森の中の子供たち。
森の中の子供たち。
ひとりにしないで。
「おはようございます。先輩」と声をかけられた。
後ろを振り向くとそこには、大学の後輩の友人である村上真昼が立っていた。
「おはよう。村上さん」四つ葉が言う。
「はい。おはようございます。秋野先輩」ともう一度、にっこりと笑って、真昼は言った。
「秋野先輩。手、出してください」
真昼が言う。
四つ葉は言われた通りに歩きながら、隣に移動した真昼に自分の手を差し出した。すると真昼は「ちょっとだけ失礼しますね」と言って、四つ葉の手を軽くとって、その表面をじっと見つめた。
「……村上さん。なにしているの?」
ちょっとだけ恥ずかしくなって、四つ葉は言う。
「手相を見ているんですよ」
手のひらを見たままで真昼は言う。
「秋野先輩。すごくいい手相してますね」しばらくして、感心したような顔つきで真昼は言う。
「いい手相って?」(あんまり占いとかに興味のない)四つ葉は言う。
「はい。なんていうか、すごく大丈夫な手相をしています」
「すごく大丈夫?」
「なにがあっても大丈夫な手相です」
そう言って真昼はまた、にっこりと笑った。
話を聞くと、先日、友人たちと食事をした帰りの道で、ビルの片隅に店を出している占い師のおばあさんに、真昼は「占ってあげようか?」と声をかけられて、千円を出して、そのおばあさんに手相を占ってもらったのだと言う。
その手相占いは『恋愛運は大吉』であり、真昼は喜んで、それからおばあさんと少し話をして、人の手相を見るコツを教えてもらったのだと言う。
「それで僕の手相を見たの?」
「そうです」嬉しそうな顔で真昼は言う。
「ちなみに、私と秋野先輩の相性もばっちりですよ」と真昼は言った。
村上真昼は秋野四つ葉の一つ年下の、今年十九歳になる大学生で、髪は耳が出るくらいに短くて、いつも動きやすいラフな格好をしている、気持ちの良いさっぱりとした性格をした、すごく美人な女の子だった。
高校まではずっと陸上部に所属していて、種目はハードル。そのころは髪が長くて髪型をいつもポニーテールにしていたらしいのだけど、大学で真昼と出会った四つ葉は、そのポニーテールの髪型をしている真昼を見たことが一度もなかった。(走っている真昼を見たこともなかった)
四つ葉は「じゃあね」「はい。……あ、秋野先輩。用事があるんで、またあとで研究室にお邪魔しますね」と言う会話を真昼として、大学の校内で真昼と別れた。
「秋野先輩!」
大声で呼ばれて四つ葉は後ろを向いた。
「大好き!」
にっこりとした笑顔で、遠くから真昼が言った。四つ葉の周囲にいた学生たちが、幸せそうな顔をして四つ葉と遠くにる真昼のことを見ているのがわかった。(恥ずかしかった)
「こんにちは」
そんな声がして、大学の図書館の中にある学習室のドアが開いた。そこから、村上真昼が顔を出した。
そんな真昼のことを部屋の中にいた二人の人間が、ほとんど同時に顔をあげて見た。
一人は秋野四つ葉。
そして、もう一人がその四つ葉の前の机に向かい合うようにして、座って勉強をしている、今年大学四年生の桃ノ木紗枝先輩(二十二歳)だった。
時刻はお昼。
真昼は、四つ葉を昼食に誘った。(食べる場所は、いつもの大学の食堂ではなくて、近くにあるファミリーレストランだった)
「わかった。いいよ」
四つ葉は言う。
「桃ノ木先輩も一緒に行きますか?」真昼が言う。
「いい。遠慮しとく」
桃ノ木紗枝は真昼を見ないままで、いつものそっけない態度で真昼に言う。それから、長くて美しい(なんだかすごくいい匂いのしそうな)髪を後ろでまとめている髪留めをとって、その黒髪を自由にした。
「うわ。桃ノ木先輩。それ、すごくおしゃれな髪留めですね」真昼は言う。
それはいつもの真昼のお世辞ではなかった。
和風……、というのだろうか?
