その三
何故走り出したのか。
彼自身にもわからない。
得たいの知れない不安と、その裏側にひっそりたたずむ期待とに胸がいっぱいのまま、走り続けた。
背後に乗ってきた電車が彼をホームに置き去ってゆっくりと走り出す。
もう戻れない。行くしかない。ホームの階段まで全速力で突っ走り、階段を一段飛ばしで駆け上がりまた飛ぶように駆け下りて飛鳥の如くに鋭い動きで改札をしゅっと抜けて一気に駅前広場まで走り出る。
そこまで来て、彼ははたと立ち尽くした。
急に立ち止まったことには特に意味はない。
ただ、疲れ果ててしまったのだ。
本当は格好よくどこまでも駆け抜けるはずだったのだ。それだけの情熱もあった。だけれども、そうもいかなかっただけなのだ。そこまでが走る限界だったのだ。
激しく息は切れるし、膝は痛いしで、もう一歩も歩けそうにない。
残念ながら彼はすっかり力尽きてしまったのだった。そう、いつの間にか、彼は自分が思うほどの若者ではなくなっていた。
こんなもんかなぁ…情けないなぁ…おかしいなぁ…。
一人首をかしげ、失意のうちに日頃の運動不足を後悔しつつ、それゆえの激しく荒い呼吸を整えようと、両手を膝に置く。
すれ違う人々が心配そうに、若干怪訝そうに、彼を横目でチラと見ながら通り過ぎていく。みっともない位に、はあはあと肩で息をしながら、彼はやっとこさ顔をあげた。
えっ?と思った。
降りる駅を間違えたのだろうかとも思った。
それほどに、眼前に広がる駅前の景色の変貌に目を疑いたくなった。
ああ、違う。なにもかも、違う。
そこには昔の面影は微塵もなかった。
かつてはなかったご立派な商業ビルが何軒もずらりと建ちはだかり、そのテナントに入っている今風のおしゃれなチェーン店がキラキラとネオンを光らせている。良くも悪くもすっきりと洗練されていて、雑然としていた昔の商店街の香りはそこにはなかった。
二十年。
思えば長い歳月が過ぎているのだ。
何もかもが変わるのに充分過ぎる時間が経過していた。
彼も自分が意識しておらぬだけで内面も外面もずいぶん変わった。
新陳代謝の速い駅前の景色なぞは変わらない方が不自然である。
彼だって内心わかってはいた。昔のままな訳などないと。見ればがっかりするに決まっていると。
むしろ、そのがっかりを恐れていた節すらある。
理屈ではわかる当たり前の事なのだが、感覚はまた別物である。
いざ目にして見ると、なんだかひどく虚しく、がっかりしてしまった。
大袈裟でなく彼はまるで浦島太郎の気持ちであった。
変わったなぁ。
彼の心にはまだあの頃の地味な下町風のこの街が色濃く残っていたのだ。それだけに、変貌を遂げてしまった街並みへの失意もいささかあってがっくりしてしまった。
しかし、いつまでも駅前で寂しい感慨に耽ったまま立ち尽くしているわけにもいかない。
ここは彼の知るかつての街ではない。すっかり他人の顔をして、お洒落に上品にツンとすまして彼を黙殺している。
彼は最早ただのよそ者に過ぎなかった。
どこにも居場所はなかった。
なんとなく、冷めてしまった。
もういいかな。だいたいさっきはどうかしていたのだ。いや、あんな夢を見たからどうかしてしまったんだ。きっと疲れているだけなんだ。
寒くなってきたし、もう帰ろうか、とも思った。けれども、それも虚しい。
もう少しだけ、なんとかあの頃をその匂いを気配を感覚を取り戻したい。せっかくここまで来たのだ。
燃え尽きそうな情熱の残り火をかき集めて、彼はよろよろと歩き出した。