第255話 ドーンウィスダム研究会
――2025年、現在
ChatGPT によって、自分が積み上げてきた研究常識のすべてを否定された――
72歳になったハートマン教授は、その事実をまだ認められずにいた。
サンノゼの研究室には、もう彼の席は“形だけ”残されている。
若い院生は気の毒そうな視線を向けるが、誰も彼に最新モデルの話題を振らない。
ハートマンが必ず怒り、かつ理解できないのを知られているからだ。
代わりに、ハートマンはボストンに入り浸るようになっていた。
倫理学部の教員ラウンジでは、彼は威厳をまとったままの口調で語る。
「AIの倫理とはね……“技術を愛しすぎないこと”だよ」
内容は空虚だ。それでも彼を批判できる倫理学者は、一人もいなかった。
彼は2010年代のAI研究を支えた第一人者。
その名声だけで、ボストンの若い研究者たちは沈黙した。
―― ハーバード大学・一般向け公開講義の日
それは学内でも“誰でも参加できる”ゆるい公開講座だった。
講義というよりは、半分は昔話でできた講演会。
最前列の一般客は、ハートマンの過去の栄光に興奮し、
彼を依然として「AI時代の巨人」と信じて疑わなかった。
だが、近くで見ればわかる。
ハートマンの眼は充血し、
葉巻の匂いが染みついた背広はヨレている。
指先は微かに震え、質問には噛み合わない答えが続いた。
会が終わり、簡単な立食パーティが始まった。
ワインのグラスを手に、ハートマンは孤立していた。
その様子を、遠くからじっと見つめる男たちがいた。
グラスを置くタイミングを見計らって、
女性のひとり――ふくよかで物腰の柔らかいアスターが、ハートマンに近づいた。
「教授、感銘を受けました。
とくに2018年の “AIネットワークと精神”の論文 ……
あれは、我々の探求と深く響き合います。」
アスターはジャケットの内ポケットから、小さなカードを取り出した。
それは名刺より柔らかい紙で作られた “ビジネスカード”。
白地に、金色の小さな“日の出”のロゴ。
その下には団体名が記されていた。
<ドーンウィスダム研究会 ボストン支部>
宗教臭を消そうとしているが、どこか隠しきれていない。
「今度、“意識と心の哲学フォーラム”を開きます。
ぜひ講演をお願いしたい。謝礼も……もちろん。」
ハートマンはカードを親指で軽く撫でた。
紙の手触りが妙に心地よかった。
“価値を見失った自分を、必要としてくれる存在”
それは、すでに大学には残っていなかった。
ハートマン教授は、わずかに顎を引いて言った。
「……いいだろう。参加しよう」
アスターの顔に、静かな笑みが浮かんだ。
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