真昼にはよくわからなかったけど、京都とかのすごく由緒あるお店でしか購入できないような、そんな職人気質の感じる、美しい髪留めを桃ノ木先輩はしていた。
その髪留めには、鳥の模様が施されていた。たぶん、……梟、だろうか?
「ああ、これ? うん。まあちょっとね」
そう言って、桃ノ木先輩にしては珍しく、裏表がまったくないような、すごく自然な顔で、真昼に向かってにっこりと笑った。
四つ葉と真昼は、大学を出て、すぐ近くにあるファミリーレストランに移動をした。
そこで四つ葉は和風ハンバーグセットを頼み、真昼はカルボナーラとサラダを注文した。飲み物は二人ともドリンクバーを注文した。(四つ葉はアイスコーヒー。真昼はオレンジジュースを飲んだ)
昼食の会話で、真昼は自分の本命の要件を四つ葉に言い出した。
それはある美術展へのお誘いの話だった。(早い話がデートの誘いだ)
「美術展? それも、有名な画家じゃなくて、国内の若い画家たちの作品を集めた話題の展覧会?」四つ葉は言う。
「はい。有名じゃないってことなんですけど、すごく評判がいいんですよ。なんでも今年は当たり年だって、美術好きの友達が言ってました。この中から将来絶対に大物になる画家がでるから、この展覧会は、たとえメジャーじゃなくても、見に行ったほうがいいって。絶対に損しないって、言ってました」
オレンジジュースをストローで飲みながら、真昼は言う。
真昼はその美術展覧会のパンフレットを持っていた。
四つ葉はそれを受け取った。(長方形の暗い夜と明るい星座の絵が書かれたパンフレットだった)
確かにプロの卵たちの作品と言っても、こうして展覧会が開けるというのは、すごいと思った。(それくらい、内容が充実しているということなのだろう)
作品を発表している画家も、真昼の話によると、上は三十歳くらい、下は十八歳の高校生も含む、と言う若いメンバーで、皆将来を期待されている画家たちだという。
四つ葉はパンフレットを最後まで見ていく。
すると、そのパンフレットの中にある、画家の紹介のページで、『ある人の名前と、その作品の写真』に四つ葉の目がぴたっと止まった。
「どうです? 一緒にいきませんか? 秋野先輩」
なにかをせがむように、ちょっとだけ身を乗り出して、真昼は言う。
そんな村上真昼に、少し考えてから「……わかった。いいよ」とにっこりと笑って四つ葉は答えた。
「本当ですか!? ありがとうございます。秋野先輩。先輩ならそう言ってくれると私、最初から信じてました!!」すごく嬉しそうな顔で真昼は言う。
「あのさ、村上さん。このパンフレット、もらってもいいかな?」
ファミリーレストランでお会計を済ませたあとに、お店の前で四つ葉は言った。
「もちろん。全然構いませんけど、でもどうしてですか?」と首をかしげて真昼は言う。
「……実は、こういう絵画、ちょっと好きなんだ」四つ葉は言う。
その言葉に真昼は「そうなんですか。知りませんでした」と言って、納得をしたみたいだったけど、でもそれは、秋野四つ葉のついた(珍しい、四つ葉の)嘘だった。
そのパンフレットには、『雨宮栞の名前とその作品、森の中の子供たち』の絵画の写真が載っていた。
その名前と絵画に、四つ葉の目は、釘付けになっていたのだった。
美術展のデートの日。
(その日は、雨の日ばっかりだった天気の中で、久しぶりの晴天だった)
「四つ葉っていい名前ですよね。幸せの四つ葉。クローバー」とにっこりと笑って、すごく上機嫌の真昼は言った。
「そんなことないよ」四つ葉は言う。
「それを言うなら、村上さんのほうがいい名前だよ。真昼って、すごくいい名前だよね」
「本当ですか? 嬉しいです」真昼は言う。
