箱に仕舞った婚約破棄
『 親愛なるローゼ嬢へ
突然ですが、私は帝国軍に入隊し、戦地へ赴く決心を致しました。
この手紙が貴女の元へ届く頃には、私はもう内地には居ないでしょう。
誠に勝手ながら、この命は貴女にではなく、国に捧げる決意を致しました。
その為、これを以て婚約は破棄させていただきます。
新しい方とのご縁を、心よりお祈りしております。』
四年前、口下手な貴方が、16歳の私へ贈った精一杯の手紙。
所々震えている几帳面な文字は、今でも深い想いを語りかけてくれる。
領土を巡る隣国との大戦。貴族から平民まで、16歳以上の若い男性は、次々と戦地へ向かって行く。
そんな中、恋人や婚約者との今生の別れを覚悟し、若い男女はあちこちで結婚式を挙げ、夫婦の契りを交わしていた。
けれど、彼はそうしなかった。
私も彼が苦しまない様にと、その意思に従い、手紙すら送らなかった。
窓硝子の向こうは別世界だ。
珠、雫、線……形を変え、白く曇った空から、勇んで落ちては見えなくなる雨。
泣いているのか、微笑っているのか。色々な音を奏でながら、何処かへ吸い込まれていく。
辛くてずっと仕舞い込んでいた手紙を出したのは、この雨模様に貴方を重ねてしまったせいね。
丁寧に畳んだ便箋を、紫陽花の押し花で作った栞と共に箱に戻し、ギュッと蓋を閉じる。
初めて出逢った園遊会で、貴方が私に摘んでくれた花。母の死を思い出す憂鬱な雨を、久しぶりに綺麗だと笑えた……大切な大切な想い出。
────さあ、そろそろ焼けた頃かしら。
キッチンから漂う香ばしい匂いに立ち上がり、部屋を後にした。
多くの若い命を犠牲に勝利を収めた大戦が終わってから、もう一年の月日が流れた。
今、テーブルの向こうで、私の焼いたくるみと無花果のケーキを食べているのは、貴方にそっくりな弟。
貴方が戦地へ旅立った時はまだ14歳だった彼も、こうして成人し一家の主となっている。
フォークを口に運ぶ度に細められる、ヘーゼルグリーンの瞳。
手紙を書いてくれた時の貴方と同じ、まだ18歳の若い瞳に、胸が苦しくなる。
最後に貴方に焼いたケーキは、よそ見をしている内に少し焦がしてしまった。もっと美味しいのを食べさせてあげたかった、あれが最後だと知っていたなら、もっと心を込めて焼いたのにと、遠い戦地を想って何度も泣いた。貴方の大好物だったのに……
いつか、無事に帰って来てくれた時にはと何度も焼き続けたおかげで、今はあの頃よりも、もっと美味しくなったのよ。
色々してあげたかった……それすらも許してくれなかった。
そんな貴方を恨めしく思ったこともあったけれど、そんな貴方だからこそ、私は愛した。
向かいから空になった皿を受け取り、お代わりを載せてあげると、彼は垂れた目尻を更に下げて喜ぶ。
こんな所まで……本当によく似ているわ。
「お代わり!」
大きな声に隣を向けば、空の皿がもう一つ、ニュッと突き出される。
もう、まるで子供みたいなんだから……
身体の芯から、じんわりと温もりが広がる。
ぽっと熱くなった手で、とびきり大きく切ったものを載せてあげると、貴方は礼を言い、目尻を下げ顔中で喜んでくれた。
「僕のより大きいですね、兄上」
「夫だからな。お前は自分の妻に作ってもらえばいい」
「はいはい。これを食べたらお暇しますよ。夫婦水入らずのお茶の時間に、お邪魔してしまったみたいですね」
夫よりも数段口達者な義弟は、私と目を合わせ、くすくすと笑う。
「そんなことないわ。素敵な新婚生活のお話を聴かせてくれて、どうもありがとう。今度は可愛い奥様と一緒に来てね」
玄関ポーチで、新妻の元へいそいそと帰る義弟を見送る。
青くさい湿った空気を吸い込んでいると、腕に貴方の重みを感じた。
「雨が上がった。少し散歩しないか?」
「……はい」
片足代わりの杖を突く貴方と、歩調を合わせ歩き出した。
決して広くはない庭の、ささやかな散歩道には、煉瓦の曲線に沿って色とりどりの紫陽花が咲いている。
青、水色、ピンク……紫だけで何種類も。
色や形だけでも飽きないのに、花びらに付いた水滴が光を反射し、宝石の様な輝きを添えていた。
長い指の先でちょんとそれに触れながら、貴方は感慨深げに言う。
「……ローゼ。三年も待っていてくれてありがとう。妻になった君とこうして散歩出来るなんて、思いもしなかった」
私も同じようにそれに触れてみれば、パタタッと水滴が雨の様に落ち、スカートを濡らした。
