その二
過去。
誰にでもある、ありふれた切ない思い出。
心の古いアルバムの奥にしまいこんだまま色褪せたはずの思い出が、何故か唐突に色鮮やかに甦ってきた。
心のなかがぐるぐると渦を巻いている。混沌としたもやが胸中に舞い上がり、何も見えない。
やれやれ…。
ため息をついて上半身をお越してそっと涙を拭いながら、情けないなと小さく呟いた。
ふとした気配に横を見てみる。
隣に寝ている妻は安らかな顔ですやすやと小さな寝息をたてている。
のんきなその寝顔に少しばかり安堵して、妻を起こさぬようにそっと布団を脱け出した。
台所に灯る暖色の常夜灯を頼りに流しの蛇口をひねる。
暖色に照らされた小さな水の粒子が集まって一つの滝のように勢いよく落下してシンクに当たり粉々に砕けてはまた緩やかに排水溝へと流れてゆく。
覆水盆に返らず。
そんな言葉がふと脳裏に湧き出でて、彼の言葉にならぬ失意を一層重たくした。
いかん。こんな事じゃいかん。
滝のようなその流れを途中で一気に掬い上げ、バシャッと顔に叩きつける。
その勢いで再び水を掬い上げ、今度は一息に飲み干した。
彼は激しく頭を振って顔面の水滴をはね飛ばす。
やっと少し落ち着いたのか、思わず奥底からホッとため息が出た。
まだ朝まで時間がある。
眠られるかどうかわからないが、とにかく寝よう。
流れる水を止めて、最後の一滴がポタリと落下して砕けるのを見つめながら、彼は自分にそう言い聞かせた。
彼は忙しい身の上である。今を生きているのである。今日も明日も明後日も、朝から晩まで仕事である。
その仕事だって、いつ何時首を切られるか分かりはしない。
身をすり減らし、心をすり減らし、追い立てられるようにして今を生きている。
過去の記憶に囚われているゆとりは今の彼には無いのである。
すっかり冷たくなった布団に再び横になり、やはり眠られない。何も考えられない。ただもやが渦巻いている。
一時間でも、いや一分でもいい。眠らなければ。
目を閉じたまま、焦燥のうちに幾度となく虚しい寝返りをうち、そんなこんなのうちにやがて朝の足音が聞こえてきた。
近所の庭になった果樹の実を食べに来る鳥たち、その声で彼はようやく僅かな浅い眠りに就いた。
「おはよう」
いつもと変わらぬ妻の明るい笑顔につられて彼も小さく笑いながら、おはようと応えた。けれども、何故か気まずくて妻の顔を直視できない。
そうだ。
もう朝なんだ。
遠い過去の感傷にぐったりと浸っている暇なんかないんだ。
やたらごしごしと顔を洗いながら自分に気合いを入れようとしたが、朝食のテーブルに着いてみても、妻の話が耳をすり抜けて何処かへ行ってしまう。
何か聞かれたと思っても、なんだかわからないまま、ああ、とかうん、とか上の空で返事をしている。
風邪をひく前に、変にだるい時がある。頭がスッキリせずにぼんやりとしたあの感覚。
今朝の彼はそれに似た違和感を覚えていた。
これはどうにもダメなようであった。
やはりというか案の定というか、その日は仕事もどこか手につかず、ひどく虚ろなまま一日が過ぎていった。
家路についても頭はぼんやりしたまま、なんとなく彼女の懐かしい顔が脳裏に浮かんで離れない。
やはり彼はどうかしていたのだろうか。
駅の改札を通り、いつもの家路へと向かう電車内には彼の姿はなかった。
彼はどこにいるのか。
一寸あちらこちら視点を移してみると、いた。
家とは真逆の方向に向かう電車の、人気もまばらなホームの真ん中で、彼は一人ポツンと立ち尽くしたまま電光掲示板をぼんやりと眺めていた。
そこに表示されている地名は、学生時代、彼の若かりし頃に住んでいた地名であった。
一本目の電車が来る。
彼はぼんやりと電光掲示板を眺めたまま、それに乗る素振りすら見せなかった。
十分ほどして二本目の電車が来る。
彼はドアから降りる人々を、また慌ただしく乗り込む幾人かの人々を遠くぼんやりと見つめていた。
彼は果てなく逡巡していた。
やがて三本目の電車がホームに着いた。
また、数多の老若男女がどっとホームの冷たいコンクリートに降りてくる。
駅員の気だるいアナウンス、間も無くドア閉まりますという声に彼は震えた。いつまでもこのホームに佇んでいる訳にはいかない。帰るか、いや行くか。
彼は逡巡の末に走り出した。
発車のベルと共にドアが閉まり、アナウンスと平行して電車がゆっくり走り出す。
それはなにか運命の人生の歯車の動く音にも聞こえた。
車窓の向こう、立ち並ぶビルが通りすぎてゆく。
彼はひどく虚ろな心でその無機質な景色を見送っていた。
目を閉じて、ざらついた頬を指輪のしている左手でそっと擦りながら、右腕では自身の胸の激しく脈打つ鼓動を抱き止めていた。
正気か。
今更何をしにいく。
意味がない。
明日も早いというのに、自分は何を考えているのか。
小さく舌打ちをしてみても、自分が何故あの駅に向かおうと思うのか、何故にためらいながらも電車に乗ってしまったのか、彼には自身の心が何もかもがわからなかった。
市街地と住宅街を縫うように潜り抜けながら、彼の心などお構いなしに電車はどこまでも走り続ける。
やがて懐かしい駅の名が無機質な声色でアナウンスされた。
彼は車窓から外の景色を食い入るように見つめている。
いつも通ったこの沿線の景色。なにもかも変わってしまったはずなのに、なんだか無性に懐かしい。
どうする。
どうせここまで来たのだ。あの駅で降りよう。
いや、今更何を考えている。何をしに何処へ行くのだ。
駅が近づくにつれて不安に高鳴ってゆく鼓動を必死に抑えながら、彼はぎゅっと目を閉じた。
心の奥底の何処かで、何かわからないがときめきに似た何ものかが古傷のようにうずいているのを感じていた。
電車が徐行し始めた。
あの駅に、着く。
降りようか、いやこのまま目を閉じたまま終点まで行って、そのまま折り返して家路に向かおうか。
ぐるぐると渦に巻き込まれたまま、電車はゆっくりと停車した。
懐かしい駅名が車掌の気だるい声で繰り返しアナウンスされる。
間も無くドア閉まります…。開いたドアにアラームが聞こえる。
なんだろう。自分であって自分でないような不思議な力で、彼は鋭い反射を見せた。
数秒の隙間をかいくぐってホームに抜け出し、ため息をつく間も無く、改札へと駆け出していた。