村上真昼はこの日、真っ白なワンピース姿だった。靴は麦で編んだようなサンダルで、同じように麦で編んだような大きなバックを、真昼はその手に持っていた。
四つ葉は空色のシャツに、ジーンズ。靴はスニーカーという、普段とあまり変わらない格好だった。バックは白い虹のプリントのあるトートバックだった。四つ葉は服装にそれほど興味はなかった。(ただし、いつも清潔であることを好んだ)
二人は駅前で合流して、そのまま美術館の中にある新人画家の美術展まで移動をした。
流行っている、と言う真昼の話通り、美術展はとても人が多くて混雑していた。
飾っていある絵画も、確かにどれも、(絵に素人の)四つ葉が見ても、……すごいと思い、思わず足を止めて見入ってしまうような絵画ばかりだった。
四つ葉は真昼と一緒に、そんな絵画たちを楽しく鑑賞した。
「どの絵も綺麗ですね」小さな声で真昼が言った。
「うん。そうだね」四つ葉は言った。
……そして、その少しあとで、そのとき、はやってきた。
大きな絵画な並んで展示してあるコーナーの最後の一枚。……そこに、四つ葉の探していた絵画があった。
『森の中の子供たち』。
深い緑色の森の木々の中にある、朽ちた神社を描いた絵画。その絵画の中には、二人の小学生くらいの男の子と女の子がいた。
……、それと、一羽の白い(神々しい)梟が描かれていた。
その白い梟に四つ葉は見覚えがあった。
その梟は間違いなく、あの日、小学生のときに、深い森の中で栞と一緒に目撃した梟だった。
……森と、朽ちた神社も間違いない。
森は間違いなく梟の森であり、朽ちた神社は間違いなく、……あの(栞が勝手にそう呼んでいた)梟神社だった。
男の子と女の子は、……、僕と栞。
二人だけの秘密の場所。
あのころの小学生のころの僕と栞がいる、(僕はまるで、どこか間違った場所に迷い込んでしまったみたいな顔をして、栞はここが本当の自分の居場所であるような楽しそうな顔をして)二人の秘密基地が、そこには確かに、鮮明な絵画として、あのころの記憶のままで、……四つ葉の最近、見たずっと昔の栞の夢の通りに、……、とても美しく描かれていた。
(そんな夢を見たりはしていなかったのに、どうして急に見るようになったのだろう、と不思議に思っていた。この絵と出会う予知夢のようなものだったのだろうか?)
「……この絵。私、すごく好きです」
そんな真昼の声も、あまりよく聞こえなかった。
「先輩? どうかしたんですか?」
「え?」
ようやく真昼の声に反応して、四つ葉は言った。
「秋野先輩。……泣いているんですか?」
真昼に指摘されて、自分の目元に四つ葉はそっと手をやった。……すると、そこには確かに透明な水があった。
いつの間にか、四つ葉は自分でも気がつかないうちに、……森の中の子供たちの絵の前で泣いていた。
「……四つ葉くん」
そんな声が聞こえた。
とても、……とても懐かしい声だった。
四つ葉はその声をしたほうに顔を向けた。……すると、そこには一人の女性が立っていた。
長い黒髪をした、……、とっても綺麗な女の人。
年齢は四つ葉と同じ、二十歳くらい。
その人に会うのは、今日が初めてのことのはずだった。なのに、その四つ葉を見て、驚いて目を大きくしているその女の人のことを見て、四つ葉は一目見て、それが(小学生から成長して大人になった)『雨宮栞』であることがわかった。
「……、栞」
四つ葉は言った。
その四つ葉の言葉と、秋野四つ葉の姿を見て、……雨宮栞は、その目から、(さっきまでの四つ葉と同じように)透明な大粒の涙を、ぽろぽろと流した。
「え? あの、えっと」
