未亡人となった側妃は、故郷に戻ることにした
「カトリーナ・アルダセン! お前との婚約を破棄する」
そんな他愛のないセリフを叫んだのは誰でもない婚約者のアーリストンだった。
十六歳。
二歳歳下の枯れ葉色の髪を長く伸ばした、この国の第二王子だ。
彼は常識にいささか欠ける人だったから、(世間知らずとも言うが)、この程度のぶしつけな言いざまに腹を立てても仕方がない。
私はいつものように、はいはいそうですね、殿下、と返事をする。
わかりましたよ、と頷いて彼の自尊心を尊重する。
そして近寄り、頭一つ背の低い彼を抱き締めてやるのだ。
「王子、本日はこのくらいに致しませんか? かような人の多い場でそんな発言を幾度もされていたら、アーリストン、あなたの価値が下がってしまいます」
「むっ……その様なことがあるはずが。僕はこの国の王族だ。誰もが称賛し、崇拝する存在の一人だぞ!?」
しかし、私の胸に顔をうずめているその姿はなんというか……子供が威張っているようにしか見えない。よしよしと頭を撫でてやりながら、彼の厚顔無恥ぶりはどこまでも痛々しい。
どうして祖先の栄光を自分の手柄のように語れるのだろう。
偉大なのは初代様やこの国が滅びの期を迎えた時、懸命に働き国を建て直した賢王たちであって、まだ何の実績も遺せていないあなたには何もない。
あるとしたら、王族という血筋が持つ価値、それなのに。
「はいはい、左様でございますね王子様」
「ええいっ、いつまでも子供扱いしおって! 失礼なやつだ!」
そう言うけど、あなた自分から胸の中に飛び込んできたじゃないアーリストン。
彼は腕の中から逃げるようにして、別の女性を目指して走り出す。
「ちょっと、アーリストン?」
「お前なんか黙って婚約破棄されてしまえばいいのだ、カトリーナの馬鹿め!」
「まあ、なんて口の利き方……」
これで王子様なのだから、呆れてものが言えなくなる。
大事なことを何も教えない取り巻きたちといい、彼が政治の中枢にいる貴族連中から都合よく扱われていることは明白だった。
これはいつまでも続けさせたら問題になるかもね……。
などと思っていると、後ろから泥棒猫の甘い声が彼に向かいささやいていた。
「そうでございますわ、アーリストン王子様。貴方はこのクレイドル王国の華、偉大なる建国王の正統なる血筋。そんな素晴らしい神に選ばれた支配者である王子がいらっしゃることが、わが国の貴族のひいては下賤な民の誇りなのですから!」
「おおっ、シルフィーネ。その通りだ、お前こそ僕の想いを理解してくれるただ一人の麗人。僕の妻に相応しい」
なんて毎度のごとく繰り返される喜劇も、最初は滑稽で笑える。
だけどそれが二度目、三度目ともなると、呆れを通り越し、周囲の目は奇異の目から侮蔑の視線へと姿を変じてしまう。
私は喜劇役者に成り果てた二人にまた同じような忠告をして、この女狐を王子から引き離さなければならない。
それは何気に気疲れのする、肩が凝り頭痛とめまいをひどく感じる行為だった。
「ナゼル侯爵令嬢シルフィーネ様。多くの臣民が見ている前での今のような発言は控えて下さいと何度も何度もお願いしたはずですよ。そろそろ、お願いではなく警告としておきましょうか?」
「警告!? 王子、この外国女がこんなことを!?」
「カトリーナ、お前……っシルフィーネになんて物言いを! お前は南海を隔てた同盟国アルダセン帝国の人質のようなものだろうが、控えろ。僕に恥をかかせる気か、馬鹿女め!」
とまあ、本人としては威厳を込めて叫んだつもりなのだろう。
しかし数分前までこの胸の中で甘えていた少年がどう背伸びをしたって所詮は付け焼刃。
かっこよくもなく、ただただ恥をまき散らすだけだ。
権威・権力を盾にするなら、彼には現実を知らしめて退場してもらおう。
いや、彼ではなく泥棒猫に、かな。
