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惜別  作者: 若葉
1/4

その一

二人、ただうつむきながら歩いていた。


きれぎれの雲間から溢れる一筋の月光がスッと二人に伸びている。

街灯もない暗い道に、二人の影がまるで真昼のような白い月明かりにくっきりと縁取られて、長く間延びした影絵のように揺れている。

いつになく、やたらと明るい夜だった。


一見穏やかな光景である。秋の夜長をぶらぶらとあてもなく逍遙する、ごくありふれた男女二人のように見受けられる。


二人、枯れすすきがささやかな風にあわせて波のように揺れるのを横目に眺めながら、川から一寸せりあがった小さな土手の一本道を重い気持ちでのろのろ歩いていた。

土手に生い茂るすすきの向こう、川面に揺れる静かな月を横目にしながらも、彼の心中はあまり穏やかではなかった。

なんというのか、彼はひどく気が重く、そして弱気になっていた。


彼女がいつもと違う。

どこがと言われてもうまく表現できない。ただ妙に距離を感じるのだ。

彼には別に浮気をしたとか約束を破ったとかの覚えはない。ただ、なんとなく彼女のさりげない仕草や言葉からツンと張り詰めた気配が漂ってくるのを、そばにいてひしひしと感じるのだ。

何かある。

彼女が何か決定的な言葉を発するのが、彼自身にとって非常に深刻なダメージを与える気がして、彼はその一言にひどく怯えていた。

無言のうちに、ただ轍の草を避けて歩くその足音ばかりが繰り返される。


月明かりを受けて冷たくさざめく川面を風が渡ってくる。

晩秋の夜風はいささかひんやりとした湿気を帯びていて、言葉のない二人のほほをやさしく撫でながら通りすぎていった。


「本当にいい風」

重苦しく二人にのしかかる沈黙を打ち破るように、彼女は耳にかかる髪をかきあげながら呟いて小さく乾いた笑いを口許に浮かべた。

彼は彼女の冷たくも寂しげな横顔をちらと見てはまたしょんぼりとうつ向いて、気の効いた返事もできないまま、ただ沈黙していた。


「じゃあ駅までもうすぐだし、この辺でいいよ」

彼女はやはり乾いた笑い混じりにあっさりと彼に手を振る。

彼は驚きと共にはっと首をあげて、おろおろと彼女の目を見つめた。

微笑している彼女。しかしその目は一ミリも笑ってはいなかった。頼りない彼への失望。いや、怒りすら感じられた。


「いや、駅前まで送るよ」目を伏せるように再びサッとうつむいた彼は、絞り出すような声でそう応えた。

彼女の顔も直視できずに、しどろもどろにそう応えるのが精一杯だった。

彼女のどこか冷たい口調に突き放すものを感じて、彼は狼狽えてしまったのだ。


別れたくない。

その言葉が喉まででかかって、何故だか言葉にならなかった。


二人は駅までの僅かな距離を惜しむように、ゆっくりとした足取りで一歩また一歩と川沿いの土手を歩く。

彼女が常に彼の半歩前を歩く。彼は彼女に遅れまいと重い足並みを合わせる。

やっと追い付いたと思うと彼女の脚はもうゆっくりと動き出している。

賑やかな商店街を進む。商店街の向こう、もう遠く小さく駅が見えてきた。二人はお別れへと歩くしかなかった。


「さよなら」

伏し目がちに彼女は短くそう言った。もう何もかも諦めてしまった様子であった。


何か言わなきゃ。

これは一時のばいばいまたね、という尋常の挨拶とはまた一味異なったニュアンスを確かに含んでいる。

すなわち二人の交際そのものに対するさよならの意味が多分に含まれているように感じられる。


彼女がなにか訴えそうな面持ちのまま軽くうつむいている。

彼はただいたずらにあたふたと焦るばかりで、無数の言葉は呆然と立ち尽くす彼の脳裡を音速で通り抜けて行く。


「うん。さよなら」

違う違う。今言うべきはそれじゃないだろうが!

寂しく微笑して小さく手を振りながらも、彼は内心歯噛みして地団駄を踏みたい気持ちになっていた。

己れの言葉足らずが恨めしい。

もっと言葉が出てこないものだろうか。言葉が出ないなら出ないで、いっその事にみっともなくていいから泣きついてでも彼女を引き留めたかったけれど、さよならと言うときのピシャリと目を、またその心を伏せてしまった彼女に対して、彼はあふれる思いのほんの欠片さえも言葉に行動に出来なかった。


彼女はなおも黙ってしばしうつむいていた。そしてきっと顔をあげて彼の目を見つめた。彼女のその目には、さっきよりもなお色濃い諦めと失意と深い疲労の色があった。


やがて彼女はもう一度小さく、さよならと呟くやいなや彼に背を向け改札へと足早に歩き出した。


駅の改札に向かう彼女のうつむいたまま寂しそうな横顔が見えた。彼にはどうすることもできなかった。

ただ呆然と彼女を見送るしかできなかった。


改札を通った後、ふいに彼女が彼を振り向いた。彼女の唇が動いて何か呟いた気がした。


駅のアナウンスやら雑踏のクラクションやらの混沌とした雑音にかき消されて、その微かな最後の言葉はついに彼には届かなかった。


次第に小さくなってゆく彼女の背中を、その姿が人波に溶け込み消えるまで彼はぼんやりと見つめ続けるしかなかった。


もうだめだ。

そう思った。

不思議なことに彼はホッと安堵していた。

無論やるせない悲しみは取り返しのつかぬ痛みと共に胸をギリギリ締め付けている。

だが、それと同時に、いわば煩悶から解放された安堵が確かに彼の中にあった。

彼はただ唇を噛んで立ち尽くしていた。

すっかり消えてしまった彼女の幻影は彼を人波流れる駅前にいつまでも立ち尽くさせていたのだ。



はっと目が覚めた。まだ暗い。

視界がぼんやりと霞んでいる。どうやら夢を見ながら泣いていたらしい。

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