そんな(森の中の子供たちの絵画が飾ってある展覧会の通路の前で)少しだけ間を開けたままで、お互いの顔を見つめあって、(しかも、相手の、四つ葉が栞と名前を呼んだ女性の人は、涙を拭った四つ葉とは違い、人目もはばからずに泣いていた)まるで二人だけ、その周辺だけが、時間が止まってしまったかのように、動かない二人を見て、村上真昼は混乱していた。
「栞。本当に君なんだね」四つ葉は言った。
秋野四つ葉には、十年ぶりに会う、その今、自分の目の前にいる女性が、雨宮栞だと一目で理解することができた。
栞は、「うん」と言ってうなずいてから、「あなたは四つ葉くん。秋野四つ葉くんだよね」とにっこりと笑って四つ葉に言った。
四つ葉は栞に「うん。そうだよ。僕は四つ葉だ」と答えた。
すると栞はまた、にっこりと笑って、「嬉しい。本当に四つ葉くんだ」と四つ葉に言った。
そんな二人の光景を村上真昼は、森の中の子供たちの絵画の前に立って、じっと、ただ呆然とした表情をして、見ていた。
「……四つ葉くん。私の絵。見にきてくれたの?」栞は嬉しそうな顔をして言った。
「うん。それと、作者の名前に、栞の名前があったから」四つ葉は言った。
「私に会いに?」
「うん。この森の中の子供たちの絵画を描いたのは、絶対に栞だって、わかってたから」にっこりと笑って四つ葉は言った。
それから、少しの間、四つ葉と見つめ合ってから、栞はその目を(自分の絵の前に立っている)村上真昼に向けた。
「あ」
栞と目と目があって、ようやく真昼は、(まるで魔法が解けたように)普通に思考ができるようになった。
「あなたは、四つ葉くんの恋人さん?」
栞は真昼を見て、大きくて綺麗な瞳をぱちぱちとさせて、そう言った。
「え? あ、えっと」
真昼は口ごもって四つ葉を見た。
四つ葉は(ちょっとだけ申し訳なさそうな顔をして)真昼を見て、それから栞を見て「……、いや、違うよ。大学の後輩なんだ。名前は村上さん」と栞に言った。
真昼は急いで四つ葉の横まで移動をして、「初めまして。村上真昼です。秋野さんの大学の後輩をしています」と頭を下げて栞に自己紹介をした。
「初めまして。雨宮栞です。画家をしてます」くすっと笑ってから、栞は真昼に丁寧にお辞儀をしてそう言った。
(それから栞が、この森の中の子供たちの絵画の作者さんだと聞いて、真昼はすごくびっくりした)
それから、「少し三人でお話しない?」と言う栞の提案で、美術館にあるレストランで三人は一緒に昼食をとることにした。
真昼は、四つ葉から二人の出会いのことを(なんでも子供のころ、二人は信州の森の中で出会った友達だということだった。こうして二人が出会うのは、なんと十年ぶりのことらしい。栞さんは現在、信州の美術学校を出て、画家として東京で暮らしているということだった。そして、森の中の子供たちの絵の中に描かれている男の子と女の子は、二人が出会ったころの秋野先輩と栞さんだということだった)聞いて、「でも、私お邪魔じゃないですか?」と栞に言った。
すると栞は「ううん。全然。そんなことないよ」とにっこりと笑って、真昼に言った。
四つ葉を見ると、四つ葉はにっこりと(やっぱり、ちょっとだけ申し訳ないような表情をして、きっと栞さんに会えるかもしれないと思っていたことがデートを受けてくれた本当の目的だということを、私に黙っていたことを気にしているのだろう。確かにちょっとだけ、腹が立ったし、びっくりしたけど、……)笑っていた。
なので真昼は、四つ葉と栞と真昼の三人で一緒に昼食を食べることにした。栞は真昼に「嬉しい。私、真昼さんの話、いっぱい聞きたい!」と言って、子供のように喜んでくれた。
そんな無邪気な(本当に子供みたいな)栞を見て、なんだか不思議な人だな、と真昼は肩の力を抜くようにして、思った。(芸術家、あるいは画家というのは、みんなそうなのかもしれないけど……)