「いいですか、アーリストン。私は最初、王子の父上――先代の国王陛下の側室としてこの王国に帝国からやってまいりました。そこにあるのは国同士の同盟。王国は格式と歴史はありますが国土の周りには、別なる神を信仰する国家群がひしめいています。帝国は歴史も浅い新興国ですが、王国の歴史と権威を欲しがり王国は帝国の武力を互いに必要としました」
「だっ、だから――なんだというのだ。所詮、お前など父上に愛されもしなかった廃棄妃ではないか!」
「廃棄妃と言われますかー……」
廃棄妃とはこの国の隠語で、側室になったもののその夫に死去され、抱かれることもなく側室の地位を追われた女を指します。
王弟閣下は現国王となり、帝国との同盟を重視したのか、この第二王子の婚約者として私を下賜されました。まあ、それはそれで両国のためになるなら、と我慢していたのですが……。
「廃棄妃。無用の女は帝国に戻られてはどう?」
「……うるさい泥棒猫は黙っていなさいな、シルフィーネ様」
「なっ」
どれだけ王子の寵愛を受けようと、たかだか十五歳の少女。
口がよく回るだけの馬鹿な女に過ぎません。にらみつけると、彼女は青い顔をして黙ってしまいました。
これも私が王子を甘やかしすぎたのが原因かもしれません。
婚約破棄なんて言葉をどこで覚えてきたのやら。
少しだけ自戒しながら、女同士の戦いに勝利した私はとりあえず溜飲を下げます。
その勢いで再び王子に説教を――と思いましたが、ここは一計を講じるのもいいかもしれません。
思いついたら吉日。
どこかで耳にしたその例えに従い、王子を引っ掛けることにしました。
「廃棄妃。それもそうですね。では王子、そんな価値の無い女はこの王国に相応しくない、と。そうお考えですか? そちらのシルフィーネ様の方が正妃には相応しいと、そういう理解で宜しいでしょうか」
「ま、まあ。そういうことになるな。お前が正妃など、思い上がるのもいい加減にしろ、帝国の人質のようなものじゃないか」
「否定は致しませんが、そのお言葉。王国を代理する発言として正式に受けますがいかに?」
「正式? ……いいんじゃないのか? 僕は王子だし……」
まあ……いいのなら、いいですかね。
そういうことにしておきましょう。後始末は王国内の優秀な官僚に任せればいいのですし。
皇后陛下――おばあ様もうるさくは言わないでしょう。多分。
そこまでさっさと心の中で決めると、私は王子にかしこまりましたと返事をし、一礼を。
スカートの裾を手元で抑え、親指と人差し指で作る輪を優雅に丸く広げて、生地に添わせて腰をかがめる。
遠目にはスカートの裾をちょこんと掴み、持ち上げたように見えるかもしれませんが。
そうした当たり前の作法すら、今しがた王子が喜劇を披露していた学院ではまともに教えられません。この国の後継者教育に行き詰まりを感じる私には、帝国と王国の同盟には暗い未来しか見えないのでした。
この事は王子に最初の婚約破棄をされた時から数度に渡って母国に報告しており――皇后陛下からは帰国しても構わないと内々に許可を得ていたのです。
ただ、同盟とか婚約とか廃棄妃とかそんなものはどうでもよくて。
婚約破棄とか正妃とか側室とかそんなものもどうもでもよくて。
六年前、この国に輿入れしてきた私にとって、歳下の義理の息子が可愛くてその将来を支えたいという一心で耐えて来たのですが。
そろそろ限界というものもやって来たようなのです。
その数日後、陛下や親しい友人たちに挨拶をし、そっと世間に知られないようにして、私は第二の故郷である王国に別れを告げたのでした。
「まあ、なんというか。それでも頑張るのですよ、アーリストン。貴方は私の愛した陛下の息子なのだから」
そんな訳で。
私、カトリーナ・アルダセン。
アルダセン帝国第四皇女、(未亡人)は次こそは愛する男性を失わない人生に恵まれますようにと、帰国の途中で神に祈ったのでした。
追記:私の帰国から数年後。王国との同盟は帝国から一方的に破棄されたようです。
これにより王国は列強諸国との戦争に突入するようですが……。
まあ、それは仕方が無い事と割り切ります。
アーリストン王子、頑張るのですよ、と私は心でエールを送ったのでした。