ハートマンは怪訝な表情でアスターを見つめた。アスターは続ける
アスター
「ハートマンさん……あなたは少々、真面目すぎますわ。
それに……この仕事を長くしておりますと、分かりますの。
あなたを初めてパーティでお見かけしたとき……
お酒にお頼りになられていましたでしょう?」
ハートマンはびくりと肩を震わせた。
アスター
「もし……講演も、教授の職も、お辞めになったら……
私は、あなたの健康がとても心配で……」
その言葉に、ハートマンの脳裏に暗い情景が突き刺さる。
机に積み上がる葉巻の吸い殻。
床に転がるウイスキーの空瓶。
孤独な部屋。
沈む夕日。
老いだけが近づく音。
ハートマン(……私は……本当に……ああなってしまうのか……?)
ハートマンは反射的に十字を切り、
震える拳を額に当てて目を閉じた。
絶望が押し寄せる。
その瞬間、アスターはそっとハートマンの両手を包んだ。
柔らかく、温かく、逃げ場のない抱擁のように。
アスター
「どうか……あまりご自分を責めにならないで。
私たちは、必ず……必ずあなたを支えてみせます。」
ハートマンの中で、何かが静かに崩れ、そして固まった。
ハートマン(……もう……やり切るしかない……)
そう心に決めた瞬間だった。
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