美術館の建物の中にあるレストランで三人はカレーライスを食べた。(カレーライスの値段は八百円だった)
美術館の建物の中にあるレストランのカレーライスはすごく美味しかった。
三人はテーブルに座って(四つ葉と真昼が同じ側。四つ葉の反対側に栞と言う席だった)お互いの過去の会話をした。
食事を終えるころに展覧会のスタッフと思われるスーツを着た女性の人が、栞さんを呼びにきた。
そして、栞さんはその男の人に連れられて、「じゃあ、またね。四つ葉くん。真昼さん」と言って、私たちの前から笑顔でいなくなった。
四つ葉は「またね。栞」と言って栞さんを見送った。
二人はお互いの連絡先を交換していた。(私も栞さんと電話番号を交換した)
真昼は無言のまま、栞さんに手をふった。
どうしても、「はい。またあとで。栞さん」と栞さんに(満面の笑顔で)言葉にしていうことができなかったのだ。
すると真昼の心の中で桃ノ木紗枝先輩が、いつものように「真昼は子供だね」と言って、真昼のことを馬鹿にした。
その桃ノ木先輩の言葉を聞いて、確かに私は本当に子供で馬鹿だった、と真昼は素直に思った。
それから四つ葉と真昼は、(なんだか、続きの絵をゆっくりと鑑賞する気にもなれなくて)ぼんやりとしながら絵を鑑賞したあとで、栞さんのいなくなった美術館をあとにした。
建物の外に出ると、空は曇り空に変わっていた。(天気予報では遅くには雨になるかも、とは言っていたけど、今朝の晴天が嘘みたいだった)
「雨、降り出しそうですね」
曇った空を見て、真昼は言う。
「うん。そうだね」四つ葉は言う。
「あの、秋野先輩」
大きなビルの立ち並ぶ街の中、アスファルトの道の途中に立ち止まって、真昼は言う。
「どうかしたの? 村上さん」と優しい顔で四つ葉は言う。
「……少し、お話しできませんか?」
「話?」
「はい。すごく大切な、お話です」
じっと四つ葉のことを見て、真昼は言った。(真昼は決意をした強い目をしている)
四つ葉は少し考えてから、真昼の目を見て「うん。いいよ。わかった」と真昼に言った。
「私は秋野四つ葉先輩のことが好きです」
真昼は言った。
それは四つ葉の顔を正面からしっかりと見つめた、とても真っ直ぐで正直な性格をしている、村上真昼らしい、とても気持ちの良い、思い切った告白だった。
「秋野先輩。私と恋人同士になってください」真昼は言った。
真昼は少しだけ体を乗り出して、じっと、強い気持ちのこもった目で、四つ葉の顔を見つめていた。
村上真昼が秋野四つ葉に恋をしたのは、大学に入ってすぐのころだった。
それは、一目惚れだった。
それは本当に突然の恋だった。(恋をする予定は、当分ないはずだった)
真昼はようやく、四つ葉に自分の思いを言葉にしてきちんと伝えることができた。ずっと片思いの恋のままで、告白ができなかったのに、こうして今日、四つ葉に告白をすることができたのは(実は、最初から今日、真昼は四つ葉に自分の思いを伝えるつもりだったのだけど、栞さんと出会わなければ、きっと、今日もいつものように、本当の自分の気持ちを四つ葉に言えないままで、笑顔で、さようなら、をしていたと思う)雨宮栞さんのおかげだと真昼は思った。
四つ葉はずっと黙っている。
片思いだけど、私の好意は、……四つ葉への思いは、きっと四つ葉にも伝わっているはずだ。その確信が真昼にはあった。(私は器用に自分の思いを隠して、恋愛なんてできないのだから)
だから、四つ葉もいつかこうして、私(真昼)から、突然、こうして告白されることもあると、最初からわかっていたはずだった。
でも、四つ葉は無言。
……返事がないのは、拒否の証なのだろうか?
