6.リットの事情
「リット、起きなさい。はやく支度するの」
急に肩を揺すられて、リットは目を覚ました。
薄暗い部屋の中、ジゼルが真剣な目で彼を見ている。
いつもやさしい、リットのかあさん。
そのいつにない表情に、リットは急に不安になった。
「かあさん、どうしたの?」
「いいから、はやく準備なさい」
手渡された鞄に、わけもわからないまま必要なものを詰めていく。
詰め終わる前に、リットはジゼルに手を引かれた。
「出発するわ。急いで」
「でも、まだ詰め終わっていないんだよ」
「もうだめよ。行きましょう」
手を引かれるまま、リットは階段を降りて玄関へとむかった。
「ねえ、父さんは?」
「お父さんはあとでいっしょになりますから、今は・・・・・・」
そういって、ジゼルは玄関のノブに手をかけた。
「おや、こんな夜更けにどこへいかれるのですかな」
びく、と震えたジゼルに、リットは声のしたほうへ目をやった。
蝋燭の明かりも届かない暗闇の中、闇と同じ色の鎧を着た男が、かろうじて見てとれる。
「無礼な、ここをクライトン家の屋敷と知ってのことか」
「もちろんです」
男は、暗闇からでて一礼する。
「騎士ごときが、なに用か!」
代々、ゴルドー帝国でビーストテイマーの職に就いているリットの家。
クライトン家を、帝国は爵位をもって報いている。
その屋敷ともなれば、一介の騎士に立ち入っていい場所ではなかった。
「これは申し遅れました。私はルイ。先日、一軍の将に任じられたばかりであります、以あとお見知りおきを」
「将軍、ですって?」
「といいましても、得意なのは世渡りばかりで。いくら出世しても、承るのは使い走りばかり。ほら、ちょうど今日のように。」
リットはジゼルの袖をぎゅっと握った。
その腕が、細かく震えているように感じる。
「まさか、あの人は・・・・・・」
「それは、私の口からは申し上げられませんな。いやはや世渡り下手、というのもあそこまでいきますと同情を禁じ得ない」
ジゼルはそれを聞いて、口を引き結んだ。
彼女の夫、リットの父であるチェスターが、帝国上層の不興を買って処刑されるかもしれない。
そう聞いたのは、つい半日前のことだ。
「それにしても奥方、ジゼルさまは噂に違わぬお美しさで」
「なにを、こんなときに」
ルイはジゼルに歩み寄った。
「どうです? これから、私の新居にいらっしゃるというのは。場合によっては、私があなたがたを保護さしあげてもよろしいが」
ルイがかるく外を示した。
つられて顔を動かしたリットの目に、いくつものかがり火が飛び込んでくる。
クライトン家の屋敷は、何人もの帝国兵に囲まれていた。
「ふざけるのもいい加減にして。息子の前で、なんということを。誰があなたのような者のところへ・・・・・・」
「そうですか。仕方ありませんな」
ガン、とルイが大きく足踏みした。
それを合図に、何人かの帝国兵が屋敷へと踏み込んでくる。
帝国兵はルイになにかの紙を手渡した。
彼はそれを広げてかかげ、リットとジゼルに向けて示す。
「リット・クライトン、並びにジゼル・クライトン。そなたらはチェスタークライトンに連座して、国外追放処分とする」
「そんな、こんな小さな子どもまで! せめて、リットは・・・・・・」
「その言葉、一刻前にお聞きしたかったですなぁ」
にやにやとわらいながら、ルイが言った。
続けて、彼の部下が進み出る。
帝国魔道士。
そう理解したときには、魔道士は呪文を唱え終わっていた。
「ぐ、くぅぅ」
不意に、強烈な痛みを覚えて、リットはうめき声をあげた。
左の、手首だ。
灼けるような赤がそこにあった。
たちまちのうちにそれはどす黒く変じ、消えない腕輪となって定着する。
「リット、大丈夫? ああ、こんな、酷い・・・・・・」
同じように腕を焼かれるのに耐えながら、ジゼルはリットの腕をとりさする。
「いやあ、私も、こんなことはしたくないのですよ。あなたが私の誘いにつれなくしなければ、こんなことには、ねえ」
にやにやとした貌を隠そうともせずに、ルイがいう。
「まあ、これより先、もう二度と会うこともないでしょう。お名残惜しいですが、さよならです」
くい、とルイは顎で合図した。
帝国兵たちが、ジゼルとリットにてをかけて、強引に引きずっていく。
「ごめんね、リット、ごめんね」
無理矢理に引き離されるまで、ジゼルはリットの手首をさすり続けていた。
□■□
そのジゼルももういない。
帝国を追放されてから、リットとジゼルに心安まるときは訪れなかった。
彼らが追放者としれるや、周囲の目は急に鋭く冷たくなり、ふたりを苛なむ。
手首の文様を隠せば、あたりに紛れることも出来はしたが、それは本当にいっときのことだった。
どこからか、誰からか、リットたちが追放者であることが、いつのまにか知れ渡ってしまうのだ。
何度も何度も、たどり着いた場所を追われるうち、ついにジゼルが病に倒れた。
追放されてから、どんなときでもリットを優先し、やさしく接し続けてくれたお母さん。
最後のときまで、それはかわることがなかった。
「リット、強く生きなさい」
冷たくなりかけた手で頬をなでながらジゼルはいって、それきり目を覚まさなかった。
ジゼルが眠る街をすら追い出されて、そうしてリットはとある街にたどりつく。
大陸の東の果て。
そんな辺境の街にしか、もう行けるところはなかったのだ。
くぅくぅとおなかがなっている。
この街までの馬車代で、所持金はほとんど尽きようとしていた。
「おい、兄ちゃん、どうしたぃ? 腹ぁ減ってんのか?」
確かにその通りだったけれど、リットは答えずうつむいた。
声をかけて来た男は、ちらりとリットの左手を見ると、それでも気にせず近づいてくる。
「それなら、この先の修道院へ行くといい。今日は炊き出しの日だからさ」
リットが追放者だと知ったあとも、親切にしてくれた人がいなかった訳ではない。
けれどもそれらの人はすべて、あとになってリットやジゼルに酷いことをしてきたのだ。
だから、リットはこの男のことも信用していなかった。
「今日もいらっしゃるのかしら、アンネローゼさま」
「当然だろ? あの方が来なかったこと、いままで一度だってないはずだ」
「アンネローゼさまから炊き出しをいただけると、これからまた一週間、がんばろうって気になるんだよな」
ちがいねえ。とあたりの人たちが頷いている。
どうやら、炊き出しをしている、というのはほんとうらしい。
リットは修道院へむかう人の流れに乗って、そこへむかった。
修道院には、長い列が出来ていた。
列の先は見えないけれど、並んでいる人は誰もが笑顔だ。
人々は口々に、アンネローゼという王女さまの話をしている。
なんだか、よほどみんなに慕われているみたい。
「おい、こいつ追放者だぜ!」
ふいに、リットの左腕が捕まれて、晒されて、それから激しく突き飛ばされた。
しまった。
不思議なことに、周りの人があまり気にしないふうだったから、彼は手首を隠すことを忘れていたのだ。
結局、ここもいっしょなんだ。
そう、リットは思う。
追放者のいていい場所なんて、この世界のどこにもありはしないのだ。
絶望しかけたリットの耳に、
「あなたたち、ダメよ、ちゃんとならばなきゃ」
鈴のようなその声が、はっきりしっかり鳴り響いた。