その鮮やかなリズムが楽しく、思わず笑ってしまう。
「私の気の強さは、昔からよくご存知でしょう? 三年くらい、何てことありませんもの」
「そうだな……君は強い女性だった。初めて逢った日も、歯を食い縛って涙を堪えていたな」
初めて逢った日……
そう、あれは初めて大人用のドレスを着た12歳の時。社交界デビューを兼ねて、父と共に初めて遠縁の伯爵家の園遊会へ招かれた日のこと。
◇◇◇
青空の下で催される園遊会は、想像以上に華やかだった。美しい演奏を奏でる立派な楽団や、長いテーブルにズラリと並んだ豪華な食事。
緊張していた私の傍にずっと付いてくれていた父も、政治の話で盛り上がる紳士達の輪に、とうとう呼ばれてしまう。
仕方なく少し離れたベンチに座っていると、急に空が翳り出し、皆散り散りに屋根や木の下へと避難していく。
急いで父を探すも姿は見当たらず、不安になった私は、その場から離れ走り出した。
雨の日は母を思い出し、勝手に涙が溢れてしまう。
誰にも見られない様に、遠くへ、遠くへと。気付けば広い庭園の外れまで来てしまった。
雨も強さを増してきた為、ひとまず大木の幹に身を寄せる。幾重にも生い茂る葉が傘となり、冷たい雨から守ってくれた。
ハンカチで頭を拭きながら、ほっと息を吐いたのも束の間。幹の裏で、ガサッと草を踏みしめる音がする。
恐る恐る覗けば、自分より少し上くらいの少年と目が合った。まさかこんな場所に、先客が居たなんて……
お互い驚いて固まってしまう。
『……こんにちは』
『……こんにちは』
やっとそれだけを口にすると、太い幹を挟んで裏と表に戻って行った。
困った……これでは泣けなくなってしまった。声は我慢出来ても、すんすん鼻を啜ったらバレてしまうかもしれない。雨の音が上手く掻き消してくれるだろうか……雨の音……
意識を寄せたのがいけなかった。母が息を引き取った時の、窓に打ち付けていた激しい雨を思い出し、身体の芯が冷たくなる。
歯を食い縛り、じっと戦っていると……横からすっと白い何かが差し出された。
……花?
『どうぞ』
『あり……がとうございます』
色のない、真っ白な花。
花びらと葉の形からして、紫陽花だとは思うけれど。
『少し珍しいでしょう。我が家の庭園では、この場所にしか咲かない紫陽花なんです』
幹の裏を再び覗けば、確かにこれと同じ、白い紫陽花が咲いていた。
『綺麗……』
『亡くなった母が好きだったので、よく此処へ摘みに来るんです。途中で降られて、結局雨宿りになってしまいましたが』
そう語りながら、園芸バサミを片付ける少年。
この人もお母様を……
『この庭には、他にも珍しい紫陽花が沢山咲いているんですよ。傘もありますし、小雨になったら、一緒に散歩しませんか?』
◇◇◇
「あまりにも君が……その……可愛くて。何とか笑顔が見たいと、必死で話しかけたんだ。いざ散歩したら、緊張して何も話せなくなってしまったが」
ええ……そうだったわ。それまでの饒舌ぶりが嘘の様に、貴方は黙り込んでしまったけど。
私のペースに合わせて歩いてくれた。自分の肩を濡らしても、私を雨から守ってくれた。
「それでも君は、笑ってくれたね」
何も喋らなくても、貴方の隣はすごく心地好くて。こんなに綺麗な雨なら、ずっと止まないで欲しい。同じ傘にずっと入っていたいと……そう思ったから。
「さあ、今日はどれが欲しい?」
「もちろん、白がいいわ」
貴方は微笑むと、懐から小刀を取り出した。
散歩道の終わりで迎えてくれるのは、白い紫陽花だけが咲く木。そこから器用に一輪摘み取り、私の手へ握らせてくれる。
「ありがとう」
まだ少しだけ口下手な夫は、紙切れ一枚で済ませてしまった婚約破棄の贖罪とばかりに、毎日私にラブレターを贈ってくれる。
一緒に暮らしているのに、書きたいことが尽きないみたい。手紙は特別なんですって。
きっと明日の手紙には、今日のケーキがどんなに美味しかったか、雨上がりの散歩がどんなに素敵だったかが書かれているのでしょう。
全部大切に仕舞ってある、貴方からの想い。
新しい箱も、もうすぐ一杯になってしまうわ。
いつの間にかまた降り出していた雨が、白い花びらを揺らす。
「家へ入ろう」
私は傘を広げると、精一杯腕を伸ばし、彼の優しい肩が濡れない様に、ゆっくり歩き出した。
空からは雨。隣には貴方。
そして手には……私達を結んでくれた美しい花。
この花で、今日の愛しい記憶に、新しい栞を挟もう。
ありがとうございました。