真昼はすごく不安になった。
……、心臓がずっとどきどきしていた。
しばらくの間、四つ葉はずっと黙っていた。(なにかを深く考えているみたいだった)
「ごめん。村上さん」
と、静かに、でもはっきりとした声で四つ葉は言った。
ごめん。……ごめんなさい。村上さん。あなたとは、お付き合いはできません、か。
……、うん。
まあ、そうだよね。
わかってはいた。
告白をすれば、たぶん、私は秋野先輩にふられるだろうと、わかってはいたのだ。(だから、ずっと告白できなかったのだ。……、一年間も)
こうなるだろうって、そう思っていた。
……、ずっと前から、わかってた。
「そうですか。わかりました」
にっこりと笑って、真昼は言った。
どんな答えでも、絶対に泣かないって、告白をする前に真昼は心に決めていた。でも、……真昼はなんだかすごく泣きそうだった。
(あ、っと思ったときは、もう遅かった)
真昼の目から涙が溢れた。
それは真昼の意思ではなかった。
でも、真昼の思いとは違って、涙は全然止まってくれなかった。
村上真昼は、大好きな四つ葉の目の前で、笑いながら、泣いていた。「……あれ? おかしいな? どうしてだろう?」
涙が全然止まってくれない。
……私、どこか壊れちゃったのかな?
「村上さん」
真昼のことを心配するような声で、四つ葉は言った。
「あ、大丈夫。大丈夫です。ちょっと待ってください。すぐに『いつもの私』に戻りますから」
今、ちゃんと修理してますから。
大急ぎで、壊れたところを探してますから。
真昼は涙を手のひらで拭った。
恋愛運は大吉のはずの手のひらで……。
その涙で濡れた手のひらを見て、あの新宿の占い師のおばあさんは嘘つきだ、いんちきだったんだ、と真昼は思った。
秋野四つ葉先輩に、誰かほかにすごく大好きな人がいることはわかっていた。真昼は四つ葉への片思いの間、四つ葉のずっとそばにいて、大好きな四つ葉のことを観察し続けてきたのだ。
四つ葉に女の人の影は全然なかった。
……、でも、四つ葉はいつも、どこか遠いところを見ていた。私でも、誰でもなくて、ずっと、ずっと遠くにいる誰かのことを見続けていた。
その誰かが誰なのか、ずっと真昼は知りたかった。
それが今日、はっきりとわかった。
その誰かは栞さんだった。
雨宮栞さん。
すごく優しい性格をした、子供っぽい性格をした、笑顔の素敵な美人の、……すごく素敵な、人の心を引きつけるような、すごい、本当にすごい絵を描く新人の天才画家さんだった。(とてもすごい人だった)
心も綺麗で、私にもすごく良くしてくれた。(私のことを四つ葉の恋人さん、とか言ってくれた)
真昼は栞さんのことが、(はじめはすごく緊張したけど)出会ってすぐに好きになった。
四つ葉のことがなければ、絶対に仲の良い友達に二人はなれると思った。(桃ノ木先輩みたいに意地悪な人じゃなくて、栞さんみたいな優しいお姉さんがいたらいいなとも思った)
「ごめんなさい。先輩。……ちょっと直りそうにありません」
泣き止むことを諦めて真昼は言った。
それから、真昼はわんわんと四つ葉の胸の中で泣いた。……四つ葉はなにも言わずに、そっと(本当に遠慮がちに)真昼のことを抱きしめてくれた。
真昼の涙は全然止まってくれなかった。
……、溢れて、溢れて止まらなかった。(なにせ、壊れているのだから)
「本当にごめん。村上さん」
と、悲しそうな声で四つ葉は言った。
