その四(完)
なにか、なにか。
一体あの頃の何を求めているのか、彼自身にさえよくわからなかった。
きれいに様変わりした駅前の、かつての雑多な商店街だった場所を抜けて、少し歩くと、例の懐かしい土手にたどり着いた。
ここもやはり、当然と言うべきか、あの頃とは一切が変わっていた。
風の強い日には土埃の舞い上がる轍だらけの土の道だったのが、今ではきれいにアスファルトで舗装されて、土手の生い茂るすすきや雑草もきれいに一部を残して刈り取られている。
あの夢のあと、彼はさっき彼女と歩いてきたこの道を今度は一人うつむきながら泣きながらとぼとぼと歩いてアパートへと帰っていったのだ。
彼は夢の続きを再現するようにとぼとぼと歩き、やがてアパートにたどり着いた。いや正確には、アパートだった場所というべきだろう。たぶんここだよなぁ…と思う場所は、なんの味気もないだだっ広い駐車場になっていた。
彼は立ち尽くし、行き止まりを感じた。
ここにはもう、何もない。何も残ってはいないのだ。まわれ右して、もと来た道をそのまま再び歩き出す。さっきよりもなお足が重い。ため息ばかりが出て、何もかもがつまらなく思われた。
なにかないか。あの頃を少しでも思い出させてくれるなにか、無いだろうか。
すっかり小綺麗になった土手の道を再び駅へと歩く。
川に沿ってしょんぼりと歩きながら、ふと静かな川面に目をやった。
大きな丸い月が川面に微かに揺れている。変わらぬ流れがそこにあった。
ああ、変わらない。あの夜と、あの頃と何も変わっていない…。
さらさらと水の流れゆく川の流れとその水面に写る月の影とは、それだけは、かつてとなんら変わりなくてそれこそ心の中の色褪せた風景そのままである。
しょんぼりと落ち込んでいた彼にはそんな事実が妙に嬉しくひどく懐かしく思われた。
あった。
ここにはあった。
あの頃毎日通った匂いがまだ微かに残っている。
彼女と最後に歩いたこの道、この景色。
ここを二人は何度歩いたことだろう。淡く儚くキラキラと輝く二人だけの時間をどれ程過ごしたことだろう。二人でいるだけで満ち足りていた。
そんなかけがえのない日々も確かにあったのだ。
緩やかに流れる川面を眺めながら、あの頃の何気ない日々が果てしなく鮮やかに思い出されて、訳もなくただ涙が滲んできた。
今も駅の方から若い男女がなにか楽しげに笑いながら歩いてくる。
まるであの頃の彼と彼女のように、世間知らずで今の恋に夢中になってただ二人でいることが世界の最重要課題で、相手の笑顔一つで世界が明るくなるような、そんな濃密な時間。
いいなぁ、懐かしいなぁ。
猛烈に唐突に、あの夜あの駅前で彼女に振られた時の自分が遠く懐かしく思い出されて、落ち込んで死にそうな背中に、優しい声をかけてやりたくなった。
バカだなぁ、元気出せよと、かつての自分に慰めと励ましの声をかけてあげたい思いがこみ上げてきた。
あの時の素っ気なく寂しげな彼女にも、叫びたかった。不甲斐なくてごめんね、今なら少しはわかる気がするよ、君の気持ち。仕方ないよねと。
今日を今を最高に幸せそうに生きる若い男女が楽しげに語らいながら、彼の横を通りすぎてゆく。
まるでいつかの二人のように。
彼は涙が止まらず困惑していた。いわば一つの失われた青春への惜別の涙であった。
思い出を振り返る時間は短い方が良い。
現実に引き戻されてしまう前に、さっと帰ろう。
今の感動した心を現実に汚されたくなかった。
彼は今歩いてきた道を、涙混じりの鼻をすすりながら駅へと戻り始めた。
道すがら、さっきは急いでいて気が付かなかったのか、暗い住宅街の片隅に古びた赤提灯が目に入った。感傷的になっていた彼はその赤提灯をみるやいなや無性に酒が恋しくなった。飲もう。一杯だけ。
そっと引き戸を開けて、小さなその居酒屋に入る。
店の中はひどく静かだった。この辺の人らしい老人が二人、奥の座敷で飲んでいた。
店内には暖房が効いていて、今まで気が付かなかった寒さの緊張が解きほぐされてゆくのを感じる。
ああ、いらっしゃい。
小柄な短い白髪頭の大将と奥さまだろうか、切れ長の目が往年の美しさを物語る割烹着を着た老婦人の女将とが声を合わせて彼を迎えてくれた。
カウンターの隅に座り、熱燗を注文した。
つきだしは大根とがんもどきの炊き合わせだった。
チビチビと飲んでいるうちに体も暖まってきた。
小柄な大将が、この辺りの方ですか?と気さくに話しかけてくる。
彼は一寸照れたような微笑を湛えて応えた。
いや、昔この辺に住んでいてね…。ふっと懐かしくなって訪ねて来たんです…。
そう、この辺も随分変わってしまったでしょう。
慰めるような大将の優しい声に、思わずまた涙がにじんだ。
ごちそうさま。
そういって店を出た。
外はさっきにも増してひどく寒い。けれども今は体の芯が暖かいのでさほど寒くは感じない。ひんやりと冷たい風が、むしろ火照った頬に心地よい。
今、彼女はどうしているだろう。どこかで幸せに暮らしているだろうか。
ほろ酔いの故か、そんなことも考えた。
夜空を見上げると、大きな月とちりばめられた星達が遠く輝いている。
彼はふと、なにもかもに取り残されて独りぼっちになってしまったような寂寥感にすっぽりと包まれてしまった。
あの頃の自分にもまた彼女にも、今をともに暮らす妻にも会社の人々にも父にも母にも友人知人の誰もかもに、置き去りにされて取り残されて、独りぼっち。
思えば、みんなか細い一筋の糸で結ばれたりまた離れたりしてしまうひどく曖昧であやふやな頼りない存在であり、それこそ一寸先の関係性さえ不確かななかに辛うじて生き永らえている。
その限りない頼りなさのなかで巡り会えた奇跡と別離のあまりのあっけない儚さ、そして歳月を経てすっかり変わってしまった今日の自分がふっとまたここに立っているという不思議さに、彼は古い井戸の底から遠く夜空を見上げるようなどこまでも深く乾いた孤独を覚えた。
一期一会。
それさえもほんの一時の感傷に過ぎないとしても、自身の苦しいほどの切ない風の吹く胸中に強く強く抱かざるを得なかった。
今を、その感傷を思い出にして大事にしよう。
ここに来て良かった。再び来て良かった。
彼は再び駅へとゆっくり歩き出した。
孤独の吹き荒れる胸の中に形のない大事なこわれものをそっと抱き抱えながら。