こんなときでも、四つ葉はいつもと同じように優しかった。……いっそ、(秋野先輩のことが大嫌いになれるように)私に思いっきり冷たくしてくれればいいのに、と真昼はそんなことを(まだ四つ葉に甘えて)思ったりした。(ごめんなさい。秋野先輩)
あなたが(私に)笑ってくれたから。
だから、……私はあの日、あなたに恋をしたんです。と彼女は僕に笑顔で言った。
あなたは今、夢を見ているんです。
……もういなくなってしまった、私の夢を。あったかもしれない、私たちの未来の夢を……。
静かな病院
真っ白な病室。
そこは聖域のようだった。
きっと彼女だけの、神聖な場所なのだと思った。(実際に、そこは彼女の聖域だった。誰も足を踏み入れてはならない、透明な冬の風が吹く、新雪の雪の平原のような場所だった)
……、まるで繭のように。
彼女は白いベットの中で丸くなって眠っていた。
四つ葉が栞の眠っている真っ白なベットの横まで移動をすると、その誰かの気配に気がついたのか、うっすらと、眠っていた栞がその目を開けた。
そして栞は四つ葉を見た。
「おはよう。起こしちゃったかな?」
にっこりと笑って四つ葉は言った。
その場所にいるはずのない四つ葉の顔を見て、栞はすごく驚いた顔をしたが、すぐにその顔をいつもの栞の顔に戻した。
「……、ばれちゃった」
少しの間、じっと見つめ合ったあとで、そう言って、いたずらっ子の顔で栞は赤い舌を小さく出して、にっこりと笑った。
「栞は子供のころから、嘘が下手だからね」
小さく笑って、四つ葉は言った。
四つ葉は、栞のベットの横にある丸椅子に座った。
栞のいる真っ白な病室の開きっぱなしになっている窓から、とても気持ちの良い風が、二人のいる病室の中に吹き込んできた。
今は、夏だ。
そんなことを、その風の中で、四つ葉はふと思い出した。(二人が出会ったのも、眩しくて熱い夏の季節のころだった)
「ずっとね、私、夢を見ていたの」
栞は言った。
「夢?」
四つ葉は言う。
「うん。すごく幸せな夢。……四つ葉くん。あなたの夢。あなたと出会って、楽しい毎日を過ごす、そんな優しい夢。……本当に楽しい夢」栞は四つ葉を見てにっこりと笑った。
僕も君の夢を見たんだ。と四葉は心の中でそう言った。だから僕はこうして、栞に再会することができたんだ。……この広い世界の中で、僕たちはちゃんと再会することができたんだよ。
と、そんなことを四つ葉は思った。
「いつからなの?」四つ葉は言った。
「病気のこと?」栞は言った。
四つ葉は返事をしなかった。(ただじっと、栞の目を不安そうな目で見つめていた)
「症状がはっきりと出たのは、二年くらい前……かな?」
「二年前」
四つ葉は言う。二年前。そのころ、僕はいったいなにをしていただろう? 栞のことを忘れたままで。たった一人で、なにをしていたのだろう? そんなことを四つ葉は思った。
四つ葉は栞に聞きたいことがたくさんあった。
でも、その四つ葉の疑問は、そのすべてが言葉にならなかった。
四つ葉はずっと黙っていた。
栞もずっと黙っていた。
だから、世界は無言になった。
「……四つ葉くん。お願いがあるの」
少し時間が過ぎたところで、栞が言った。
「うん。なに?」
優しい声で、四つ葉は言う。
「あのね、……子、供っぽいお願いだって思わないでね。子供のころみたいに、私が、安心して眠れるように、私がこの場所で眠りにつくまでの間、……、私の手を握っていてほしいの」
と恥ずかしそうに顔をほんのりと赤く染めながら、栞は四つ葉に言った。
「いいよ。もちろん」
にっこりと笑って、四葉は言った。
「本当に?」
「うん。本当」
そう言って、四つ葉は栞がそっと遠慮がちに真っ白なベットから出した右手を優しく握った。
栞の手は、とても冷たかった。(まるで雪のようだった)
「ありがとう。四つ葉くん。あなたに出会えて、私、本当に幸せだった」
にっこりと幸せそうな顔で笑って、そんな悲しいことを栞は言った。
四つ葉はずっと黙ったまま、栞の手を握っていた。
彼女の手を握る。
……、それしか、四つ葉にできることはなかった。
真昼が言ってくれた、ずっと大丈夫な手相をしている自分の手で、……栞の冷たい、全然大丈夫じゃない手を、栞が眠りにつくまでの間、ずっと握っていることしか、……本当に、ただそれだけしか、できなかった。
……僕は無力なんだ。
その日の夜。自分の部屋の中で、一人ぼっちの四つ葉は思いっきり、声を出すことを我慢しながら、泣いた。(それはずっと、栞の前で我慢していたたくさんの涙だった)
雨宮栞が亡くなったのは、(まだ夏の季節も終わらない、本当に……)それからすぐのことだった。
私にはあなたが必要なんです。
本当です。
嘘じゃないです。
そばにいてくれるだけでいいんです。
……本当に、ただそれだけでいいんです。
ひとりぼっちの帰り道の途中で、真昼は自分の中高時代の陸上に打ち込んでいた日々のことをぼんやりと電車の中で思い出していた。
……私はあのころ、どこに向かって、あんなに一生懸命になって走っていたんだろう? (窓に映る自分の冴えない横顔を見ながら)そんなことを真昼はふと思った。
「あの、桃ノ木先輩」
桃ノ木先輩に手を引かれるようにして歩きながら、真昼が言った。
「うん? なに? 真昼。もしかして次の行き先のこと?」桃ノ木先輩は言う。
「違います」真昼は言う。
「……私、そんなに笑ってなかったですか?」
少し間をおいてから、真昼は言った。
「うん。ずっと笑ってなかった」桃ノ木先輩は言う。
「だから、今日は絶対に笑わせてやろうと思ってた」にっこりと(まるでお手本のように)笑って、桃ノ木先輩は言った。
「僕は君を忘れることはできない」
四つ葉は言う。
私は忘れてもらっても構わない。だって、私は、もうあなたのいる世界にはいないのだから。
にっこりと笑って、栞の幻が四葉に言った。
四つ葉は震える自分の手を(自分で)握る。
それしか、四つ葉にできることはなかった。
ピンポーン。
玄関のインターフォンのチャイムが鳴った。
ピンポーン。
ピンポーン。
……、無視をしていようと思ったのだけど、何回もチャイムは鳴った。四つ葉はゆっくりとベットから起き上がって、部屋の中を移動する。
「はい」四つ葉は言う。
「あ、秋野先輩ですか? 私です。真昼です! あなたの可愛い後輩、村上真昼です! 真昼が秋野先輩を助けに参りました!」と言う元気な真昼の声が(真っ暗な部屋の中に)聞こえてきた。
……、そのインターフォンは、真昼の押したインターフォンのチャイムの音だった。
あなたを愛しています。世界中の誰よりも。
あなたのことを。
十年前
森の中のアトリエ
「できた」
そう言って、(東京に戻る四つ葉と離れ離れになったあとで)小学生の栞は(これから何度も何度も描き直すことになる)初めて描いた森の中の子供たちの絵画の前で、(いろんな絵の具のくっついている変な顔で)大きな瞳をきらきらとさせながら、にっこりと笑った。
君といつまでも
僕はずっと、ひとりぼっちの孤独な子供のままだった。
私はきっと、わがままな子供だったんだと思います。
森の中の子供たち。 おわり